クリエイティブなエネルギーの中心地へと成長中のメキシコの都市グアダラハラでは、一世紀前にルイス・バラガンから始まった建築デザインの伝統が発展し、宗教にインスパイアされた瞑想的な居住空間の新風が吹いている

BY MICHAEL SNYDER, PHOTOGRAPHS BY ANTHONY COTSIFAS, TRANSLATED BY NHK G-MEDIA

 ルイス・バラガンは24歳のときにパリに渡り、1925年のパリ万国博覧会を見物した。そしてグアダラハラに戻ってきた彼が熱心に語ったのは、ヨーロッパの建築界に彗星のごとく現れた前衛建築家たちではなく、同年に出版された2冊の本、『Jardins Enchantés(魔法の庭園)』と『Les Colombières(レ・コロンビエール)』のことだった。いずれもフランスのランドスケープアーキテクト、フェルディナン・バックの著書である。噴水を中心にデザインされ、つる植物をはわせたアーチや完璧な景観が配置されたバックのロマンティックな庭園は、バック自身が書いたとおり、「休息と安穏な喜びの場所」であった。

 タパティオ建築を研究する64歳のフアン・パロマルによれば、これらの書籍は「ヨーロッパ沿岸と北アフリカを融合した地中海文化を象徴し、バラガン自身の故郷の建築を思い出させるもの」だった。コートダジュールのオープンテラス、モロッコのメディナ(旧市街)の日陰、アルハンブラ宮殿の暗い通路の先にある水鏡などは、いずれもバラガンが幼少時代を過ごしたハリスコの田園地帯で見たもの――アシエンダの漆喰で白く塗られたアドベ煉瓦(日干し煉瓦)造りの家屋や、この地域の聖アウグスティヌス修道院の劇的な雰囲気――を彷彿とさせた。

 それからの10年間、メキシコシティの建築家の多くは初期モダニズムの鋭角的な幾何学に傾倒したが、バラガンと彼の仲間たちは、グアダラハラの新興住宅地を地中海風のヴィラや、バックにインスパイアされたクロム(シルバー光沢仕上げ)やテラゾー(人造大理石)の装飾を施した庭園でいっぱいにした。

 彼らの関心は、パロマルによれば、「伝統を守りながら時代に寄り添った建築」の創造にあった。その好例が1937年の〈アラングレン邸〉だろう。カステヤノスが設計したこの邸宅は、最近、44歳のフランシスコ・グティエレスと50歳のルイス・アルドレテという二人の建築家によって3つのオフィスに改装された。カステヤノスはファサード(今は葦毛色に塗られている)を実用的なスタッコで覆い、「近代性とのたわむれ」とグティエレスが呼ぶアール・デコのフリーズ(水平の帯状の彫刻のある壁)やバウハウスの影響を受けたデザインの窓は、保守的な感性をもつ近所の人たちの気分を害さないようにという配慮からか、内側の庭園のほうに向けた。グティエレスとアルドレテによる改装も、控えめで思慮深いものだ。噴水の音に導かれて総面積約1,000m²の敷地を歩いていくと、真っ白な部屋をいくつも通ることになる。

画像: 1937年に建てられた〈アラングレン邸〉の階段

1937年に建てられた〈アラングレン邸〉の階段

 グティエレスとアルドレテは、漆喰に繊細な線をエッチングしている――その線は、今は封じられた扉があったところを示している。1階の約150m²のスペースを占めるアルドレテのスタジオに入ると、半月形のアーチを通して、石灰岩が階段状に積まれた噴水がようやく見えてくる。裏にある二つ目のパティオでは、グティエレスとアルドレテは、かつては使用人の部屋があった離れを母屋とつなぐオープンエアの渡り廊下に、ガラスと塗装された鋼鉄の頑丈な覆いをつけた。その内側の廊下と階段の境目にあるアーチは、2階と3階の間に階段をつくるために屋根に穴を開けた位置を示している。

