文化施設は、運営資金を誰からどのように寄付してもらうかに苦慮している。これは組織存続の危機につながりかねない問題だ。そんななか、88歳のアーティスト、ハンス・ハーケはキュレーターやアートコレクターたちをいまだにぎょっとさせ続けている

BY M. H. MILLER, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

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画像: 1981年の作品《チョコレート・マスター》を構成するパネルの1 枚。この作品で、ハーケは、産業界を代表する実業家であり、美術蒐集家でもあったペーター・ルートヴィヒの事業内容について調査した。 HANS HAACKE, “DER PRALINENMEISTER” (“THE CHOCOLATE MASTER”) (DETAIL), 1981, 14 PANELS, MULTICOLORED SILK-SCREENS, COLLAGE OF PHOTOGRAPHS AND PACKAGING OF ASSORTED CHOCOLATES AND CHOCOLATE BARS, BROWN WOOD FRAME,GLASS © HANS HAACKE/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK/VG BILD-KUNST, BONN, COURTESY OF THE ARTIST AND PAULA COOPER GALLERY, NEW YORK.

1981年の作品《チョコレート・マスター》を構成するパネルの1 枚。この作品で、ハーケは、産業界を代表する実業家であり、美術蒐集家でもあったペーター・ルートヴィヒの事業内容について調査した。

HANS HAACKE, “DER PRALINENMEISTER” (“THE CHOCOLATE MASTER”) (DETAIL), 1981, 14 PANELS, MULTICOLORED SILK-SCREENS, COLLAGE OF PHOTOGRAPHS AND PACKAGING OF ASSORTED CHOCOLATES AND CHOCOLATE BARS, BROWN WOOD FRAME,GLASS © HANS HAACKE/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK/VG BILD-KUNST, BONN, COURTESY OF THE ARTIST AND PAULA COOPER GALLERY, NEW YORK.

 ハーケは1936年にケルンで生まれた。同じ年に、ナチス政権は、第一次世界大戦後のベルサイユ条約によって非武装地帯と定められていたラインラントに軍隊を進駐させた。ハーケの父は中道左派の社会民主党の党員で、ケルン市の職員として働いていた。ナチスが政権を取ると、ケルン市職員たちは全員ナチスに入党するように命じられたが、ハーケの父はそれを拒否し、独立して会計士として働き始めた。

 ハーケの幼い頃の最初の記憶のひとつが、6歳のときに見た光景だ。「夜中に空襲警報が鳴り、私たちは地下にいて、そのときが来るのをじっと待っていた」と彼は言った。「翌朝、自宅から学校に向かう道を歩いていたら、爆撃された建物があった。その建物は跡形もなく燃え尽きていた。それ以外の建物はすべて無事だった。あの光景は一生忘れられない」。どうしてあの建物が爆撃を受け、彼の自宅は助かったのか? ハーケはその後の人生を通して、この一見偶然にも見える出来事が何を意味するのかを解明しようとしてきた。

 1956年に彼は西ドイツの工業都市、カッセルに引っ越した。この街は当時ソビエト連邦が占領していた領土から48キロメートル以内に位置していた。彼はカッセル芸術大学に入学したいと願っていた。彼いわく「当時、バウハウスの伝統をなんとか継承していたアートスクールは、ここ一校だけだったから」。この大学は、陶芸からタイポグラフィ(註:活版印刷の文字の体裁を整える技術)まで、幅広い分野を、学科の垣根を越えて教えるのが特徴だった。ハーケは高校の美術教師になるつもりだった。

