BY NAOKO ANDO, PHOTOGRAPHS BY YUSUKE ABE
青山の表通りから1本裏手、細い私道の突きあたりに、「Dee’s Hall(ディーズ ホール)」はあった。コンクリート打ち放しの一軒家で、1階がギャラリースペース。土器典美は2001年からそこで展覧会やイベントを開催し、たくさんのアーティストを紹介してきた。同時に、2階と3階の居住空間のインテリアと土器のライフスタイルも、数多くのメディアで紹介された。ギャラリーのアプローチには庭とポーチがあり、ポーチに置かれたテーブルは、ここが青山の真ん中であることを忘れさせてくれる、特等席だった。
2023年7月、すでに2022年末にすべての展覧会を終えていた「ディーズ ホール」の、本当の最後を飾るクロージングライブが行われた。坂本美雨の歌声と平井真美子のピアノの音色、そして途中ゲスト参加した森山直太朗のコーラスは、コンクリートの壁のすみずみまで染み込んでいたであろう22年間の思い出のひとつ残らずを清め、慈しみ、慰撫(いぶ)するかのように静かに空間を満たした。この場に集うことができた約50人の観客のなかには、「ディーズ ホール」に長く通った人や土器と親しい人だけでなく、ミュージシャンたちのファンで、初めてここを訪れた人もいただろう。客席に敷かれたラグに寝そべった子どもたちも心地よさそうだった。風通しがよく、とても美しい、終わり方だった。
終わりは始まりでもある。約6年前から青山と博多との二拠点生活を送ってきた土器は、博多の住まいの向かいに新築されたビルの1階に、次の場を用意していた。
大切な作品を、きちんと伝える場に
新たなスペースは「Dee’s Collect(ディーズ コレクト)」と名付けられた。土器が「ディーズ ホール」で光をあててきたのは、まだあまり有名ではなく、多くは初めて個展を開くアーティストたちだ。土器自身がその作品を生活空間に置きたいと思うかどうかが選択基準で、実際、個展の開催中に、自分のために必ず一点は作品を購入してきた。「ディーズ コレクト」では、手もとにあるそれらのコレクションを展示、販売していく。上の写真は、まだ準備中の「ディーズ コレクト」の様子を撮影したものだ。沖潤子、前川秀樹、わだときわ、中西洋人などおなじみのアーティストたちの作品が、「ディーズ ホール」と同じ、きれいな光の入る心地よい空間に並んでいる。
「持っている作品を、自分できちんと説明して、次の人に手渡したいと思ったの。パンデミックの最中に、ひとりでじっくり考える時間ができたところに、博多の住まいのすぐ向かいに新しい建物が建って、ちょうどいいサイズのスペースが見つかって」「ディーズ コレクト」は、2階分の吹き抜けで100㎡を超える広さだった「ディーズ ホール」の、半分ほどのスペースだ。
「青山では、アーティストたちがものすごく熱心に制作して、あの広い空間にたくさんの作品を並べてくれた。そのエネルギーに応えて、責任をもって紹介していくだけの体力と気力が、少し足りなくなってきたと感じていたの。だから終活ね」
土器はそう言うが、今後も静かな暮らしとはいかなくなりそうだ。初めての個展をぜひともここで、と「ディーズ ホール」の門をたたき、今や人気陶芸作家となった小前洋子がまずは名乗りをあげ、2023年11月中旬から「ディーズ コレクト」で個展を開く。その後も続々と、アーティストたちが土器を慕って博多に赴く予定だ。土器が照らす新しい光が、アーティストやそのファンを次の場所へと導いていく。
土器は香川県高松市で生まれ育った。高校卒業後、雑誌で見つけて「かっこいい!」と感激したセツ・モードセミナーを目指して、1970年代のはじめに東京にやってきた。「その頃はもちろんインターネットもなかったから、セツがどんなところなのか、詳しくはわからなかったの。でも、とにかく来てみたら、場所も人も、本当にびっくりするほどかっこよかった」
せっかく地方から来たのだから都心に住みたいと、六本木にアパートを借りた。「その頃は六本木の街が本当に素敵で、かっこいい人がたくさん集まっていた。だから住んじゃえ!と思って。そうすれば毎日、気分よく暮らせるでしょう? セツでも、私なんて、と気後れもしたけれど、校長の長沢節さんも先生たちも、先輩や同級生も、とにかくみんなかっこよくて、少しでも近づきたかった。セツの中にあったカフェでアルバイトを募集していたのを見つけて、これだ!と思って働かせてもらったの」
