龍のようにうねりながら丘を這う回廊と、その建物を彩るように咲く桜の花。今後250年をかけて、9万9,000本の桜が福島県いわき市の山を埋め尽くす。この遠大な計画を主導するひとりの男と、彼を取り巻く友人たちの活動をノンフィクション作家の川内有緒が追った

BY ARIO KAWAUCHI, PHOTOGRAPHS BY YASUYUKI TAKAGI

 新元号発表を控えて世の中が浮き足立った2019年4月1日の朝、その美術館は春の日差しを受けて穏やかに佇んでいた。風が木々の葉を揺らし、中庭には鳥の鳴き声が響く。山の頂きまで続く回廊を上りきると、高台には朽ちかけた木造の船があり、手作りのブランコが風に吹かれていた。

 いつもどおりの朝――。
 ここは、福島県いわき市の「いわき回廊美術館」。入場は無料、オープンは日の出から日没まで、入り口に受付もないユニークな野外美術館だ。東日本大震災の翌々年となる2013年に開館し、個人の資金や寄付で運営されている。

画像: 空から見た「いわき回廊美術館」。震災後に現代美術家の蔡國強がデザインし、ボランティア400人の力でつくった回廊が山に向かって延びる。高台からは遠くまで広がる水田が見渡せ、四季折々の風景が美しい FILMED BY MAKOTO NAWAいわき万本桜プロジェクト youtu.be

空から見た「いわき回廊美術館」。震災後に現代美術家の蔡國強がデザインし、ボランティア400人の力でつくった回廊が山に向かって延びる。高台からは遠くまで広がる水田が見渡せ、四季折々の風景が美しい
FILMED BY MAKOTO NAWAいわき万本桜プロジェクト

youtu.be

 私が初めてここの存在を知ったのは、2015年のことだった。なんだか面白そうだと、深く考えずに電話で取材を申し入れると、美術館を運営する志賀忠重は、「いんやあ、取材はダメだ、あまり人が来ても迷惑なんだ」と答えた。そのいわき訛なまりの口調はとても正直で、断られているのに嫌な感じがしなかった。それにしても、人気が出たら困るっていったいどんな美術館なんだろう。とっさに、じゃあ、あまり人が来ないように書くんでと食い下がると、「だったら、いいよ」と電話の向こうで笑い声が弾けた。

 こうして訪ねた美術館は、正体不明の磁力をもつ不思議な場所だった。あれから私は1、2カ月に一度のペースでここを訪れるようになり、なぜ志賀が大勢の人に来てほしくないと言うのかも、よくわかるようになった。

画像: 蔡の作品《再生の塔》の前に立つ志賀忠重。高さ23mのこの塔もボランティアの力で制作した。春にはあたり一面に桜が咲き乱れる

蔡の作品《再生の塔》の前に立つ志賀忠重。高さ23mのこの塔もボランティアの力で制作した。春にはあたり一面に桜が咲き乱れる

「ああ、まだここにもあった」 
 4月1日の朝、志賀は美術館に来るなり周囲のゴミをせっせと拾い集めていた。前日、ここでは毎年恒例の「春祭」が開催され、ミュージシャンやフラダンスチームなどがパフォーマンスを披露し、延べ2000人が集まった。普段は、人に来てもらいたくないと言う志賀だが、春祭だけは例外らしい。今年はあいにく雨の予報だったが、志賀が晴れ男ぶりを発揮したのか、日中にはポツリとも降らず、代わりに傘の忘れ物が多かった。

 ひとつ残らずゴミを集めると、志賀はベンチに座って朝のお茶を飲み、ふうとひと息ついた。今日からまたいつもの日常が待っている。それは、草刈りや伐採など、膨大な山仕事をこなす日々。志賀は今この周囲の山々で、9万9,000本の桜を植樹するというとんでもないスケールのプロジェクトを進めているところなのだ。

画像: 中庭を囲むように延びる美術館の回廊には、子どもたちの絵などが飾られている

中庭を囲むように延びる美術館の回廊には、子どもたちの絵などが飾られている

 先ほど“正体不明の磁力”と書いたが、何度もここに通ううちに、その磁力の正体――要するに魅力――が、少しずつわかってきた。
 まずは、そのお金の出どころだ。前述のとおり、美術館はあくまでも個人の資金や寄付で運営されている。「公的な補助とか、そういうものには興味ないよね。お金をもらったおかげで、ああだら、こうだら口出されたくない」というのがそのスタンス。おもに資金を出しているのは志賀とその友人で、ふたりの自由奔放な性格や生きざまが、そのまま美術館の雰囲気に表れている。

