レガシーを進化させるサンローランのクリエイティブ・ディレクター、アンソニー・ヴァカレロ。今、自らの軌跡とストーリーを語る

BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY LISE SARFATI, STYLED BY DELPHINE DANHIER, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

アンソニー・ヴァカレロの物語①はこちら

画像: ジャケット(参考商品)・パンツ(参考商品)・スカーフ¥154,000・ブーツ¥198,000/サンローラン バイ アンソニー・ヴァカレロ

ジャケット(参考商品)・パンツ(参考商品)・スカーフ¥154,000・ブーツ¥198,000/サンローラン バイ アンソニー・ヴァカレロ

 幼い頃から、ヴァカレロは壮大な人生を夢見ていた。イタリアのシチリア島からの移民である両親のもとに生まれたひとりっ子で、母マリア・ヴィタンツァは事務所のマネジャー、父ジュゼッペ・ヴァカレロはウェイターだった。ベルギー・ブリュッセルの質素な地区で育ったが、少年時代の彼は美術館に通い、家ではクラシック音楽を聴いていた。「両親の世界にこういう要素がなかったからこそ、自分で触れてみたいと思ったのかもしれない」。一方で、夜になると祖父と一緒に、ベルギーで放送されていた唯一のイタリア語チャンネルで、ベルルスコーニがメディア王だった時代のバラエティ番組を見ていた。その見どころは、スパンコールがきらめく露出度の高い衣装を着て踊っていた女性の出演者たちだった。ヴァカレロは番組を見た翌日に学校で、記憶を頼りにそれらの服をデッサンし、誰の衣装が一番素敵か、コンテストの審査員気分で見比べていた。「テレビで見たドレスがどんなふうだったかを思い出しながら、絵を描くのが楽しくて」

 1990年代、ブリュッセルのような気取らない街(ヴァカレロいわく「特別な日でさえ誰もおしゃれをしない」)では、ヴァカレロを含むゲイの少年たちはみな、マドンナからスタイルを学んだ。イヴ・サンローランのトレンドが世界の隅々まで行き渡ったことを証明するように、彼の母親はトレンチコートやビッグシルエットのジャケットを着ていたが、ヴァカレロの心をつかんだのはMTVやジャン=ポール・ゴルチエだった(ゴルチエはマドンナのアイコニックなステージ衣装をいくつかデザインしている)。こうした世界観にインスパイアされたヴァカレロは「伸縮性があって身体にフィットする、ゾッとするほど見苦しいクラブウェア」を着て遊びに出かけていた。自分のセクシュアリティについては、親に隠したこともあえて打ち明けたこともなかったという。「どう見たって明らかだったと思うけど、誰にも言わなかった。僕の周りの人たちはそんなにオープンじゃなかったから。そういう概念がなかったわけじゃないんだけど……。いや、やっぱり、なかったのかもしれない」

 当時の彼には、ファッションを学ぶことは現実的な選択肢とは思えなかった。そのため、ベルギーのロースクールに入学したが(お気に入りの米ドラマ『アリー my Love』で見た弁護士の仕事が面白そうだったからという理由で)、1年後にうつ病を患い、長い間苦しんだ。「暗澹とした毎日で、とてつもない孤独感に襲われていた」。そのつらさを周りの人になかなか打ち明けられずにいたが、ヴァカレロの両親は息子が苦しんでいることに気づいた。「両親はようやく僕と向き合ってくれて、初めて本音で話し合えたんだ。僕は何とか頑張って、ファッションに興味があること、またそれを仕事にどうつなげていくかを伝えた」

 こうしてヴァカレロは、ブリュッセルの「ラ・カンブル国立高等芸術学校」に出願することを決めた。アントワープ近郊には、もっと確実に将来の成功を約束してくれそうな王立芸術アカデミーもあった(「アントワープ・シックス」で知られたウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、アン・ドゥムルメステール、ドリス・ヴァン・ノッテンなどのほか、マルタン・マルジェラ、クリス・ヴァン・アッシュ、グレン・マーティンスといった気鋭のデザイナーを輩出してきた学校だ)。だが当時のヴァカレロが注目していたのは、1998年のアカデミー賞授賞式に出席したマドンナのドレスを手がけた、ラ・カンブル出身のデザイナー、オリヴィエ・ティスケンスだった(ティスケンスは同校を3年目に退学している)。「かなり短絡的に『ラ・カンブルに行けば、マドンナの服をデザインできる』って考えたんだ。ちょっとサイコパスっぽいけど」とヴァカレロは笑う。

