自転車にまたがって、ペダルをこげばどこにでも行ける――が、その「自由」は一日にしてならず。書評家・石井千湖の琴線に触れた、“自転車乗り”が紡ぎだす3冊をご紹介

BY CHIKO ISHII

ミュージシャン、デヴィッド・バーンの
豊かな視点を読む『自転車日記』

 近ごろ街を歩いていると、シェアサイクルのステーションが増えたと思う。自転車を持っていなくても、気軽に乗れる環境が整いつつあるのだ。デヴィッド・バーンの『自転車日記』(東辻賢治郎訳)は、今この環境のなか、これから自転車に乗りたい人、すでに自転車を愛用している人、旅が好きな人、都市論や芸術論に興味がある人にもおすすめしたい。

画像: 『自転車日記』 デヴィッド・バーン 著、東辻賢治郎 訳、ブックデザイン 伊藤滋章 ¥3,300/鹿島出版会

『自転車日記』 デヴィッド・バーン 著、東辻賢治郎 訳、ブックデザイン 伊藤滋章
¥3,300/鹿島出版会

 著者のデヴィッド・バーンは、革新的な楽曲で注目を集めたアメリカのロックバンド、トーキング・ヘッズ(1991年解散)の元メンバーであり、現在は音楽に限らず多彩な活動をしているアーティスト。ニューヨーク在住のバーンは、1980年代から主な移動手段として自転車を使ってきた。ツアー先にも折りたたみ式の自転車を持ち込み、見知らぬ街を走り回るという。そんなバーンが〈歩くより速く、鉄道より遅く、歩行者より少しだけ高い〉視点で見たものをまとめたのが本書だ。自転車に乗りながら広げる思索がユニークで引き込まれる。

 たとえば「第1章 アメリカの都市」。バーンは自動車中心に造られているアメリカの都市を自転車で走る。有名な滝があるのにうらぶれているナイアガラ、すべてがクリーンでテレビのセットのようなバレンシア、ハリケーンに襲われたが独自の文化が残っているニューオーリンズなど、それぞれの街の暗い面を観察しつつ、〈生活はまだよくなりえるのだ。たんにマシになるだけではなく、ぼくらが想像している以上のものになる可能性がある〉という希望も語っているところがいい。
 シュタージ(東ドイツの秘密警察)博物館を目指しながらベルリンの壁がまだあった時代に訪れたときのことを思い出したり、イスタンブールの海沿いの道を走りながら世界のあらゆる場所に似たような建物がある理由を考察したり、ブエノスアイレスの公園に置かれた何百本ものペットボトルに宗教性を読みとったり……。一つひとつの風景の切り取り方、連想する物事から、バーンの教養の深さが伝わってくる。

 なかでもバーンが『ヒア・ライズ・ラヴ』という音楽劇を構想したときのことが綴られている「第5章 マニラ」が印象的だ。『ヒア・ライズ・ラヴ』は、フィリピンの元ファーストレディ、イメルダ・マルコスが70年代後半から80年代はじめにディスコの常連だったことから着想したという。彼女にまつわる伝記的事実や本人の映像などの資料を用いて曲を書いたバーンは、アルバムのデモを作り終えたあとマニラへ行く。自転車でイメルダの足跡をたどっていくうちに、人々が政治に求める「物語」を発見するくだりがスリリングだ。
 最後の「第9章 ニューヨーク」は、大停電の日、自転車でダウンタウンに向かったときの風景描写も忘れがたい。9.11の記憶がよみがえったのか、オフィスはあっという間にもぬけの殻になっている。日が沈んだあと、バーンはタイムズ・スクエアを通り抜ける。すると、何千、何万という人が黒い影のかたまりになってうごめいている。〈ほとんど完全な暗闇のなかを、あらゆる車両が、家の明かりを全部消して歩き回るみたいにおそるおそる進んでいる。こちらに来るバスが、まぶしい光をふたつつけた大きな塊のように迫ってくる。深海の発光する生き物のように、暗闇からゆっくりと姿を現す〉。

 本書にはバーン自身が撮影した写真も掲載されているが、ニューヨークの自転車道の写真は素敵で、バーンのデザインした駐車ラックは楽しい。自転車に乗って、体も心も解き放たれる感覚を味わってみたくなる。

