デヴィッド・ボウイ展と8年ぶりの新譜リリースを記念してのライブが3月29日に開催された PHOTOGRAPH BY MASAYOSHI SUKITA

 ポーーーン。ピアノの音がしてふと見ると、坂本龍一がグランドピアノの鍵盤をたたいていた。予定時刻より15分早い。ライブ会場でのリハーサルに、彼は、まさにすーっと現れた。チャコールグレーのタートルニット、ダークインデイゴのジーンズ、シンプルな黒のレザースニーカー。楽譜が入っていたのは淡いブルーカラーのごくシンプルなコットントートバッグ。グランドピアノは坂本の私物だ。照明が反射しないよう塗装をマットに仕上げてある。弾き始めてほどなく、サウンドスタッフのところへ行き何事かを話し合ったのち、ピアノの前に戻り、あとは淡々と黙々と曲を弾いていく。1曲終わると、自らピアノの上の楽譜をめくり、次の曲へ。まわりのスタッフが照明を調整する中、薄暗い会場にただただ坂本のピアノの音が静かに響く。リハーサル半ば過ぎ、坂本が曲の途中で急に弾くのをやめた。スタッフを振り返り「何か書くものある?」。差し出されたペンを受け取り、楽譜に何事かを書き込んだあと、ふたたび曲を弾き続ける。最後に何枚もの楽譜をしばし再確認し、1時間ほどでリハーサルは終了。その後、スタッフが坂本の周りに集まり、坂本自身がなにかを伝えている。全員真剣な表情。が、張り詰めた空気感というものはなく、坂本もときどき笑顔を見せている。やや意外だった。

 

 坂本が控え室へ戻ったあと、なんとピアノの分解が始まった。調律だ。鍵盤がはずされ、内部の部品を調律師が丁寧に調整している。坂本からなにか指摘があった上での作業ではなく、毎回演奏前と演奏後には必ず行うとのこと。ふと見ると、ピアノ脇のミニテーブルに湯たんぽらしきものが。坂本のものだろうか。

演奏はアンコールも含めて計11曲。新譜「async」からの1曲は「リハーサル後に指摘されるまで、入れるのを忘れてました」 COURTESY OF THE ASAHI SHIMBUN

 まろやかな人。それが実際に会ってみての坂本龍一の印象だ。初対面の相手を緊張させることがなく、誰に対してもおだやかで丁寧でフラット。インタビューのためリハーサル終了後の控え室へ入ると、立ちあがって「坂本です」と握手の手を差し出された。

 

「僕はピアノは全然うまくないんだけど、自分の音楽の表現手段のひとつとしてピアノが一番身近。なので、ピアノを弾くことが多いんですけれど、いつもなるべく嘘偽りなくできればいいなと思ってます。それをどう受け取るかは聴く人ひとりひとりの自由な選択。音楽が言葉にならないメッセージであるからこそ音楽をやっているので、言葉で表して伝えるべきことっていうのは特にはないんです。ただ、今日のライブは、『DAVID BOWIE is』という展示の一環でやるので、選曲も含め、僕としては個人的なデヴィッド・ボウイとの思い出とか、大げさに言えば鎮魂という気持ちを込めてます」

 

 映画『戦場のメリークリスマス』の撮影で約2ケ月、デヴィッド・ボウイと過ごした坂本。そんな坂本のボウイに対する印象は、「20の人格を持つ人間」。

 

「20というのは大げさかも知れませんけど、悪い意味ではなく、たくさんのいろいろな個性が彼の中にはあるなと。どれが本当でどれが嘘というのではなく、どれもたぶん本当なんですね。僕たちが『戦メリ』を撮影したときは、小さい島で、メディアがまったくシャットアウトされていて。想像するに、わりと長い期間メディアにさらされることなく自由に時を過ごしたというのは、デヴィッド・ボウイの人生の中では極めてまれな時間だったんではないかと思うんです」。現在と違ってインターネットもない時代だ。
「そうですね。そんな普段の素直な姿のデヴィッド・ボウイと2ケ月近く過ごして、僕はすっかり、これが本当のデヴィッド・ボウイだと思っていたんです。が、次にカンヌで会ったら、当然スーパースターなんです。それは別に嘘の彼ではなくて、それもデヴィッド・ボウイなんですよね。スーパースターであることも彼の中には入っている。この人にはたくさんの人格があって、すべて芝居しているようにも見えるし、本当のようにも見える。人の心の深いところはわからないけれど、複雑な人だなと思いましたね」。