BY TAKAKO KABASAWA, PHOTOGRAPHS BY MASATOMO MORIYAMA
日々の食卓を慈しみ辿り着いた“うつわ”の仕事
なんて素敵な人……。そう感じる女性には、さまざまなタイプがいる。クールな瞳の奥に、ふと優しさがにじむ女性。チャーミングな笑顔をデフォルトにしながら、幾つになっても一歩でも前へ進もうとする女性など。今回、話を伺った島田洋子さんは、たとえて言うなら伽羅の香木のような女性である。透明感のある空気を纏いながらも、静かに情熱の火を灯し、ゆっくりと上品な香りを燻らせるような……。端正かつ温かみのあるギャラリーの空間、表情の異なる一つ一つの器、案内状のポストカードの言葉にまで、日々の積み重ねからこぼれ落ちる島田さんの穏やかな気配が満ちている。
大学を卒業すると同時に結婚し、家庭に入ったという島田さん。「両親をみていて、女性は家に入って家庭を守るというつもりで結婚。いざ実家を出て、ふたりで暮らしはじめると、自分の好きな仕事に就きたいという気持ちが芽生えてきて」。外に目が向く島田さんとは異なる考えを持つ相手。次第に心の距離が遠くなり、16年で結婚生活にピリオドを打った。30代半ばにして初めて仕事を持つことになった島田さんは、工芸の世界にアンテナを巡らせた。
今のようにインターネットで手軽に仕事を探せない時代。新聞の求人欄で当時外苑前の交差点にあった「伝統的工芸センター」のアルバイト募集の告知を見つける。その面接で、島田さんがひとりで生活を立てていかねばならない事情を知った担当者から、同じ建物にあった京都市のパイロットショップを紹介され、幸運にも正社員として働き始める。ここで様々な伝統工芸に触れる機会を得て伸びやかに枝葉を広げ始めた島田さんは、そこで空間設計を担当していた現在のご主人と出会い38歳で再婚した。
その後に就いた仕事は、広尾のベネチアンガラスの店だった。ここで島田さんは販売から棚卸し、ラッピングに至るまで、店舗運営に必要な基本を学ぶ。5年間勤めるも、閉店とともに再び自宅での充電生活へ。「自分のやりたいことをやればいい、という夫の言葉も後押しとなり“自分の店”を持ちたい、お店を持つなら器を扱いたいという気持ちが芽生えました」。
島田さんが器に興味を抱いたのは、幼少期へと遡る。「焼き物に魅入られたのは母の影響。普段使いのものばかりですが、料理に合わせた器を選び、そこに庭から切り出した季節の葉っぱや花をちょっと添えたり……。毎日、毎日、目先をかえて本当に楽しみながら食事の支度をしていた母の習慣が、私の暮らしにも自然と根付いていました」。島田さんが言う器とは、“土もの”と呼ばれる温もりを感じる陶器。「優しい手触りや土の重量感に触れ、器に料理が盛りつけられている姿を見ているだけで幸せ。棚に飾って眺めているだけでも、気持ちが落ち着きます」。母譲りのセンスで、日々の料理に合わせて器を選び、食卓をコーディネートすることはもちろん、見立てで花を入れて部屋に飾る。「器に囲まれた空間」を思い描きながら物件探しを開始。同時に、陶芸教室にも通い、実際に器を手がけることで土や釉薬、産地への知識を深めていく。
じっくりと思いを練り上げながら、納得のいく物件に辿り着くまで待つこと約7年。その間、気を揉むことはなかったのかと尋ねると「焦らずに10年以内に実現できたらいいと思っていたので」と淡々と笑顔で答える島田さん。1998年の6月に「うつわ楓」は青山の裏通りで緩やかにその扉を開いた。店名に“うつわ”とつけたのも島田さんのこだわり。母親が器を媒介に暮らしを豊かに紡いだように、あくまでも食器を扱いたかったという。さらに、目に見える器だけでなく、扱う作品やギャラリーが人生の様々なことを受け入れる“うつわ”のような存在でありたいという思いも重ねた。
店という“うつわ”とともに、自分の尺度で歩む