 実際のところラ・カンブルを選んだ本当の理由はほかにもある。ヴァカレロはアントワープで使われるフラマン語が話せないだけでなく、王立芸術アカデミーのアヴァンギャルドな傾向が自分に向いていないと感じていた。「わざわざ醜いものを創ったり着たりする意味がわからなくて。3つも袖があるコートや4本脚のボトムなんて僕には奇妙でしかなかった。スノッブでこれ見よがしな、ファッションのパロディでしかないと思っていたんだ」。デザイナーズクローズを買う経済的余裕のある人が、なぜピエロみたいな服を着たがるのか。その虚栄心をヴァカレロは厭った。「そういう類のクリエーションには違和感を覚えてしまって。だからって自分の創るものが美しいと感じていたわけじゃない。ただ少なくとも僕はまっとうな服作りをしていると思っていた」。そう言いながらも彼は〈自分が表現しているようなスタンダードな美より、実験的なアプローチのほうが知的〉と考える人たちがいることも知っている。ラ・カンブルではファッション学科に出願したが不合格となり、ヴァカレロは代わりに彫刻を学んだ。だが彫刻科で習得したスキルは、2年後に再挑戦して合格したファッション学科で役立った。「服の見えない部分は気にしない人もいたけど、僕にはあらゆる角度からの見え方が大切だった」

画像: ブラウス(参考商品)・パンツ¥253,000・ブーツ¥187,000/サンローラン バイ アンソニー・ヴァカレロ サンローラン クライアントサービス TEL.0120-952-746 MODELS: MCCABE TEEMS AT MARGAUX THE AGENCY, THURSDAY AT THE SOCIETY MANAGEMENT, NYLE KHAN AT HEROES MODELS AND YAHYA TARI AT AMR AGENCY. HAIR BY NENA SOUL-FLY AT THE ONLY AGENCY. MAKEUP BY HOMA SAFAR AT DAY ONE STUDIO USING WELEDA AND GLOSSIER. CASTING BY AFFA OSMAN AT CLM.

ブラウス(参考商品)・パンツ¥253,000・ブーツ¥187,000/サンローラン バイ アンソニー・ヴァカレロ

サンローラン クライアントサービス
TEL.0120-952-746

MODELS: MCCABE TEEMS AT MARGAUX THE AGENCY, THURSDAY AT THE SOCIETY MANAGEMENT, NYLE KHAN AT HEROES MODELS AND YAHYA TARI AT AMR AGENCY. HAIR BY NENA SOUL-FLY AT THE ONLY AGENCY. MAKEUP BY HOMA SAFAR AT DAY ONE STUDIO USING WELEDA AND GLOSSIER. CASTING BY AFFA OSMAN AT CLM.

 ヴァカレロはアルノー・ミショーと2016年に結婚した。ふたりが出会ったのは、エレクトロクラッシュ(註:80年代のニューウェイヴ、ポストパンク、エレクトロなどを90年代後半のダンスミュージックふうに再解釈した音楽)のコンサートのダンスフロア。すぐに意気投合して一緒に仕事をするようになったが、恋愛関係に発展したのはそれから2年後のことだった。ヴァカレロは確かな腕と、驚くべき発想力を兼ね備えたデザイナーだが、自分のことを「怠け者の仕立屋」と呼ぶ。そんなヴァカレロのアイデアを形にするのが、ラ・カンブルで一学年上の先輩だったというミショーだ。ふたりの親友で、サンローランでモデルも務めたアーティスト、デイヴィッド・アレクサンダー・フリンは、サンローランのコレクションには〈ヴァカレロとミショーのふたりのビジョン〉が投影されていると言う。また彼らの分担作業を料理にたとえて、ヴァカレロが見た目と香りを、ミショーが味を担当することで〈深みとコクがあるシチュー〉ができ上がるのだと説明する。じつは、サンローランでイメージディレクターを務めているミショーにも、この記事のための取材をお願いしたのだが、断られてしまった。夕方6時以降はヴァカレロとファッションの話をしたくないのだそうだ。ヴァカレロが補足してくれた。「夕方6時をすぎたら、アルノーはどんな世間話だろうとファッションに関することだと『興味ない』と言って耳を貸してくれないんだ」