 現在では、カッセルは、5年に一度の世界で最も重要な現代芸術祭のひとつ、「ドクメンタ」の開催地として知られている。1959年に行われた2回目の「ドクメンタ」で、カッセル芸術大学の学生たちは現場の運営を任され、ハーケは警備員を務めながら、会場の展示の設営をし、その合間に写真撮影をして、彼の最初の大規模なアート作品《Photographic Notes, Documenta 2, 1959(写真ノート、ドクメンタ2 、1959年)》を制作した。来場者が展示を鑑賞する姿を、乾いたユーモアを込めて撮影し、冷戦時代の西ドイツに漂う雰囲気を切り取ったのだ。ある写真では、幼い少年がワシリー・カンディンスキーの抽象画のキャンバスに背を向け、ミッキーマウスの絵が描かれたコミック本に夢中になって顔を埋めている様子を撮影している。ちなみに、カンディンスキーの作品は、かつてナチスが「退廃芸術」だと断じた作品を集めて開催した1937年の展覧会で公開されていた。

 ハーケは主に抽象画について学んでいたが、1960年代のほとんどの時間を、彫刻という媒体をいかに刷新するかを考えて過ごしていた。1962年、彼がフルブライト奨学金を得てアメリカでアートを学んでいたときに、リンダ・スナイダーと出会った。彼女はブルックリン出身で、大学でフランス語の学位を取ったばかりだった。ふたりは1965年にドイツで結婚し、大型客船に乗って、アメリカに戻ってきた(夫婦にはもうひとりの息子、カールがおり、彼はテック界の起業家だ)。船旅を終え、ニューヨーク港に着くと、ハーケの元にハワード・ワイズ・ギャラリーで個展をやらないかという誘いの電報が届いた。彼の友人で同ギャラリーで展覧会を開いたことがあるドイツ人アーティストのオットー・ピーナがハーケへの結婚祝いとして企画したのだ(「まるでおとぎ話のようだった」とハーケはマンハッタンに到着したときのことを語る。「私はものすごく幸運だった」)。彼はニューヨークのバワリー地区のワンルームのスタジオで制作にいそしみ、自然界の物質を使って彫刻作品をつくった。たとえば、アクリルガラスの容器の中に水を入れ、その水が徐々に蒸発し、やがて水滴になって容器に張りつく作品や、扇風機の上に白い布を設置し、風を受けてその布が永遠に波打つ展示、さらに、土を山状に盛り、そこに芝生を植えた展示もある。そんな彫刻作品は、彼のその後のキャリアを彷彿とさせるものでもあった。ものごとの原因と結果に着目し、人間の決断とそれが引き起こす結果にこだわるアーティスト魂がそこにはあった。

 物理的で、自然環境に根ざしたシステムを題材とした彼の作品づくりが、政治的なメッセージを自由に織り込んだものへとシフトしたのは、1968年頃だった。マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺された事件を受けて、彼は美術ライターのバーナムにこんな手紙を書いている。「リンダと私はここ数日間ずっと落ち込んでいて、今でもまだ気分が回復していない。今回の事件は、自分が昔から気づいていたことを、これでもかというほど苦く情けない気持ちで思い起こさせた。我々が日頃やっていること、つまり、作品をつくって彫刻について話し合うことは、今この社会で起きている火急の問題には何の関係もないことなんだって……。"怒れるアート"の展示を何度やろうと、ナパーム弾の投下を一度だって阻止できやしない。アートは政治的な道具としては、まるで適さない……。そんなことは何年も前から知っていたし、それを気に病んだこともなかった。だが、今になって突然、それを苛立たしく感じるんだ」

 ひとりのアーティストとして、彼は自分が戦争を止めることも、選挙の結果に影響を及ぼすこともできないと知っていた(《MoMA世論調査》では、ほとんどの来場者がネルソン・ロックフェラーに投票はしないと答えたように見えたが、ロックフェラーは州知事として4 期目も再選され、その後、ジェラルド・フォード大統領の下で、副大統領まで務めた)。それでも《MoMA世論調査》は、美術館で展示されているアート作品に対する人びとの見方を変えた。同時に、アートと世界の関係性を俯瞰で見るという視点も人びとに与えたのだ。そして、以降のハーケの作品はそれまで以上に容赦なく、真実を暴く方向に向かっていく。1971年には、彼はミルウォーキー・アートセンターや、ニューヨークのジョン・ウェーバー・ギャラリーやその他の美術館で行われた展覧会の来場者たちの属性の調査を実施し始め、アートビジネス界において、リベラル派の人びとがいかに自分たちの文化以外に興味がないかをほぼ初めて数値的に実証する結果を提示した。

