文化施設は、運営資金を誰からどのように寄付してもらうかに苦慮している。これは組織存続の危機につながりかねない問題だ。そんななか、88歳のアーティスト、ハンス・ハーケはキュレーターやアートコレクターたちをいまだにぎょっとさせ続けている

BY M. H. MILLER, PORTRAIT BY DANIEL TERNA, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

画像: アーティストのハンス・ハーケ。マンハッタンのウェスト・ヴィレッジにあるアビンドン・スクエアで2024年6 月26日に撮影。ハーケは、彼が見てきたアート界に蔓延するカルト的で無批判な崇拝思想を拒絶する意味を込めて、自らの顔写真を公開しない。

アーティストのハンス・ハーケ。マンハッタンのウェスト・ヴィレッジにあるアビンドン・スクエアで2024年6 月26日に撮影。ハーケは、彼が見てきたアート界に蔓延するカルト的で無批判な崇拝思想を拒絶する意味を込めて、自らの顔写真を公開しない。

 1970年の夏、アーティストのハンス・ハーケは、ニューヨーク近代美術館(以下MoMA)で《Poll of MoMA Visitors(MoMA来場者の世論調査)》と題した作品を展示した。これは『インフォメーション』というタイトルのグループ展の一部で、コンセプチュアル・アート分野の作家が初めて手がけた大規模調査の一例だった。来場者たちは紙を渡され、ふたつあるアクリルガラスの箱のどちらかにその紙を投票するしくみだ。壁には、当時ニューヨーク州知事として3期目を務めていたネルソン・ロックフェラーについて書かれたパネルが掛かっている。この頃、ロックフェラーは4 期目の当選を目指して選挙活動中だった。「質問」という文字がパネルに書かれており、次のような文が続く。「ロックフェラー州知事が、ニクソン大統領のインドシナ政策を非難しなかったことが原因で、あなたは11月の選挙で彼に投票しないつもりですか? 答え:『はい』の場合は左の箱に、『いいえ』の場合は右の箱に紙を入れてください」

 ロックフェラー家は1929年にMoMAの設立に尽力し、1963年にはネルソンの弟であるデイヴィッドが同美術館の理事会会長に選出された。ニューヨーク州知事として、ネルソン・ロックフェラーは1964年頃にはすでにベトナム戦争のさらなる拡大を呼びかけ、南ベトナム主導によるカンボジアとラオスへの侵攻が必要だという発言をしていた。ロックフェラー家のベトナム戦争への関与はそれだけにとどまらない。

 1950年代にロックフェラー家のプロジェクトで働いていたヘンリー・キッシンジャーは、1960年代初頭にネルソンが大統領選に出馬すると、彼のアドバイザーも務めた。その後、キッシンジャーはニクソン大統領の国家安全保障アドバイザーとなり、さらに1969年から秘密裏に開始されたカンボジアへのじゅうたん爆撃作戦の参謀も務めたのだ。この爆撃により15万人以上のカンボジア市民が殺されたと推定されている。この攻撃を皮切りに、米軍はカンボジアへの侵攻を開始し、ニクソン大統領は1970年4 月30日にそれをテレビ中継を通して宣言した。その翌日から、全米の学生たちが反戦デモに加わり、参加者は瞬く間に数百万人に達した。5 月4 日にオハイオ州のケント州立大学校内で州兵たちがデモ学生に向けて発砲し、学生4人が死亡した。

 その年の7月に『インフォメーション』展を開催する予定だったMoMAでも、緊張感が高まっていた。ハーケは館内に自作を完全に設置し終えるまで、作品の具体的な内容を秘密にしていた。この作品は、ほかの多くのコンセプチュアル・アーティストの展示と比べるとシンプルだが、表からは見えないMoMAの経営の裏側で多大な影響力をもつ偉大な権力者を、同美術館に作品を展示するいちアーティストが、批判的な視点で観察してみせるというものだった。この作品を通し、ハーケはまったく新しいアートの形態を生み出したのだ。MoMA理事会会長のデイヴィッド・ロックフェラーはこの展示を見て激怒した。ネルソン・ロックフェラーの事務所は、MoMA館長のジョン・ハイタワーに電話をし、ハーケの世論調査の展示を撤去しろと伝えたが、展示はそのまま続行となった。それが一因で、のちにハイタワーは辞職に追い込まれた。

 そしてハーケはまもなく芸術界からのけ者にされた。その翌年に予定されていたグッゲンハイム美術館での展覧会用に、彼は《Shapolsky et al. (シャポルスキーほか)》という新しい作品をすでに完成させていた。公文書として誰でも閲覧可能な不動産登記簿を調査して、ニューヨーク市の建物を所有するハリー・シャポルスキーが経営する不動産会社と多数の架空の企業の存在を突き止め、それをチャートにしたのだ。地元の地方検事はシャポルスキーのことを「行政の建物管理部の高官たちの体面をよく見せるためのハリボテだ」として罪を追及していた。シャポルスキーは家賃を不正につり上げていたことで有罪となった。