 二点目は、美術館の建設方法である。回廊をつくり上げたのは、約400人のボランティアで、資材は山から伐きり出してきた木材やベニヤ板など。特別なものは使われておらず、美術館全体が手仕事のぬくもりにあふれている。

 三点目は、飾られているアート作品で、ひとつは地元の子どもたちが描いた絵、もうひとつは中国人・現代美術家の蔡 國強(ツァイ グオチャン)の作品である。蔡は、グッゲンハイム美術館など、名だたる美術館から引く手あまたのアーティストで、その作品の評価は非常に高い。そんな蔡の作品が、この美術館には三つあり、冒頭の丘の上の朽ちかけた船もそのひとつだ。世界的アーティストと地元の子どもたちの作品が同列に並んでいるのも、ここならでは。

 実は、回廊美術館への資金提供を行なった志賀の友人とは、蔡のことだ。東日本大震災のあと、蔡が美術館を発案・デザインし、志賀と協力しあってオープンにこぎつけた。だから、考えようによってはこの美術館自体が、蔡と志賀の共同の作品と言えるのかもしれない。こんなふうに、ふたりは過去にも多くの作品をつくり上げてきた。

 蔡と志賀の出会いは30年前にさかのぼる。当時の蔡はまったくの無名で、どこにでもいる中国人留学生だった。一方の志賀は、いわきで会社を営む経営者。住む場所も立場も異なるふたりの出会いのきっかけは、蔡の個展だった。「友人がいわきでギャラリーをやっていて、作品を買ってくれって頼まれて。いいよって200万円分くらい買ったんだ。でもアートには興味ないから、作品は事前に見なかったよ」

画像: 蔡のリクエストで掘り出された二艘目の廃船は、《いわきからの贈り物》という作品に生まれ変わり、志賀とその仲間は、この船とともに世界の美術館を巡った PHOTOGRAPH BY KAZUO ONO

蔡のリクエストで掘り出された二艘目の廃船は、《いわきからの贈り物》という作品に生まれ変わり、志賀とその仲間は、この船とともに世界の美術館を巡った
PHOTOGRAPH BY KAZUO ONO

 多数の作品を買った人がいると知らされた蔡は、とても喜んだ。志賀に会うなり、「どうして買ってくれたんですか?」と笑顔で尋ねた。そのとき志賀は、言葉を一片のオブラートにも包むことなく、「だって、友達に頼まれたからだあ!」と答えた。蔡は、そうですか!と大笑いし、ふたりは友人になった。

 蔡はたびたびいわきを訪れるようになり、1993年にはいわきに移り住んだ。そして、人生初となる公立美術館での個展を実現。志賀や大勢のいわきの市民の協力を得て、海の沖合に長さ5㎞の導火線を浮かべ炎を走らせるという、前代未聞の作品《地平線プロジェクト》を実行に移した。同時に、志賀が率いる市民ボランティアは、蔡のリクエストに応えて砂浜から廃船を掘り出し、蔡はそれを使ってインスタレーション作品を制作。それが、現在丘の上にある船(作品名《廻光―龍骨》)である。

画像: 海に炎を走らせる《地平線プロジェクト》(1994年)のために船に乗り込んだ蔡。その後、見事に炎を走らせることに成功した PHOTOGRAPH BY KAZUO ONO

海に炎を走らせる《地平線プロジェクト》(1994年)のために船に乗り込んだ蔡。その後、見事に炎を走らせることに成功した
PHOTOGRAPH BY KAZUO ONO

 個展の翌年、蔡はニューヨークに移住し、世界的に著名なアーティストになったが、志賀と蔡の交流は途切れず、いわきの人々は、蔡の作品づくりを手伝うために、世界7カ国の美術館を巡った。そんな長い友情の日々の末に起きたのが、東日本大震災だった。蔡は今までさんざん自分を助けてくれた友人たちの力になりたいと、この美術館をつくることを提案した。

画像: デンマーク・コペンハーゲンで展示された《いわきからの贈り物》(2012年)。蔡の描いた火薬画に囲まれて。(川内有緒『空をゆく巨人』/集英社より) PHOTOGRAPH BY KAZUO ONO

デンマーク・コペンハーゲンで展示された《いわきからの贈り物》(2012年)。蔡の描いた火薬画に囲まれて。(川内有緒『空をゆく巨人』/集英社より)
PHOTOGRAPH BY KAZUO ONO

 志賀は今この周囲の山々で、9万9,000本の桜を植える「いわき万本桜プロジェクト」を進めている。立ち上げたのは東日本大震災から2カ月後で、「これは俺なりの、仕返しなんだ」と説明する。