 また1975年には、投資対象としてのアートの価値が上昇していることを提示するため、ジョルジュ・スーラの1888年の絵画作品《ポーズする女たち》(小さい判型版)の所有者証明書と売買記録をたどって、それをチャート化した。すると、その絵を所有し売買した者の中には、ルクセンブルクを拠点とする持ち株会社もあった(註:ルクセンブルクは、かつては租税回避地として知られていた)。また、東西ドイツ統一のほんの数年後に行われた1993年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、彼は《ゲルマニア》と題したイスタレーション展示を行なった。ナチスが1938年にリモデルしたドイツ館の床に張られていた大理の板を剝がして粉々に壊し、さらに1934年のビエンナーレにアドルフ・ヒトラーが訪れた際に撮影されたヒトラーの写真を飾った。人びとの間に民主主義と新しいドイツへの楽観的な気分が漂うなか、ハーケは、明るい未来の到来の裏に、暗い過去が存在したことを人びとに思い起こさせた。ハーケのアート・ディーラーのポーラ・クーパーは、この展覧会の入り口で順番を待っていたとき、チョコレート富豪のペーター・ルートヴィヒのすぐ後ろに並んでいた。「彼は不愉快そうな顔をしていた」と彼女は語った。

 ハーケは今では、近現代美術の枠組みの中で、特異な位置を占めている。彼は尊敬されてきたと同時に、キャンセルされ、批評家からは崇拝される対象でありながら、商業的には過小評価されてきた。彼はニューヨークの私立大学、クーパー・ユニオンで35年間教鞭を執って生計を立てていた。キュレーターのジオーニは、彼ほどの実力があるアーティストで、作品の多くを現在でも自分で所有している人は、ほかにほとんど誰もいないと私に語った。「ハンスはとてつもないレベルで成功している」とジオーニは言う。「でも、彼の輝かしい業績がアート業界から称賛されることはほとんどない。彼はまるでフランシスコ会修道士のように、慎ましく生きているんだ」。ハーケのことを、第二次世界大戦後、最も重要な人物のひとりだと評する美術歴史家のベンジャミン・ブックローは、残念そうな声で、現在のこのタイミングでは「ニューヨークのアート界の人びとの関心は、ハンス・ハーケとは対極のところにあるんだ」と語る。2019年にニューヨークで開催された彼の回顧展の会場がニュー・ミュージアムであり、MoMAではなかったという事実。つまりそれは「ハーケが突きつける挑戦は、今この時代になっても、美術館にとっては、居心地の悪いものだということだよ」とブックローは言った。

 私たちはよく、アーティストたちは時代を先取りしている、と表現する。だが、ハーケの考え方はあまりに進みすぎていて、世の中が彼についてくることができると考えること自体がすでにおかしいのかもしれない。ジオーニの言葉を借りれば、この男は「世間からは受け入れられない形の愛」を抱いており、だからこそ、彼は美術館に対して、高いレベルの倫理を要求してきたのだ。ほとんどの宗教が、その聖職者たちに要求するよりも高潔な倫理を。だが、そんななかでも、近年台頭してきたアクティビスト・グループの中に彼のレガシーが受け継がれているのを見ることができる。たとえば1980年代に、美術館は女性アーティストを閉め出していると批判した「ゲリラ・ガールズ」や、最近では、「ジャスト・ストップ・オイル」(イギリスの環境運動団体)や「オキュパイ・ミュージアム」、フォトグラファーのナン・ゴールディンが立ち上げた「P.A.I.N.」(註:Prescription Addiction Intervention Nowの略語。「処方鎮痛薬による依存症を今すぐなくせ」の意)などのグループもそうだ。なかでもP.A.I.N.の活動が可視化されるなかで、美術館側は、たとえば、オピオイド系鎮痛剤の販売により利益を得て巨万の富を築いたサックラー家のようなアート・コレクターたちとの、密接な関係を断ち切ることを強いられた。ハーケの作品は売れることはほとんどなかったが、その影響力は、水が少しずつしみ出すように、幅広い範囲のカルチャーに広がっていった。コンセプチュアル・アーティストとしては、彼は稀有な道をたどったといえる。

