「プラネタリウムを作る」ことがどれだけ難しいか素人には想像もつかないが、「一人でプラネタリウム作る」ことが極めて困難であろうことは、おそらく誰にでも想像がつく。大平貴之はわずか21歳のときにそれを成し遂げている。インターネット上には、プラネタリウム・クリエーターとしての大平貴之の情報があふれているが、いったいどんな人物なのか。



自ら製作したプラネタリウム「SUPER MEGASTAR-Ⅱ」とともに



 大平は現在、神奈川県横浜市で「大平技研」という会社の代表取締役を務めている。JR横浜線・鴨居駅を出て徒歩およそ5分。最先端のプラネタリウムを世に送るこの会社だが、ハイテクな、スタイリッシュなオフィスでは決してない。昔からある街工場の雰囲気を漂わせる、実直な製作所という印象だ。


 社内で我々を迎えてくれた大平は極めて長身だった。それも190㎝を超えている。何かスポーツをやっていたのかと聞くと、「中学校のときにバスケ部に勧誘されましてね。自分ではドリブルをしているつもりなんですが、手元のボールがいつの間にかなくなっている。いやあ、運動神経が鈍かったんですね」と屈託なく笑う。


 足元に目をやると、ほかの誰もがスリッパや上履きを履いている中、大平は靴下のままだ。汚れるだろうし、金属の部品が転がっていたら危ないではないか。社員にそのことを尋ねると「玄関で靴を脱いでそのまま社内を歩き回っていますね。年中そうです。面倒なんだと思います」。さらには、靴下が左右違う時もあるという。話の本題に入る直前のこのとき、私は「この男からはいろいろと面白い話が聞けるに違いない」とひそかに確信した。



社長室にて。「ここではどんなお仕事を?」

「社員たちから提出される書類に、ハンコを押しまくっています(笑)」

その場を和ませる気遣いをみせる大平の背後には、

所狭しと並ぶプラネタリウム用のパーツが



「小学校の頃はとにかく工作が大好きでした。科学雑誌の付録とか、手当たり次第に作っていましたね。そのうち既成のものでは飽き足らなくなって、中学の頃には自分で設計図を書いて、近くの河原でロケットを飛ばしたり。機体はもちろん、燃料も自作です。その前はロケット花火やドラゴン花火を作った事もあります。危ない? 確かに危険はあるので決しておすすめできませんが、市販の花火をほぐすほうがもっと危険ですよ。どんな成分が含まれているか分からないので。自分で作るものは自分なりに性質を徹底的に調べて、事故のないように気を使っていたんです。」


 大平が生まれ育った1970年代の神奈川県川崎市――両親はもとより周囲の大人もきっと、今より少し大らかに子供を見守っていた時代だったのだろう。自分で遊ぶものを自分で作りたいという欲求も理解できる。ただ大平は普通の子供よりもずっと、突き詰めたくなる性質だったのだと思う。


「星や宇宙とつながったのは、もしかしたらロケット作りから飛躍して、人工衛星を作ろうとしたことがきっかけだったかも知れません。ただ子供にとっては人工衛星作りなんて荒唐無稽な話で。想像だけはしていたんですよ。小笠原の海上あたりまで衛星を引っ張って行けば、近所に迷惑をかけずに打ち上げられるなあ、なんて。人工衛星が作れなかったから、プラネタリウム作りに没頭したのかもしれないですね」


 10歳のときに雑誌の付録の卓上ピンホール式のプラネタリウムを作り上げる。が、「思ったほど星がきれいではない」と、百科事典や図書館の本で星について調べ、自分なりに改良を重ねていった。


 ちなみに、「かわさき宙と緑の科学館(川崎市青少年科学館)」には現在、大平技研が2012年に開発した大型ドーム用プラネタリウム「MEGASTAR-Ⅲ FUSION」が設置されているが、実は大平は小学校低学年の頃、ここでプラネタリウムを操作させてもらったことがあるという。不思議な縁だが、しかしまた、プラネタリウムへの情熱を持ち続けた結果の必然のようにも思える。