BY MAKIKO HARAGA, PHOTOGRAPHS BY YASUYUKI TAKAGI
7月のある日曜日の午後、将来を嘱望される9人の若き弦楽器奏者たちによる、特別なゲストのための特別なサロンコンサートが催された。会場は東京・港区にある綱町三井倶楽部。三井家の迎賓館として大正初期に建てられた、広大な庭園を誇る優美な洋館である。かつては国内外の要人をもてなす社交の場であった本館の大食堂で、演奏家たちはアンティーク・ヴァイオリンを用いて、クライスラーの珠玉の小品や超絶技巧が求められるイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、モーツァルトの弦楽四重奏曲など、華麗なる空間にふさわしい作品をそれぞれが選び、演奏した。
この演奏会のために特別に用意されたアンティーク・ヴァイオリンは、19世紀以降につくられた「モダン」のなかでも特に名器の誉れが高いものばかり。加えて、1800年以前に製作された「オールド」の最高峰かつ世界の三大ヴァイオリンと称されるアマティ(1664年製)、ストラディヴァリウス(1719年製)、グァルネリウス(1738年製)が展示され、一級の美術品としての価値も高いその姿を招待客は間近で鑑賞した。このうちストラディヴァリウスは、ソリストとして活動中で2023年にロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団との共演を果たした北川千紗が演奏に使用し、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを奏でた。
「The Violin Day Tokyo」と名づけられたこのイベントを企画・主催したのは、老舗弦楽器専門店の文京楽器と三越伊勢丹。両社は手を携え、「ヴァイオリン貸与プログラム」を推進している。百貨店の上位顧客にモダンを中心とする稀少かつ高額なアンティーク・ヴァイオリンを所有してもらい、より優れた楽器を必要とするが自分では買うことが難しい若手奏者に貸与してもらう。その支援によって才能を開花させた奏者が、音楽のちからで世界中の人々の心を豊かにしていく――。この日の招待客も、社会貢献と芸術振興への関心が高い、百貨店の上位顧客である。
同プログラムを通じて伸び盛りの若き演奏家に届けられたヴァイオリンの第1号は、モダンの最高峰といわれる「アンニバーレ・ファニョーラ」(1923年製/イタリア・トリノ)。この楽器を貸与されているのは、サロンコンサートで一番目に演奏した荻原緋奈乃だ。
17歳になったばかりの荻原は、背すじが伸びた美しい姿勢でヴァイオリンを構えた。彼女が選んだ曲は、チャイコフスキーの《懐かしい土地の思い出:第3曲メロディ》とヴィエニャフスキの《華麗なるポロネーズ》。華やかな場面では力強く骨太な音が鳴り、消えゆくような旋律のときには小さくても粒の立った音が聴く者の心臓に染み入るように響いた。荻原が奏でるヴァイオリンは、1挺だけで弾いているとは思えないほど多彩な音を紡ぎ出す。
若手音楽家の登竜門といわれる日本音楽コンクールで2023年に入選し、2024年のクレモナ国際ヴァイオリンコンクールでは最終選考に残るなど、これから世界を舞台に羽ばたくことが期待される荻原が、その翼であるファニョーラとの運命的な出合いを果たしたのは、2022年11月。楽器のオーナーが貸与する奏者を選ぶオーディションに「まさか選ばれるとは思わず、勉強のために」参加したところ、彼女の演奏に感動したオーナーがその場で貸与を決めたという。
それまでは、祖父母が用意してくれた「ポラストリ」を使用していた。「とてもいい楽器で愛着はあるけれど、自分のやりたいことや『もっとこうしたい』と思うことを楽器がカバーしきれなくなっていたんです」と荻原は中学3年生だった当時を振り返る。楽器をより優れたものに替えることは、より容量の大きなスマートフォンに買い替えることと似ていると、彼女は言う。デジタルネイティブのZ世代ならではのたとえだ。「楽器の“容量”が64ギガだとしたら、その上限を超える128ギガまで自分の技術を伸ばすことなんてできない。よい楽器との出合いは、上を目指すすべてのヴァイオリニストにとって必要なんです」
ファニョーラを使い始めてから約2年。荻原は“大容量”になった楽器と自分の技量との差を「埋めていく作業」を続けている。「『こんな音が鳴るんだよ!』と楽器が叫んでいるから、その音をちゃんと出してあげたいし、それをお客さまにも同じように感じてもらいたいから、『伝える能力』が必要なんです」と彼女は言う。
荻原は3歳でヴァイオリンを習い始めた。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートのテレビ中継を母親と一緒に見ていて、「これ、やりたい」とヴァイオリンを指したのがきっかけだそうだ。
その数年後、ハワイのレストランで行われた親戚の結婚式で、妹と一緒に小さなヴァイオリンで演奏した。居合わせた外国人観光客から大きな拍手を受け、「これでアイスクリームでも食べてね」と硬貨をもらった。それを今もヴァイオリンケースに入れ、お守りのように持ち歩く。見知らぬ人が喜んでくれた思い出が、よりよい演奏を目指す意欲を支えているという。
将来は輝かしい演奏はもちろん、舞台に立っているときの佇まい、聴衆や共演者に対する礼儀までもが美しいヴァイオリニストになりたいと、荻原は言う。「世界のいろんなところで弾きたいし、私の相棒であるヴァイオリンにも、いろんな空気を吸ってほしいです」
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