 ハーケは、美術館というものは、大学と同じように、政治や商売などの有象無象の人間の営みを超えた雲の上の高尚な存在などではなく、実は、銀行や企業が緻密に利益を計算するのと同じ方法で決断を下している組織なのだ、と人びとに再認識させた。そして、そうすることで彼はアートの新しいサブジャンルを創造し、それが次第に世の中に浸透し、今ではそんな表現方法が存在することが、当たり前にすらなっている。彼の後継者は、たとえば、ダーレン・ベイダー、アンドレア・フレイザー、ワリッド・ラード、そしてフレッド・ウィルソンなどだ。そのほかにも、アートビジネスの構造的な問題点を題材にして作品をつくるすべてのアーティストが、彼の意志を引き継いでいる。《MoMA世論調査》が世に出てから年月がたつうちに、文化施設はおおむね、その運営資金の出どころを、より細かに精査せざるを得なくなった。たとえば、気候変動を規制する法律を連邦政府が制定することを、長年、湯水のように大金を使って阻止してきたコーク兄弟(アメリカの巨大産業創業者のコーク一族)の名前を、メトロポリタン美術館などの施設の入り口に刻印するというアイデアには、たくさんの人びとが激しい非難を浴びせた。だが多くの場合、反対の声は時とともに沈静化していく(結局、2014年にメトロポリタン美術館前の広場は、デイヴィッド・H・コーク・プラザと新しく名付けられた)。だが、人びとに、どうやって憤りを表現すればいいかを身をもって示したのがハーケだった。

 しかしハーケは、ほかのアーティスト仲間とは違い、自分の作品を通して掘り起こした問題について、自分が広報官となって発言して世の中に訴えかけるということは決してしなかった。彼のアートは教義的なものではないのだ。彼は大胆だが思慮深く、衝動に任せて反応するのではなく、自分の頭と手を使って、実験を通して探索していくタイプなのだ。最近のアート界では、深く分断されている政治状況の中を舵取りしつつ運営しているギャラリーや美術館の内部で、言論統制の度合いや恐怖が高まっている。ハーケは昨年のほとんどを病院のベッドで過ごしていたため、いつものように自分でリサーチをすることができなかった。アートビジネスの内部で起きていること─そしてアートが実際に政治に影響を及ぼす可能性─については、今では若い世代にその責任のバトンが渡された。

 だが、ハーケは若者たちにとって興味深い道しるべを確実に残してきた。彼とのインタビューの最終日に、彼の作品の中でも、おそらく最も希望に満ちた展示である《Der Bevölkerung》(2000年)について語り合った。翻訳すると「住民たちへ」という意味だ。これは、ベルリンにあるドイツの連邦議会議事堂である「ライヒスターク」の中庭に恒久的に設置された展示で、巨大な横長の区画に大量の土が盛られており、その真ん中に、「Der Bevölkerung」というフレーズが、白い蛍光文字で描かれている。一年を通して、議員たちがそれぞれ自分の選挙区から土を持ち寄り、その土を混ぜてこの区画に入れ、さまざまな植物が自然に発芽するのを眺める、というのがこの作品のアイデアで、民主主義の実験の比喩でもある。この「Der Bevölkerung」というフレーズは、ライヒスターク議事堂の正面に刻印されている「Dem Deutschen Volke」という言葉を意識的にもじっているのだ。

