ミラノのうら寂しい一角、ひとりの建築家が、打ち捨てられた工場に住居とスタジオを構えた。彼が求めたのは形を変えることではなく、ここで暮らすことで自身が変わることだった

BY NANCY HASS, PHOTOGRAPHS BY MIKAEL OLSSON, TRANSLATED BY JUNKO KANDA

 この地所が彼に話しかけるようになるにつれ、ガレージのひとつがスタジオになるべき、ということが彼にとって自明の理となった。今や、6人の若いデザイナーがコンクリートのプラットフォームの上でコンピューターに向かい、ジル・サンダーの東京旗艦店、ベルン郊外のオメガ本社、メッシュとメタルチューブでつくられた照明器具シリーズといった新プロジェクトに取り組んでいる。トニョンは、冬でも快適に過ごせるように、彼らが働くプラットフォームの下に湯が流れるパイプを設置した。

もうひとつのガレージは、風が吹き抜けるアウトドアのリビング兼会議スペースとして残り、ここに置かれているテーブルやくつろぐためのプラットフォームは、古い金属パイプや木材の薄板の残骸でつくられており、シープスキンで覆われている。あたり一面に置かれているのは、トニョンがプロジェクト用に検討している素材をデリケートなバランスで積み重ねた静物画風のオブジェである。黒いポリスチレンにミルキーホワイトの樹脂を重ね、てっぺんには鮮やかなブルーのソーダライトの小片となめらかな板状のヒスイとオニキスをのせたオブジェが、ざらついたブルーグリーンのコンクリートブロックに寄りかかっている。

画像: 工業用のフェルトを積み重ねてつくった長椅子の隣には、トニョンがデザインした照明器具が置かれている

工業用のフェルトを積み重ねてつくった長椅子の隣には、トニョンがデザインした照明器具が置かれている

 トニョンは、それまで色には特に関心を抱いていなかった(多くの場合、石材の微妙なカラーニュアンスだけで満足していた)が、ビコッカではさまざまな色彩を試すようになった。この場所を引き継いだ当初、オフィス棟の灰色の外壁には白カビがまだら模様をつくっていた。しかし、2011年のある日の午後、マックスマーラの幹部の初めての来訪に向けて準備していたトニョンは、いい加減にこの場所を見栄えよくしなくてはと決意し、一日でその外壁をチャコールグレーに塗った。内側については、ところどころが紐状にふくらんだ、陰気な茶色のビニール壁紙をはがそうと考えたが寸前で止めた。はがすかわりに、外側と同じように、ただし控えめなパステルカラーでペイントすることにした。その結果は、彼がセリーヌブティックのために構想して有名となった大理石の表面材――ペールピンクとごく淡いグリーンの縞模様――に通じる、ただしもっと素朴な意匠となった。

 今では2階に三つの小さな部屋がある(そのうち、トニョンが寝室として使っている部屋には、マットレスと彼自身がデザインしたコンクリートチェアのほかにはほとんど何も置かれていない)ものの、建物はいまだに伝統的な家とはほど遠い。階下の、かつてはオフィスマネジャーや秘書たちが詰めていたと思われるスペースには、リビングルームの代わりに、積み重ねたオブジェをのせた複数のテーブルが置かれている。長い棚には、さまざまなオブジェが一風変わった取り合わせで飾られている。メランコリックなファウンド・フォト(訳注:いつ、誰が何の目的で撮影したのかわからない写真を集めて写真集にしたり、加工したりして自分の作品とするアート)もあれば、トニョンが子どもの頃に制作した彫刻作品もある。

小さなヴィンテージの油彩風景画が一枚、壁にかかっている。隠すことがいかに想像力を引き出すか、19世紀の哲学者ジャコモ・レオパルディの詩から着想を得たトニョンは、この絵のキャンバスの大部分をローズ色のカーペットサンプルで覆い隠している。飾り棚の両サイドには、ブックエンドの代用として蛍光色(ホットピンクや黄緑色)のダクトテープを留めている。ゲストを迎えるときは、「玄関スペースにたむろしています」とのことだ。そこには、仕事で余ったフェルトを積み重ねてつくった、ミニマルな長椅子がいくつか置かれている。

画像: 僧院のように簡素なトニョンの寝室からは、ガレージ区画のひとつの金属屋根とイチジクの木の枝が見える

僧院のように簡素なトニョンの寝室からは、ガレージ区画のひとつの金属屋根とイチジクの木の枝が見える

 この場所はとても静穏で充実して自己完結しているので、トニョンはときとして何日も、何週間も外出しないことがある。日曜日は、高くそびえる楡の木の近くで、ミラノの陽射しを避けて、自分がデザインしたコンクリートのラウンジチェアに座り、布装丁の画帳に新たなデザインをスケッチしている彼の姿をよく見かける。近くの石の上には、エスプレッソコーヒーが危なっかしそうにのっている。「肝心なのは、あなたが場所に順応することで、あなたが変わることです」とトニョンは語る。「多分、あなたが場所を変える以上に、場所があなたを変えるのです」

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