カウンターの中に入ってしまえば、どんどん顔見知りが増えて、臆せずに話ができたのだ。街とも人とも、外側から接するのではなく、内側に入れば、より深い関係を結ぶことができた。卒業後、同級生だったパートナーとともにアンティークバイヤーとしてロンドンで暮らしたときも、中心部のサウス・ケンジントンを選んだ。「私たちが買い付けていたのは、それまで日本に入っていなかったものばかりだったから、ものすごく売れたの。私はその売り上げで、惚れ込んでいたキッチンツールなんかを、せっせと買い集めていたのね」
それらを手に、1980年に帰国。青山に「ディーズ アンティーク」を開くと、瞬く間に人気を博した。扱ったのは、イギリスの農家や庶民の家で使われていたもの。西洋アンティークといえば高級なものしか見たことがなかった当時の日本人の目に、ホウロウのパンケースや素朴な陶器の器などが、どれほど新鮮に映ったことだろう。
青山の中で何度か引っ越しをし、自分の好きなものを生かして暮らすため、山梨に山の家を建て、週末に通ったこともあった。六本木のアパートからロンドンのフラット、青山でのいくつかの住まいと山の家での暮らしはすべて、雑誌やテレビで紹介され続けた。それは、「ディーズ ホール」で土器が光をあててきたアーティストたち同様に、常にこれまで見たことのない新しさと、親しみに満ちていたからだろう。
「青山で40年くらい暮らしたけれど、正直に言うと、今の青山は私にとって、前ほどワクワクする街ではなくなってしまった」
昔は青山にしかなかったものが、今は地方にもっといい形で存在する。逆に青山は、新しいビルと引き換えにそれらを失っていった。
高齢の母に会うために二拠点生活を送ってきた博多のほうが、面白いし暮らしやすいと感じ始めたが、心配もあった。生活をともにしてきたパートナーが10年前に旅立ったあと、ふらりと庭先に現れた野良猫だ。キンタと名付け、少しずつ仲よくなった。彼を置いていくわけにはいかなかった。
青山の野良猫キンタが、博多で家猫に
「最初はポーチにダンボール箱を置いて、寒い冬は毛布を敷いたりカイロを入れたりしておいたの。しばらくするとそこに入って、餌も定期的に食べるようになった。少したつと1階に入ってきて、そのあとおそるおそる2階に上がってきた」
その後は明け方に土器を起こしてドアを開けさせては気ままに外出し、午後に帰宅するという“キンタさま”生活が続いたが、2023年の1月からは、土器の博多暮らしの決意を察して覚悟を決めたのか、ぴたりと外に出なくなり、自発的に家猫になった。
博多に連れて行く日は、友人3人が同行する“キンタシフト”を敷き、どれが気に入るかわからないからとキャリーケースを何種類も用意。しかしあっさりとケースに収まり、乗り込んだ新幹線の車内でも、品川から博多まで一声も発しなかったという。「もう、泣けるほどおりこうだったの。最初の晩だけクロゼットに隠れていたけれど、翌日にはトイレの場所も覚えて、普通に暮らし始めたから不思議よね」
こうして、土器が青山から運び込んだアートとキンタの居場所が、博多の住まいと新しいギャラリーにしっかりと収まった。近所でショップを営む友人と道でばったり会う。知り合いの店でコーヒーを飲む。オーガニックスーパーに並ぶ、見たことのない商品にワクワクする。繁華街まで歩いて遊びに行く。博多の街と深く結びつく、キンタと一緒の新しい暮らしが始まった。
土器典美(どき・よしみ)
セツ・モードセミナー卒業後、1975年から約6年間ロンドン在住。’80年青山に「ディーズ アンティーク」をオープン。のちの雑貨ブームの礎となる。’96年に閉店し、フォトエッセイストとして活躍。『週末、山の家に行く』(主婦の友社)ほか著書多数。2001年、ギャラリー「ディーズ ホール」を開始。’22年クローズ。’23年秋より福岡で「ディーズ コレクト」を始動。
インスタグラムはこちら
▼あわせて読みたいおすすめ記事