BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY LISE SARFATI, STYLED BY DELPHINE DANHIER, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
2016年に「サンローラン」のクリエイティブ・ディレクターに大抜擢された、ベルギー出身のデザイナー、アンソニー・ヴァカレロ。当時34歳、物静かでまだキャリアも浅かったヴァカレロになったつもりで、その心境を想像してほしい。「サンローラン」といえば半世紀の歴史をもつ、年間売上高10億ドル規模のフランスが誇るメゾンだ。その創設者は、現代女性のためのワードローブを生み、神格化されたあのイヴ・サンローランである。ヴァカレロは少年時代に二つの夢を描いていた。パリの、できればエッフェル塔が見える場所で暮らすこと。そしてファッションデザイナーになること。ファッション業界にツテはなかったが、このチャンスさえつかめば、ずっと恐れてきた「平凡な人生」は回避できる。このオファーを受けた瞬間、これまでの努力がようやく実ったと胸を躍らせる。が、次の瞬間にふと思う。「さあいったいどうしよう」と。
同年の春ヴァカレロは、サンローランで新たなスタートを切るため、パリのアトリエに初めて足を踏み入れた。セーヌ川左岸に位置するその建物は、17世紀築の由緒あるオテル・パルティキュリエ(大邸宅)だ。イヴ・サンローランと彼の長年の恋人で生涯のビジネスパートナーだった故ピエール・ベルジェが、1966年に開いた初のプレタポルテ・ブティック「サンローラン リヴ・ゴーシュ」があった通りも同じエリアにある。またセーヌ川対岸のマルソー通り5番地の建物は、かつてのクチュールハウスで、2017年以降はイヴ・サンローラン美術館パリとして一般公開されている。ヴァカレロはオファーを受けてから「イヴ・サンローランの威光には屈しない」と心に誓っていたが、すぐさま、前任デザイナーのエディ・スリマンが築いた輝かしいレガシーも抱え込まなくてはならないことに気づいた。スリマンは1996年から2000年までサンローランでメンズラインを手がけ、2012年に再びメゾンに復帰した。このときすべてのディレクションを任されたスリマンは、パリのデザインスタジオをロサンゼルスに移すことを決め、大論争を巻き起こした。現在デザインスタジオはパリにあり、ヴァカレロが使っているのは以前スリマンの指揮下で3年かけて改装されたオフィスだ。そこにはスリマンが所有していたアール・デコ様式やルイ16世様式の家具が置かれたままになっている。
ヴァカレロは、サンローランというストーリーに「スリマンが上書きしたチャプターは長くはない」と言うが、その内容は驚くほど起伏に富んでいた。スリマンはわずか数年のうちに、本来のブランド名から「イヴ」をはずして「サンローラン」に改称し、ロゴを変え、クチュール部門を再始動させた。ベルジェもこれらの変革には賛同していた。だが2016年、スリマンは何の説明もなく退任する。噂は数カ月前から広まっていたので、このニュースには驚くより当惑した人のほうが多かった。何しろスリマンが就任して以来、低迷していたサンローランの売り上げは倍増したのだ。スリマンの後任者となったヴァカレロには、直言されたわけではないものの、明確なミッションが与えられた。ひとつ目はイヴ・サンローランのアーカイブをアップデートすること。だがピエト・モンドリアンの作品を着想源にしたカクテルドレス(1965年秋冬クチュール・コレクション)から、女性向けのタキシード「スモーキング」(1966年)まで、どのメゾンよりも豊富なブランドコードを解釈すること自体が難しい。そしてふたつ目が、アンドロジナスなシルエットやライダースジャケットを提案して、新世代の心をつかんだスリマンのレガシーを受け継ぐことだった。
イヴ・サンローランの引退後(1998年にプレタポルテ部門から退き、2002年に完全引退した)は、スリマンとヴァカレロのほか、3名の大物デザイナーがこのメゾンのDNAを受け継いできた。まず1998年にプレタポルテ部門を継承したのが、イスラエル出身の故アルベール・エルバスだ。彼は「長年の夢が実現した」と歓喜したものの、買収劇に巻き込まれてわずか3シーズンで解雇されてしまう。当時、アメリカ人のトム・フォードがクリエイティブ・ディレクターを務めていたグッチのグループ企業(現在グッチは多国籍コングロマリットのケリング社傘下にある)がサンローランを買収したからだ。フォードは、センシュアルで洗練されたスタイルを自ら体現しただけでなく、マーケティングにも長けており、衰退していたグッチを妖艶な薫り漂うパワーブランドへ昇華させた。