 震災の直後、志賀は避難所を回って炊き出しをしていた。
「ほかの被災地に物資が届いているのに、どうしていわきには何も届かないんだろうと思っていたら、トラックのドライバーが放射能の影響で福島には行きたがらないっていう話を聞いたんだ。いやあ、腹立ったよねえ。悔しかったよねえ。俺らは、ずっと東京のために電気をつくってきたのに、急に誰も来たくないような場所になってしまったのかって。だから、桜を植えようと思ったんだ。日本一の桜の名所をつくって、誰でも来たくなる場所をつくろうって。飛行機からも見えるくらいになって、そのときにみんなが来たいって言ったら、来んじゃねー、だって俺らが困ってたあのときに来なったじゃないか、って言ってやろうって思ったんだ」

画像: 蔡の《炎の塔》が置かれた美術館の中庭

蔡の《炎の塔》が置かれた美術館の中庭

 志賀は定期的に植樹会を開き、現在までに約4,000本の植樹を行なった。桜を植えるなんて素敵なリベンジですね、そう言うと志賀は苦笑いした。「そう言われると困っちゃうよね。わっはっは!」

 今のペースで進むと、すべての植樹が終わるのは、250年後になる。生きて見られなくてもいいんですか、そう尋ねると、志賀は飄々と答えた。「急ぐ理由はねえし、ラクしようとも思ってねえし、困ることはなんもないよね。だからこそ、今は、“お客さん”に来てもらいたくないんだ。騒がしくなって、プロジェクトがストップしてしまうのがいちばん困るんだ。お客さんが来るのは、20年後くらいがちょうどいい。それにこのプロジェクトは俺の気持ちひとつだから、長く続けるには、俺が我慢せずにとことん楽しんで、やりたいようにやることが大事なんだ」

画像: 毎年9月に志賀がボランティアと種まきする菜の花も、満開の桜に色を添える

毎年9月に志賀がボランティアと種まきする菜の花も、満開の桜に色を添える

 いわき生まれでローカルアクティビストとして活動する小松理虔(りけん)は、いわきは戦後からずっと首都圏の「バックヤード」として機能してきたと語る。農産物や水産品、工業品、電力に至るまで、いわきの産業は首都圏を支え、人々は求められた役割を黙々とこなしてきた。

 そんな寡黙な地域だからこそ、志賀の「お客さんには来てほしくない」という言葉には、もうひとつの意味が込められている。今回の春祭で初めて美術館を訪れたという女性が、志賀に「素敵な美術館だから、ずっとこのまま続いてほしい」とコメントしたところ、「あのね、いてほしい、ではダメなんだよ。そう思うなら自分もそこに参加しないと」と答えていた。女性は、はっとして「そうですね」と答えた。そこには、“お客さん”ではなく、当事者たれ、という想いが込められている。お客さんではなく、自分ごととして山仕事に参加したい人ならば、実は大歓迎なのだ。

画像: 2011年から夏を除き月に一度のペースで植樹会が開かれ、今までに約4000本の桜が植樹された。植樹は一人1本まで。広大な山林が必要となるため、約60人の地主が無償で協力している。山林を切り拓く作業や草刈りなど、植樹以外の山仕事は一年じゅう絶えることがない

2011年から夏を除き月に一度のペースで植樹会が開かれ、今までに約4000本の桜が植樹された。植樹は一人1本まで。広大な山林が必要となるため、約60人の地主が無償で協力している。山林を切り拓く作業や草刈りなど、植樹以外の山仕事は一年じゅう絶えることがない

 志賀は、知っている。ただ願ったり、人に頼るだけでは、望む世界はつくれない。予算がない、補助金がもらえないと嘆いたり、SNSに書き込んだりしているだけでは、世界は動かない。望む世界をつくり出すには、自分の体を動かし、自腹を切り、汗を流すしかない。

 多くの想いを知ったあとに改めて美術館を眺めれば、まるで長くうねる回廊が「バックヤード」という檻から放たれた龍のようにも見えてくる。

画像: 《再生の塔》の丘に咲いた桜の花

《再生の塔》の丘に咲いた桜の花

 アートと桜を使った穏やかなる反乱の地――。
「何年かたったら、来るな、来るなって言っても人がいっぱい来ちゃって、きっとあの辺に駅ができてるかもしれないぞ」と志賀は嬉しそうに、田んぼの向こうの線路を指差した。

 祭りから10日後、山は満開の桜に包まれた。その見事な光景が見られなかった多くの人のために、蔡がつぶやいたひとつの言葉をここに贈りたい。
 ――桜は誰のものでもない。みんなのものだ――

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.