 このフレーズは翻訳すると「ドイツ国民へ」という意味だ。ハーケはこの作品のアイデアを1999年に提案した。当時は、トルコやその他のイスラム教徒の人口が多い国からドイツへの移民が増加していた。「ドイツ国民に捧げるというよりも、この国に住む人びとに捧げる記念碑にしたかった」とハーケは語った。「いわゆる、ドイツで生まれ育った人」だけに限定しないという意味を込めて。当時、議会の過半数を占めていた中道右派の党であるキリスト教民主同盟が、ハーケのアイデアに強く反対していたと彼は言った。そこで議会の669人の議員たちは、このアート作品を設置すべきか否かについて議論を交わすことになった。

 2000年に行われた議論のプロセスに参加したハーケは「私の案に猛烈に反対する人たちがいた」と言った。「私のアイデアが通るとはとても思えなかった。でも最終的には、2 票差で私の案が可決されたんだ」。作品を展示することに賛成した議員の中には、自分たちが所属する党の総意に逆らって賛成票を投じた女性が二人いた。そしてそのうち一人は「人道に対する戦争犯罪でナチスが裁判にかけられた都市、ニュルンベルクの出身だった」と彼は言った。

 来年はこの作品が設置されてから25周年にあたる。ドイツや西欧諸国の多くの国で反移民の気運が高まるなかで、今、極右の勢力が拡大している。だが、ハーケは私にこう言った。「あれからいろいろ変わった。時間がたつにつれ、当時《Der Bevölkerung(住民たちへ)》に反対票を投じた政党の多くの議員たちが、自分たちで土を持ってきて、あの場所に入れたんだ」

 それは単なる土ではない。土の中には植物の種が混じっており、種が発芽してやがて花が咲く。それが今では年中行事になった。「庭として扱わないでほしい、と私は念を押した」とハーケは言った。「植物が自然発生的に生えている状態が、あるべき姿だ」。そしてそれよりさらに重要なことは、と彼は続ける。「現在進行形であることなんだ」。この作品は未完成だ。そして、この先も、永遠に完成しないことが運命づけられているのだ。

画像: 《シャポルスキーほか。マンハッタン不動産持ち株会社、1971年5 月1 日現在のリアルタイムの社会システム》(1971年)。ニューヨーク市内の不動産所有者を詳細に調査した作品。この作品の反響を受けて、グッゲンハイム美術館はその年に予定されていたハーケの展覧会をキャンセルした。 PHOTO: ROLAND FRITSCH; HANS HAACKE, “SHAPOLSKY ET AL. MANHATTAN REAL ESTATE HOLDINGS,A REAL-TIME SOCIAL SYSTEM, AS OF MAY 1, 1971” (DETAIL), 1971, TWO MAPS (PHOTO ENLARGEMENTS), BLACK-AND-WHITE PHOTOGRAPHS, 142 TYPEWRITTEN SHEETS, SIX CHARTS, ONE EXPLANATORY PANEL © HANS HAACKE/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS),NEW YORK/VG BILD-KUNST, BONN, COURTESY OF THE ARTIST AND PAULA COOPER GALLERY, NEW YORK

《シャポルスキーほか。マンハッタン不動産持ち株会社、1971年5 月1 日現在のリアルタイムの社会システム》(1971年)。ニューヨーク市内の不動産所有者を詳細に調査した作品。この作品の反響を受けて、グッゲンハイム美術館はその年に予定されていたハーケの展覧会をキャンセルした。

PHOTO: ROLAND FRITSCH; HANS HAACKE, “SHAPOLSKY ET AL. MANHATTAN REAL ESTATE HOLDINGS,A REAL-TIME SOCIAL SYSTEM, AS OF MAY 1, 1971” (DETAIL), 1971, TWO MAPS (PHOTO ENLARGEMENTS), BLACK-AND-WHITE PHOTOGRAPHS, 142 TYPEWRITTEN SHEETS, SIX CHARTS, ONE EXPLANATORY PANEL © HANS HAACKE/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS),NEW YORK/VG BILD-KUNST, BONN, COURTESY OF THE ARTIST AND PAULA COOPER GALLERY, NEW YORK

※カタカナの人名表記に関しては、編集部の判断により日本で広く使われている表記を使用しています。

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