BY MAKIKO HARAGA, PHOTOGRAPHS BY YASUYUKI TAKAGI

石田信彦(いしだ・のぶひこ)
医学博士。東京や埼玉で複数の病院を再建し、自ら医療法人を創設。玉堂美術館(東京都青梅市)の経営も担う。神奈川県横須賀市出身。両親が共働きで忙しく、近所の人々に助けられた経験から、地域を支える医療を志す。
長野県中部に位置し、3つの山に囲まれた青木村。野菜や果物、キノコの生産地であり、松茸は全国有数の収穫量を誇る。赤い実をつけるタチアカネ蕎麦は特産品だ。
自然豊かなこの村の子どもたちに伝統芸能や音楽に触れる機会を提供し、彼らの知的探求心の育みを支えていこうと奔走する人がいる。医師で実業家の石田信彦だ。日本の在宅医療の草分けであり、高齢者のリハビリテーション分野を切り拓いた。自ら興した医療法人社団和風会で理事長を務める。
石田と青木村との出合いは、約6年前。知人から相談を受け、廃業した旅館の再建を買ってでた。建物の老朽化は進んでいたが、その土台は城の石垣と同じ工法で造られ、客室には当時の匠の技が光る欄間が設えられていた。時を重ねて味わいを増した伝統美は残すべきだと強く感じ、あえて手間暇をかけて改装、2023年に会員制の施設「山城屋(やましろや)リゾート」として再生させた。今年の9月の終わりの日曜日、山城屋初の文化交流会「知って、観て、体験する『能』」が開催された。石田が理事を務める観世流の梅若研能会から3人のシテ方能楽師を迎え、地元の小中学生と大人たちが集まった。この日の目玉は、「高砂」の一節を使った謡(うたい)と舞の体験レッスン。少し恥ずかしそうに参加していた小学校高学年の女の子たちは、「楽しかった!」と口々に明るい声で感想を語った。

文化交流会「知って、観て、体験する『能』」にて能楽師の古室知也は能をわかりやすく解説し、「経正(つねまさ)」を舞った。天女の面をつけてもらった小学6年生の女の子は視界の狭さに驚く。

「高砂」(世阿弥作)は夫婦愛と長寿を描いた能であることから披露宴の席で謡われることも多かった。詞章が書かれた紙が配られ、参加者全員で謡いかたを習う。

寺の山門を彷彿させる、客室棟と連結した「山城屋」の門。この様式が現存する旅館は珍しいという。山城屋はかつて石田の母が横須賀で経営していた旅館の屋号だそう。母方は長野市松代町出身とのことで「やっぱり縁がある。ご先祖さまに呼ばれたのかも」と石田は言う。「青木村に観世流がやってきた」と書かれた案内板は、地元の子どもたちによる手作り。
「小さいうちから素晴らしい文化を教わることが大切で、それこそが教育」と石田は考える。今後は月に一度、能教室を山城屋で開催する予定だ。石田は父の影響で能に親しむようになり、今も月に2回稽古に励む。能は600年以上の歴史を有し、世界に誇るべき芸術だが、衰退しつつある現状のままでは未来に継承されないと、石田は危機感を募らせる。「日本の大切な文化を残したくて、自分の余力のなかでできることをやっているんです」
支援する対象を伝統芸能以外にも広げ、若い才能を育てる手伝いがしたいと思い始めていた2022年9月、石田は三越伊勢丹が老舗弦楽器専門店の文京楽器との協業で立ち上げたばかりの「ヴァイオリン貸与プログラム」を紹介された。若手演奏家がさらに成長するためには、より豊かな音色をより遠くまで響かせることができるアンティーク・ヴァイオリン(16世紀から20世紀に製作された名器)が必要だが、その価格は高騰の一途をたどり、とても手が届かない。そこで百貨店が上位顧客のなかで所有者を募り、才能あふれる若手に貸与するのが、同プログラムの仕組みである。
伊勢丹新宿店の外商から話を聞いたその場で、石田は「ぜひやりたい」と即決し、柔らかい音に惹かれて「アンニバーレ・ファニョーラ」(1923年製)のオーナーになった。ほどなくして貸与する演奏家を選ぶオーディションが行われ、ここでも石田は迷わず、当時中学3年生だった荻原緋奈乃を選んだ。心に迫る演奏と彼女自身の聡明さに惚れ込んだからだ。荻原から毎月届く活動報告を読むと、国内外のコンクールで優秀な成績をおさめるなど活躍の様子がわかり、目を細めているという。11月には山城屋で、荻原の独奏会が青木村の子どもたちのために開かれた。「緋奈乃さんは日本を代表するヴァイオリニストになると思うし、彼女のような演奏家が輩出するようにお手伝いをしたい」と石田は言う。ヴァイオリンを本格的に学びたい青木村の子どもを支援する基金の設立を検討中だ。荻原への支援も長期的に続けたいと話す。「彼女の技量に対応できる楽器を提供しつづけられたら最高ですね。でもストラディヴァリウスは無理かな」と穏やかな笑顔で言う。

ヴァイオリニストの荻原緋奈乃。石田から楽器を貸与されてから、日本音楽コンクールで入選(2023年)、クレモナ国際ヴァイオリンコンクールで最終選考に残る(2024年)など、めざましい活躍が続く。
石田のあとに続くアンティーク・ヴァイオリンのオーナーは、少しずつだが増えている。富裕層が芸術家を支えるパトロネージュを日本でも根づかせるべく始まったこのプログラムを、三越伊勢丹外商統括部で担当する鵜篭(うごもり)威行は、「壮大な目標だが、すでにその文化が芽生えたと言っても過言ではありません」と手ごたえを語る。楽器を紹介したとき、人々の健康のために心を砕いてきた石田から聞いた、次の言葉が心に染みたという。「この楽器が奏でる美しくて心を豊かにしてくれる音楽を、ぜひ多くのみなさんと分かち合いたいです」
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