自転車に乗る自由を自らの手に。
『自転車と女たちの世紀――革命は車輪に乗って』

 自転車は女性にとって身近な乗り物という感じがする。おそらく「ママチャリ」を想起するからだろう。メーカーはシティサイクルとか軽快車という名称で売っているが、買い物や子供の送り迎えに使われることが多いので、ママチャリと呼ばれるようになったらしい。わたしが初めて自分で買った自転車もママチャリだった。
 しかし、ハナ・ロスのノンフィクション『自転車と女たちの世紀ーー革命は車輪に乗って』(坂本麻里子訳)を読むと、自転車に乗る女性たちはさまざまな困難を乗り越えてきたことがわかる。

画像: 『自転車と女たちの世紀――革命は車輪に乗って』 ハナ・ロス 著、坂本麻里子 訳 二階堂ちはる 装画、長井雅子、小林幸乃(in C) 装丁 ¥2,970/Pヴァイン

『自転車と女たちの世紀――革命は車輪に乗って』 ハナ・ロス 著、坂本麻里子 訳
二階堂ちはる 装画、長井雅子、小林幸乃(in C) 装丁

¥2,970/Pヴァイン

 ロスの前書きによれば〈サイクリングのどこがいちばん好きですかと人々に訊ねると、「自由」と「飛翔」のふたつの言葉が何度も返ってくる。にも関わらず、私が自転車の歴史をリサーチし始めたころ、強く印象に残ったのは女たちの翼がどれだけ頻繁にへし折られてきたか、だった〉という。
 19世紀に自転車ブームが起こったとき、自転車に乗る女性は石をぶつけられたり、アバズレと罵られたり、子供を産めない体になると脅されたりしたそうだ。服装も自転車に乗りやすいものではなかった。それでも「自由」と「飛翔」を諦めなかった女性サイクリストたちの物語が胸を打つ。

 著者のハナ・ロスは、ロンドンの独立系出版社に勤務しながら、地元のサイクリングクラブに所属し、難民の女性たちが自転車に乗れるようになるためのチャリティー活動にも参加している。「ペダルパワー」という、女性オンリーの自転車教室について書いたエピソードが素晴らしい。生まれた国に自転車は女の子が乗るものではないという偏見があって運転を習う機会が与えられなかったり、練習用の自転車を持たなかった難民の女性たちが、何度転倒してもめげずに自転車を乗りこなすようになる。〈サイクリングをすると翼が生えて、飛べる。ものすごく幸せで楽しくなる!〉と言う。読んでいてうれしくなる。

 『第二の性』で知られるシモーヌ・ド・ボーヴォワールがナチス占領に対する個人的な抵抗運動のひとつとして色を塗り替えた盗難自転車を乗り回していたとか、ほかにも興味深い話がたくさん紹介されていて読み応えのある一冊だ。

舞台は話題の台湾。
呉 明益の小説『自転車泥棒』

 台湾はGIANTやMERIDAなど世界有数の大手自転車メーカーがある自転車大国だ。呉明益の『自転車泥棒」(天野健太郎訳)は、自転車が家族の歴史と台湾史、第二次世界大戦史、動物園史をつなぐ長編小説。

画像: 『自転車泥棒』 呉明益 著、天野健太郎 訳、イラスト 呉明益、デザイン 関口聖司 ¥1,155/文春文庫

『自転車泥棒』 呉明益 著、天野健太郎 訳、イラスト 呉明益、デザイン 関口聖司
¥1,155/文春文庫

 語り手の「ぼく」は、台北に住む小説家だ。「ぼく」の家族の運命の分岐点には、必ず自転車があった。自転車の盗難事件が原因で死んだ祖父、娘が里子に出されるのを止めるために自転車に乗って駅に駆けつけた母、一度盗まれて戻ってきた大切な自転車とともに失踪した父……。時を経て自転車マニアになった「ぼく」は、父が乗っていた「幸福」印の自転車を探す。

 台湾語で自転車は「鐵馬(テイーベ)」というらしいが、「ぼく」と一緒に「幸福」印の自転車の行方を追っているうちに、工業製品である自転車が意思を持った生き物のように思えてくる。古道具屋の友人や動物園に通う老女など、自転車をきっかけに出会う人々も魅力的だ。終盤、「ぼく」が「幸福」印の自転車を空漕ぎしながら幻視する光景は圧巻。
 今回紹介した3冊における自転車は、ただの移動手段ではない。時間的にも空間的にも人間を遠くへ連れて行ってくれるものなのだ。

石井千湖のブックレビュー「本のみずうみ」記事一覧へ

画像: 石井千湖 書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経たのち、現在は新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿のほか、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。

石井千湖
書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経たのち、現在は新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿のほか、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。

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