 このシャポルスキー作品と、別の二人組の不動産ディベロッパーを対象にして彼が制作した同じような作品を問題視したグッゲンハイム美術館の当時の館長トーマス・メッサーは、同美術館でのハーケの展覧会を中止にした。メッサーはハーケの作品を「異物」と評し、それが「美術館の生態系」に入り込むことは許さないと発言した。ハーケの個展をニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アートで2019年に開催することを共同企画したキュレーターのマシィミリアーノ・ジオーニはーーアメリカの大規模な美術館が彼の個展を開催したのはこのときだけだーーグッゲンハイム美術館が《シャポルスキーほか》を検閲したことを、「《階段を降りる裸体No.2》が拒絶されたあの有名な事件」と比較した。後者は、マルセル・デュシャンが1912年に制作したキュビズムとフューチャリズムを合体させた作風の絵画が、パリで行われた展覧会から閉め出されたことを指している。デュシャン本人はその理由を、ヌードという形態に対して、あまりに不敬な表現だったからだろうとのちに語っている。「これは、とんでもなく決定的な瞬間だ」と、ジオーニはハーケの展覧会が中止になったことを形容した。「彼はショックを受けたと思うが、同時に、この出来事は彼の人間としての正直さを公に知らしめた。そして現在ですらも、彼の高潔さは、多くの美術館経営者にとっては、不安をかきたて、居心地を悪くさせるものなんだ」

 ハーケが美術界に登場するまでは、ニューヨーク・タイムズ紙の美術評論家、ホランド・コッターの言葉を借りれば、美術館は「慎ましやかで、政治的な色を打ち出さない」場所だと認識されていたという。必ずしも公正とはいえない方法で莫大な富を築いた実業家たちが、自分たちの社会的影響力を高めるために美術館に寄付をしていたとしても、文化事業へのそんな慈善行為に疑問を挟む声はほとんどなかったのだ。だが、今日では「アートウォッシング」(註:アート作品やアーティストのポジティブな印象を使い、ネガティブな行為を覆い隠すこと)や「有害な慈善活動」という言葉を耳にするようになった。これらは、美術館やその他の文化組織が、企業や億万長者のイメージアップに利用されることを指す語彙として認識されつつある。ハーケの作品はまさにその点を突いているだけでなく─予言的ですらあったのだ。事実を繰り返し明るみに出すことで、彼は半世紀も前に誰よりも早く、芸術と政治の間の居心地の悪い関係にどんなリスクが潜んでいるのかを見抜いていたようだ。 

 今年5 月に、週1のペースで3 回にわたって、私は88歳のハーケとハドソン通りのバスストップ・カフェで会った。この店は、ロウアーマンハッタンではもうほとんど存在しなくなってしまった、まるで修道院のようなダイナーのひとつだ。席はいつでも空いていて、ラップトップを持ち込んでいる客はおらず、食事を注文しなくてもウェイターから嫌がられることがない。ハーケは毎回クランベリージュースを注文した。彼は47歳の息子のポールをいつも連れてきた。ブルックリンの私立大学プラット・インスティテュートで非常勤教授として人文科学とメディア研究を教えているポールは寡黙で、時々、日付やその他の細かい点をやんわり訂正する以外はほとんど口を挟まなかった(ポールはかつて雑誌の編集部でファクトチェッカーとして働いた経験があり、今は彼の父の話が間違いないかどうか確認する役割を担っているようだ)。

 ハーケは人嫌いではないが、極力、自分の作品に語らせるようにし、自らはよけいな講釈を挟まないようにしてきた。時にはインタビュー取材に応じることもあるが、顔写真の撮影不可をルールとしている(写真を撮られるのは「困るんだ」と言ったときだけ、彼の口調はいつもよりちょっぴり深刻だった)。ハーケの身体はとても細く、白髪の髭はきれいに整えられており、完全な円形をしたレンズの眼鏡をかけ、ゆったりとしたフランネルのシャツを着ていた。富裕層や権力者を容赦なく批判する彼の作品のイメージと、目の前にいる彼の人柄が、私の頭の中でうまく結びつかなかった。ハーケはおとなしく、親しみやすく、話し方も穏やかで、ほんの数メートル先でバスがキーッと音を立てて急停車すると、彼の声が聞こえなくなるほどだった。

 過去100年ほどの間で、彼は世界中で最も検閲されてきたアーティストのひとりだ。だが、彼は怒りや恨みを表現する言葉を持ち合わせていないようだ。《MoMA世論調査》という呼び名で、彼の作品は今では広く認知されているが、この展示のことを、ハーケはこう語った。「私が提示した質問に、人びとがイエスかノーかで投票するというものだ。この展示以降、16年ぐらいの間、私はあの近代美術館で行われたどんなイベントにも、一度も招かれたことはなかった」。彼が最も活き活きと感情をあらわにしたのは、近くにあるウェストベス・アパートメントのビルから─このアパートは政府の補助金によって運営されているアーティスト専用の住居で、ここにハーケは1971年からずっと住んでいる─同アパートの住人のひとりが電動車椅子で出てきて通りの角をビューンと曲がっていくのを見たときだった。「見て、彼女、すごい速さで動いてる!」とハーケは言った。彼自身も最近、手術を受けて、その後は車椅子を使っていた。彼はその女性を心配そうに見ながら、ちょっぴりうらやましそうでもあった。