1999年から2004年までの5年間はグッチと並行して「イヴ・サンローラン」の舵取り役も務めた(だがフォードはベルジェからたびたび公の場で痛烈に批判され、イヴ・サンローランからは「あなたが手がけた13分間のショーのせいで、40年の私のキャリアは台なしになった」という辛辣きわまる手紙を受け取った)。続いてバトンを受けた3人目は、2004年にクリエイティブ・ディレクターに就任したイタリア人のステファノ・ピラーティだ。彼がデザインしたチューリップスカートは、2000年代半ばに一大センセーションを巻き起こしたが、ベルジェはピラーティの功績について「あえて語るようなことは何もない」と冷評した。8年間サンローランに在籍したピラーティは、ヴァカレロが負った重責とプレッシャーを誰よりもよく理解できる。ピラーティは就任当初の「刺激的だが、心もとない」日々を振り返りながら、ヴァカレロ宛にこんなメールを送っている。「ファッション界の誰もがムッシュ・サンローランに憧れていたが、当時のメゾンはすでに純粋なクリエーションを失っていた。そんな状況下では誰もが浮かない顔をしていて、僕自身も不安に押しつぶされそうだった」――。自分の足跡を残すために、ヴァカレロはメゾンの生みの親だけでなく、歴代デザイナーたちからの直接的な影響を振り払わなくてはならない。だが同時に彼らにオマージュを捧げることも大切だ。まさに至難の業である。
ヴァカレロのオフィスの机には美術書と雑誌しかない。彼はシャイだがイヴ・サンローランほど人見知りではなく、ブラウンの瞳は好奇心旺盛に何かを探しているようだ(作家アリシア・ドレイクは、1970年代のパリのファッションシーンを描いた著作『The BeautifulFall』〈2006年〉で、イヴ・サンローランは「成功の陰に隠れた犠牲者」だと綴っている)。その表情豊かなまなざしとは対照的に、身につけているのはブラックデニムとTシャツに白のスニーカーというきわめてミニマルな〈ユニフォーム〉だ。だが上腕には夫でデザインパートナーであるアルノー・ミショーの名前「Arnaud(アルノー)」が、手首には2歳になる息子の名前「Luca(リュカ)」が刻まれている。この二つのタトゥは、自分のことを多く語らない彼が明かしている唯一のプライベートと言えるだろう。「私生活については干渉されたくないんだ。関心をもたれすぎるとストレスを感じるから」。薄曇りの5月の朝、ヴァカレロは静かにそう言った。
伝説的デザイナー、クリスチャン・ディオールが急死し、弱冠21歳でその後継者になったイヴ・サンローランも、当時は生半可でないプレッシャーを受けたはずだ。ムッシュ・ディオールは生前、ショーのあとメゾンのバルコニーに出て、眼下の群衆から拍手喝采を浴びていたが、彼の死のわずか3カ月後――1957年10月、その同じバルコニーで大歓声を受けたのはサンローランだった。そこで群衆に向かってお辞儀をする彼の姿が写真に収められている。サンローランは「フランスファッション界の若きプリンス」と褒めそやされたが、その称賛は永遠には続かなかった。1960年の秋冬コレクションで披露した、黒のタートルニットや型押しクロコのブラックレザージャケットなどが、左岸にたむろするボヘミアンのビートニク(註:1950年代前後に伝統的な生活様式やファッションなどを否定した若者たち)を思わせ、保守的な顧客たちを憤慨させてしまったからだ。さらに同年、サンローランは兵役義務で入隊したが、神経衰弱を患って入院させられてしまう。ディオールはその間に彼を解雇し、後任に彼のアシスタントだったマーク・ボアンを指名した。だがサンローランは素早く立ち上がり、1961年にはベルジェとともに自らの名を冠したブランドを設立した。しかしその後の長いキャリアにおいて、彼が生んだ輝かしいクリエーションの陰にはつねに精神的な苦しみがつきまとっていた。サンローランは引退会見でこう告げた。「私は苦悩にさいなまれ、地獄のような日々を過ごしてきました」。だが自らの職業についてはこんなふうに言っている。「ファッションは芸術とは呼べないでしょう。しかし、ファッションを存在させるためにはアーティストが必要なのです」
クリエイティブ・ディレクター就任直後のヴァカレロには、どこかためらいがあるように感じられた。「デビュー当初に創ったものを見直すと、やりすぎだったかなと思うものが何点かある。後悔はしていないけど」とヴァカレロ。だがその後、彼の中で何かが変わり始めた。2014年に「ヴェルサス ヴェルサーチェ」(「ヴェルサーチェ」のセカンドライン)のクリエイティブ・ディレクターとしてヴァカレロを起用した(個性的でゴージャスなスタイルで知られたブランドが、ミニマリストの彼を選んだのは意外だった)ドナテラ・ヴェルサーチェは、ここ最近の彼の躍進ぶりに目を見張っている。「シンプルな服にセクシーさをまとわせるのが得意なアンソニーは、サンローランの歴代デザイナーのなかでも卓越した存在。アンソニーが夢を実現できて、私も心からうれしい。でもかつての彼は、このポジションに就くことをためらってもいたのです」