「好きなものを厳選して置ける広さがあればいい」と探し抜いた念願の店は、展示スペース4坪。モダンな深緑色の外壁と重厚な黒い扉を設えたストイックな外観は、ただでさえ敷居が高そうなデザインだが、島田さんはオープンからしばらくはドアを閉め切り、鍵をかけて過ごしたという。「お客様が入ってくるのが、すごく怖くて(笑)。夫が設計してくれた空間に好きな器だけを集めたら、自分だけの部屋のように居心地が良くて……器を売るよりも、好きな音楽を聴いたり本を読んで過ごすひとりの時間が嬉しかったんですね。あとになって、常連になったお客様が“すごく入りにくくてドアを押すのが怖かった”と打ち明けてくださいました」。
最初に扱った器は、故・青木亮さん、尾形アツシさん、臼田けい子さん、砂田政美さん、小山及文彦さんなど。今では限られたギャラリーにしか作品を提供しない人気作家の名前が挙がる。どのように人脈を繋いだのだろう。「7年という長い準備期間がありましたので、好きな作家さんの個展に足を運んだり、陶芸教室の縁を辿って工房に赴いたり……勢いに任せず、丁寧に作家さんとの時間を重ねて信頼関係を築いて行きました」。シンプルで使いやすい日常の食器を扱いながらも、次第に“うつわ楓”という個性も扱う商品に現れる。ある時は4坪という小さな空間を、大皿や大きな花瓶が埋め尽くした。作家の工房を訪ね、心にピンと響いたものを集めてみたら、存在感のある一点物ばかりが並んだとか。
オープンから3年目を迎えた初夏、島田さんの好きなことが輪郭として整い始めた矢先に乳がんが見つかる。既に着手していた個展を終えてから入院、右胸の全摘手術を受けた。当時は携帯電話もなく、病院の公衆電話から留守中の店を預かって営業を続けてもらったスタッフに連絡し、毎日報告を受けていたという。二週間ほどの入院を経て、退院した翌日から店に復帰する。「あえて、胸の再建手術は受けませんでした。その間、店に立てなくなることを避けたかったから……。全摘したおかげですぐに動き始めることができ、梱包作業や高いところの物を取る作業も自然とリハビリになりました」。とはいえ、体の左のバランスが崩れるため、右側が常に凝ったように辛い状況も続いたそう。「徐々に自分なりに対処方法もわかって過ごすように。この店をやっていなかったら、きっとこんなに頑張らなかったと思います」。そう語る島田さんの表情は、一層穏やかな微笑みを湛えているように見えた。
20年の時が流れた「うつわ楓」は、2021年に店を移転。最初の場所からわずか50メートルほどの同じ通り沿いに現在の店を構えた。昔ながらの硝子の引き戸をL字型に配した明るい店内は、4畳ほどの上がり框もある広い空間。「ここは定期借家で今年いっぱいの契約なのですが、一度広い空間で店をやってみたかったので。扱う作品の幅にも少し広がりが出ました」。オープン以来、島田さんが大切にしていることは、40人ほどの常設の作家の作品を扱うことだという。その理由は、割れてしまったら一枚追加したいという客のニーズに答えられるように、リピートして注文できるようにするため。こうした“定番商品”があるからこそ、若手の作家の作品も扱えるのだという。
来年以降に場所が移り変わり、次の店舗で新たに挑戦したいことを伺うと。「地方や海外を訪ね歩いて、さらに自分の目を養うような勉強をする時間が欲しいですね。引き続き若手の作家さんに表現の場を提供したいという思いもあります。一方で、プロの料理人から器のコーディネートを相談される機会も増えているため、イタリアンやフレンチレストランと和食器の新たな可能性を追求することにも挑戦したいですね」。近い将来のギャラリーの姿を見つめる、この日の島田さんの装いは、洗いざらしの白シャツと藍のスカートが清々しいコントラストを奏でていた。インタビューを終え硝子戸を開けると、蒼々とした楓の葉を爽やかな風が優しく揺らしていた。
島田洋子
1954年生まれ。「うつわ楓」オーナー。1998年、青山にてギャラリーをオープン。その8年後、千駄ヶ谷に姉妹店「SHIZEN」をオープンし、当時の店長に店を譲る。2021年、現在の場所に移転。常設の器のほかに、月に約2回のペースで作家の個展を開催。9月20日(水)〜25日(月)は陶磁器の上田浩一展を、9月27日(水)〜10月2日(月)は硝子作家の五十嵐智一展を開催予定。
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