 ハーケはフランクフルトのシルン美術館で2024年11月に開催される大規模な展覧会の準備中で、のちにその展示はウィーンのベルヴェデーレ宮殿の美術館(ベルヴェデーレ21)にも巡回する予定だ。また彼は、ニューヨークのポーラ・クーパー・ギャラリーで行われていた、アメリカ国旗をテーマにしたグループ展にも出展している。フランクフルトで行われる彼のキャリア回顧展には、彼の祖国ドイツを題材にした作品も多数含まれており、その中には、影響力があり、しばしば検閲の対象になった1981年制作の《Der Pralinenmeister(チョコレート・マスター)》と題された作品もある。チョコレート製造会社のオーナーで、ドイツで最も有名な美術蒐集家でもあったペーター・ルートヴィヒを題材にした作品だ。ずらっと並んだ14枚のパネルには、ルートヴィヒ本人や彼の工場で働いていた労働者たちの写真も含まれ、ハーケは、芸術を支援するパトロン活動とビジネス活動が複合していた様子を、テキストで詳細にパネルに記述した。

 つまり、ルートヴィヒは美術品を寄付したり、自分が所有するコレクションを公に展示したりすることで、税金控除の恩恵を受けており、さらに自分がチョコレートを製造し流通させている街の自治体に、自分が所有する美術品を貸し出していた。またこの《チョコレート・マスター》のパネルには、ルートヴィヒの工場では、敷地内の宿泊所に外国人労働者を住まわせていたことが書かれている。社内に託児所はなく、外国人女性労働者が子どもを産むと、女性たちは宿泊所から強制的に退去させられるか、子どもを児童養護施設に預けるか─あるいは養子に出すという選択肢しかなかったという記述がある。この作品内でハーケが記したテキストによれば、同社の人事部は「わが社はチョコレート工場であり、幼稚園ではない」という声明を出していた。ルートヴィヒは1996年に死去したが、彼にはこの作品を買い取りたい意向があったと報道されている。恐らくこの作品が人目につくことを阻止したかったのだろう。だが、ハーケは彼にこの作品を売る気はなかった。

《シャポルスキーほか》や《チョコレート・マスター》などの作品を制作する過程で、ハーケは「ジャーナリストが取材するようにリサーチしなければならなかった」と言った。彼は資料を徹底的に調べ、ほかの歴史家たちが無視してきた細かい点に目を配り、多くの場合、発見した事実をテキストに起こしていく。感情を排して淡々と、俯瞰した視点で全体像を把握しつつ記述するのだ。若い頃のハーケはアメリカ人の美術ライターのジャック・バーナムの影響を受けていた。バーナムは1960年代の終わり頃に「美のシステム」と呼ぶ概念を提唱した。ハーケはそれを「すべてのことはほかのあらゆることとつながっている」と表現した(《シャポルスキーほか》につけられた副題は「リアルタイムの社会システム」だ)。アートを通して、ルートヴィヒのような人間は、実業界における好ましい評判を、文字どおり金で買うことができたのだ。また1986年にニュー・ミュージアムで開催されたハーケの展覧会で、彼はデイヴィッド・ロックフェラーの次の発言を金属の銘板に彫り、それを展示した。「アートに関わっていると……企業にとっても大々的な宣伝になるし、ビジネス界での評判もぐっと上がり、企業イメージがさらに向上するんだ」

画像: 1970年、ニューヨーク近代美術館でハーケの作品《MoMA世論調査》に投票する来場者。ハーケは、当時ニューヨーク州知事だったネルソン・ロックフェラーの政治的な将来性について来場者に問いを投げかけた。ロックフェラー家は同美術館の主要な支援者でもあった HANS HAACKE, “POLL OF MOMA VISITORS,” 1970, TWO TRANSPARENT BALLOT BOXES WITH AUTOMATIC COUNTERS, COLOR-CODED BALLOTS © HANS HAACKE/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK/VG BILD-KUNST, BONN, COURTESY OF THE ARTIST AND PAULA COOPER GALLERY, NEW YORK

1970年、ニューヨーク近代美術館でハーケの作品《MoMA世論調査》に投票する来場者。ハーケは、当時ニューヨーク州知事だったネルソン・ロックフェラーの政治的な将来性について来場者に問いを投げかけた。ロックフェラー家は同美術館の主要な支援者でもあった

HANS HAACKE, “POLL OF MOMA VISITORS,” 1970, TWO TRANSPARENT BALLOT BOXES WITH AUTOMATIC COUNTERS, COLOR-CODED BALLOTS © HANS HAACKE/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK/VG BILD-KUNST, BONN, COURTESY OF THE ARTIST AND PAULA COOPER GALLERY, NEW YORK

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