 太陽が雲の後ろに隠れると、その光が廊下の東側の壁にある帯状の窓からやわらかく差し込み、扉の側柱や階段の吹き抜けのシンプルな幾何学的配置が平面的に見える。図形の中に図形を配置したその構図は、ドイツ生まれでアメリカに移住した美術家ヨゼフ・アルバースが四角形を描いた1950年代後半の一連の作品と似ている(それらの絵画もスペインに支配される前のメキシコ建築の影響を受けたものだと言われている)。しかし、ハリスコのまぶしい太陽が再び雲の後ろから出てくると、アーチの後ろに隠れていた明かり取りの窓から光が降り注ぎ、暗がりの中にあった階段を浮かび上がらせる。

 ペドロ・カステヤノスが〈アラングレン邸〉を建てた前年の1936年は、タパティオ派の“カエスーラ(中間休止)”の時期だった、とパロマルは言う。この年、ルイス・バラガンはグアダラハラからメキシコシティへ移り住み、それからの40年間はそこで自らの表現を成熟させ、磨きをかけた。彼の初期の住宅に見られたような型にはまった装飾を減らし、まずは粗削りな機能主義へと向かい、やがては今日の彼のスタイルとして認められている大胆な色使いや抽象的なフォルムへと移行した。

 一方、カステヤノスは、2年後の1938年にフランシスコ修道会の修道士として誓いを立て、彼がグアダラハラ周辺に建設する教会は、年月とともにますます現代的になっていった。その後の数年間、カステヤノスの仲間のひとりのイグナシオ・ディアス・モラレスは、グアダラハラの旧市街に新たに目抜き通りを設け、クルス・デ・プラサス(広場の十字架)を建設した。大聖堂の周りを4つの広場で囲って十字架の形にしたものだが、いかにもタパティオ派らしいパラドックスで、その十字架は十字の中央より下側に当たる場所から制作されていった。

 しかし、ディアス・モラレスの最も重要な業績は、彼の故郷に初の建築学部を創立したことだ。グアダラハラ大学の建築学部は1948年に開校した。モラレスはヨーロッパを旅して回り、多彩な顔ぶれの教授陣をプログラムのために編成した。そのひとりが、ドイツ生まれのカリスマ的な芸術家マシアス・ゲーリッツだった。彼は1990年にメキシコシティで死去した。また、オーストリア人の建築家エーリッヒ・ツォウファルは、2021年1月に94歳で亡くなるまで、70年あまりをグアダラハラで暮らした。

 ゲーリッツとツォウファルは、都市計画や工学から枝分かれした分野として建築を教えるのではなく、絵画的な構図や工芸技術に焦点を合わせた。ゲーリッツが1953年にメキシコシティに建てたエル・エコ実験美術館は、角度をつけた壁が遠近感のゆがみを生み、奥行きを感じさせる。ツォウファルは、1960年代半ばに完成させた〈バンコ・インダストリアル・デ・ハリスコ(ハリスコ興業銀行)〉と〈カサ・デ・ラス・アルテサニアス(工芸の家)〉で、打設したコンクリートで精巧なスクリーンを構築し、面白みのないモダニストの箱型の建物を手織りのじゅうたんのように豊かな質感のある、浮遊する芸術作品に変身させた。

 このような斬新な発想をゲーリッツとツォウファルから学び、サルバドール・デ・アルバやフリオ・デ・ラ・ペーニャなど地元の有名建築家の影響を受けた建築学部の第1期卒業生は、絵画のような構図や動きに重点を置く表情豊かな独自のモダニズムを発展させた。1959年には、グアダラハラの旧市街の東端にアレハンドロ・ゾーンが設計したサン・フアン・デ・ディオス市場の複合ビルが完成した。むき出しの煉瓦とコンクリートを組み合わせた3階建ての迷路のような建物で、折り紙を折ったような形のコンクリートの屋根がセメントの壁柱に支えられている。

 このプロジェクトは、バラガンやカステヤノスの作品との類似点は少なく、壁のない格納庫のような造りだった20世紀半ばのメキシコシティの市場とも似ていない。ゾーンが創造した空間は、中世のイスラム世界の青空市場のように細い小道が何本も交差したもので、そこを歩いていると、突然、天に届きそうなほど天井の高いアトリウムに出る。実用的な建築資材を用いながら、人々に驚異の念を抱かせるような空間を生み出したのだ。

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