ミラノのうら寂しい一角、ひとりの建築家が、打ち捨てられた工場に住居とスタジオを構えた。彼が求めたのは形を変えることではなく、ここで暮らすことで自身が変わることだった

BY NANCY HASS, PHOTOGRAPHS BY MIKAEL OLSSON, TRANSLATED BY JUNKO KANDA

 ミラノ北部のビコッカ地区は、建築家の空想力をかきたてる場所とは言い難い。今も昔も薄汚れ、歴史的価値もほとんど認められない準工業地域(錬鉄製品のような美術工芸的な産業は営まれていない)であるビコッカは、あまりに陰気で、きらびやかなところは少しもない。ほんの20分の距離にある、モンテナポレオーネ通り、スピーガ通り、サンタンドレア通りからなるファッションのゴールデントライアングルが、洗練されて艶やかであるのとは好対照だ。この地区の顔と呼べるのが20世紀初頭に誕生した社宅村、ボルゴ・ピレリだ。ピレリタイヤ工場の労働者を組み立てラインの近くに住まわせるために建てられた赤い屋根の低層アパート群は現在、公営団地として使われている。

画像: ミラノ北部。この大きな扉は、廃業した工場敷地の入り口。アンドレア・トニョンはここに、実に美しいスタジオと住居を構えた

ミラノ北部。この大きな扉は、廃業した工場敷地の入り口。アンドレア・トニョンはここに、実に美しいスタジオと住居を構えた

2004年、ピレリは自社所有のスペースの一部を洞窟のようなギャラリーに改装し、ハンガー・ビコッカと名付けた。この場所に設置することを目的に、アンゼルム・キーファーに82トンのインスタレーションを制作してもらって目玉としたものの、第二のビルバオ・グッゲンハイム美術館とはならず、ロフトスペースを求めるアーティストたちを次々と呼び寄せる起爆剤ともならなかった。イタリアでは変化のスピードは遅く、ミラノの住民が大胆奇抜な試みに大きな魅力を感じることはこれまでもついぞなかった。

 しかし、デザイナーおよび建築家として活躍するアンドレア・トニョンの心をとらえたのは、まさに、この場所の荒れた、非ロマンティックなオーラ、そして氷河の動きのようにゆっくりとした変容の遅さであった。セリーヌ、ジル・サンダー、マックスマーラといったブランドのブティックを設計し、迅速に施工する能力で知られているトニョンだが、私生活においては華やぎもにぎわいも避け、禅のごとき忍耐心と抑制の精神から生まれる空間に暮らすことを好む。人為的な磨きをかけることのない空間である。ゆえに、2010年に、それまで住まい兼仕事場にしていたありきたりなフラットから、約3.2㎞ほど離れたビコッカに引っ越した。廃業した工場の事務棟に、まったく独自の住居とスタジオを――ゆっくりと、非常にゆっくりと――つくるのが目的であった。鋪道の割れ目からデイジーに似たカミツレが顔を出し、タクシーの運転手も見つけるのにひと苦労する無名の通りに面し、コーヒーを出すバールも店舗もなく、見渡す限り人っ子ひとりいない。

画像: かつては経理係や事務職員が働いていたと思われる部屋の、汚れた茶色のビニール製壁紙は、やわらかな色調のペイントで塗装された。壁に飾られている切り込みが入ったキャンバスは、ルーチョ・フォンタナが昔使っていたスタジオに隣接するスペースを、友人が改装するのを手伝っているときに見つけたもの。トニョンは、これはフォンタナが捨てたキャンバスだと想像して楽しんでいる。テーブルの上には、ホワイトオニキス、ピンクオニキス、そしてリグーリアにあるお気に入りのビーチで拾った石が置かれている

かつては経理係や事務職員が働いていたと思われる部屋の、汚れた茶色のビニール製壁紙は、やわらかな色調のペイントで塗装された。壁に飾られている切り込みが入ったキャンバスは、ルーチョ・フォンタナが昔使っていたスタジオに隣接するスペースを、友人が改装するのを手伝っているときに見つけたもの。トニョンは、これはフォンタナが捨てたキャンバスだと想像して楽しんでいる。テーブルの上には、ホワイトオニキス、ピンクオニキス、そしてリグーリアにあるお気に入りのビーチで拾った石が置かれている

 トニョンには、ジェントリフィケーション(訳注:比較的貧しい人々が住む地域を再開発して、高級な店が並び、豊かな人々が住む地区とすること)を図るディベロッパーを歓迎するつもりはさらさらない。一夜にして変貌した場所にどういったことが起きるかを自分の目で見た経験があるからだ。トニョンはパドヴァで育ち、父親はそこでデザイナーのショールーム用にカスタムオーダーの家具を作る工場を経営していたが、ボッテガ・ヴェネタのアメリカ国内のストアを数多く設計していた頃は、ブルックリンのウィリアムズバーグにあるスタジオ兼フラットで大半の時間を過ごしていた。そして、画家や彫刻家や職人のコロニーとなっていたロマンティックに古色を帯びた廃工場が、ガラスがきらめく高層コンドミニアム――パーティルームや炉まで備わっている――に取って代わられるのを目のあたりにして悲しい思いを味わった。

そして、ヨーロッパに戻る潮時だ、と悟った。トニョンは、柳を思わせるしなやかな体つきに似合う穏やかでなめらかな声でこう語る。「ここでは、朝起きたらすべてが跡形もなくなっているのでは、と心配する必要はありません」

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