三宅一生が創業し率いたイッセイ ミヤケ関連の会社は、独創的で創造性豊かなデザイナーを多く輩出していることでも知られる。なかでも三宅から薫陶を受け、その後、世界的に活躍するデザイナーに思い出や学んだことを聞いた。3人目は「SOMARTA」デザイナー、廣川玉枝

BY MAKIKO TAKAHASHI, PHOTOGRAPHS BY YUKI KUMAGAI, STYLED BY NAOMI SHIMIZU, HAIR & MAKEUP BY HIROKO ISHIKAWA, MODEL BY YUMEMI ISHIDA, EDITED BY JUN ISHIDA

「 一生さんはデザインを探求し、人が生み出すものづくりの力という視点に重きを置いた方」──廣川玉枝

画像: ドレスは「SOMARTA Skin Series」のもの。シームレス製法によって作られている。 ドレス¥748,000・中に着たチュールスカート¥107,800/エスティーム プレス(ソマルタ)TEL:03-5428-0928靴¥44,000/ルック ブティック事業部(レペット)

ドレスは「SOMARTA Skin Series」のもの。シームレス製法によって作られている。

ドレス¥748,000・中に着たチュールスカート¥107,800/エスティーム プレス(ソマルタ)TEL:03-5428-0928靴¥44,000/ルック ブティック事業部(レペット)

 レディー・ガガやマドンナも着た、全身を覆う編みタイツのような無縫製ニットのボディウェア。また、一昨年の東京五輪・パラリンピックで日本選手らが表彰台に立つときの赤い上着をアシックスと共同開発したことでも注目された「SOMARTA」の廣川玉枝。学生時代に「衣服は人間の皮膚に次ぐ第二の皮膚」というテーマに基づいた作品群を展覧会で見て、その作者のひとりである三宅のもとへ。

 入社後にまず学んだのは、「ファッションは大きなデザインの中のひとつ」ということ。生活を取り巻くすべてのものにデザインが関わっているという考え方だ。実際、廣川は独立後に、車椅子や地方の祭りなど服以外の企画にも参加してきた。三宅が「ファッションデザイナー」よりも「デザイナー」という肩書を好んだように、廣川も近年、後者に変えた。「衣服としてのプロダクト。一生さんはデザインを探求し、人が生み出すものづくりの力という視点に重きを置いた方。トレンドで流されるものではなく、普遍的に時代を超えて生き続けるものを作ろうとした。自分もそうありたいと願うから」という。

 加えて、大切にしたいのは、三宅のものづくりにおける心地よさの追求だ。「着ていて楽しくて元気になるもの。身体にも精神的にも気持ちよいものを目指して、色や形、生地などを探していた。服が生き物のように人に寄り添って一緒に生きていく感覚。それを常に革新的な服づくりのアイデアで、布を身体の間の空間を意識して、デザインされていたのだと思う」

 最後に、三宅がいつも社会的な視点でデザインがどうあるべきかを考えていたことに触れた。「そうした姿勢を次世代につなげ ファッションを志す多摩美術大学生だった1960年、日本で行われた国際デザイン会議で「議題にファッションが不在」と事務局に質問状を出したこと。大学卒業後にパリで修業中の60年代末、自由を求めて市民が声を上げた五月革命や米ヒッピー運動に遭遇。「多くの人が自由で心地よく、自分らしくいられる服を作ろう」と決めたこと。ていきたい。私たちが生きている時代に、国立のデザインミュージアムなど形として実現できたら、と考えている」

廣川玉枝
文化服装学院卒業後、イッセイ ミヤケ入社。ISSEY MIYAKE MEN及びISSEY MIYAKEコレクションのデザインチームに所属。2006年「SOMA DESIGN」を立ち上げ、ブランド「SOMARTA」をスタート。同年、「身体における衣服の可能性」をコンセプトとする「Skin Series」を発表

三宅一生(みやけ いっせい)
1938年広島県生まれ。多摩美術大学を卒業後、’65年に渡仏し、パリの洋裁組合の学校を経てジバンシィなどで働く。’70年に帰国。’73年からパリ・コレに参加。「一枚の布」という考え方をもとに、日本のハイテク技術とデザインを融合した服づくりを貫く。代表作は「PLEATSPLEASE ISSEY MIYAKE」や「A-POC」など。2022年8月に肝細胞がんのため逝去。

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