 2006年9月、ヴァカレロのもとに一本の電話がかかってきた。レザーをメインに使った彼の卒業制作を見たというカール・ラガーフェルドのオフィスからで、ローマにあるフェンディのファーのアトリエで仕事をしないかというオファーだった。「でも実際の仕事は、ファックスのそばで待機して、カールから送られてきたスケッチを形にしていくことだったんだ。誰にでもできる作業だったから、自分がやる意義を見いだせなくて」(ちなみに、ヴァカレロはメットガラについて「最近ちょっとふざけている感じがして、関わりたくない」らしく2021年以来出席していないが、コスチューム・インスティテュート〈註:メットガラの会場である服飾研究所〉のラガーフェルド展は観に行ったそうだ。そこでフェンディ在籍当時に自分が手がけた、蝶のモチーフをあしらったパッチワークのファーコートを見つけて驚いたという)。

 フェンディに加わって2年後、ヴァカレロはフランスの伝説的バイヤー、故マリア・ルイーザ・プマイユから、自身のコレクションを創ったらどうかとすすめられる。パリのカンボン通りにある彼女のセレクトショップで販売してくれるというのだ。そこでヴァカレロはミショーとともにパリへ移り住み、シグネチャーブランド「アンソニー・ヴァカレロ」を立ち上げた。ボディラインを引き立てる、ブラックを基調にした彼のコレクションは、試行錯誤しながらも少しずつ評価を得ていった。トップモデルたちは無償で彼のショーに出演し、2011年には、彼を最初から支持してくれていた、当時仏版『ヴォーグ』のエディターだったエマニュエル・アルトや、ピエール・ベルジェなどが名を連ねる協会のアワードを受賞した。ドナテラ・ヴェルサーチェからは、ブリストル・ホテルのスイートルームに来てほしいと連絡を受けた。部屋には数人のボディガードがいて、テーブルにはスイーツが置かれ、ヴァカレロはまるでマドンナとでも会っているかのような夢心地になった。「ドナテラが現れた途端、部屋じゅうにふんわり香水の匂いが漂ってきて思わずうっとりしてしまった」。彼がフェンディにいた頃、ラガーフェルドは大半の時間をシャネルのために使っていたが、ドナテラ・ヴェルサーチェは「真剣に僕と一緒に何かを創ろうとしていた」という。ヴェルサーチェのほうは、ヴァカレロと、1997年に亡くした兄ジャンニの相似点を見つけた。「ジャンニもアンソニーも自尊心が低く、不安を抱えていました。あれほどまでに謙虚でいられるのは天才だけです」

 ヴァカレロはデザイナーとして成功への道を歩き始めていた。シグネチャーブランドで妥協のない服作りを続けながら、「ヴェルサーチェ」でも順調な毎日を送っていた。そして2016年、彼は再び一本の電話を受ける。電話の相手は、サンローランの社長兼CEOフランチェスカ・ベレッティーニ。メゾンのオープニングイベントについて相談したいことがあるという。ヴァカレロは耳を疑った。「サンローランといえば僕にとって世界一のメゾンだったから。まるで神から使命を託されたようなもの。慌ててアルノーに相談すると、ただひとこと『ゴー!』と言われて」。だがヴァカレロがドナテラ・ヴェルサーチェにこの話をしたとき、ふたりして泣いてしまったという。それから数カ月後、ヴァカレロは自身のブランドを休止することにした。

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