BY JUN ISHIDA, PHOTOGRAPHS BY YASUYUKI TAKAGI
新年が明けて早々に、翌週からドバイへ旅立つという建築家・永山祐子に会いに自宅を訪れた。ドバイへの旅の目的は、デザインを手がけたドバイ国際博覧会の日本館視察とレクチャーだという。永山の自宅は中央線沿線の駅近くにある。駅前の繁華街を抜け、静かな道に入ると、突きあたりに少し背の高いマンションが見えてくる。その最上階からは周囲の景色が見渡せそうで、この建物だろうと直感的に思った。永山は築50年近いマンションの最上階をリノベーションし、アーティストの夫と2 人の子どもとともに暮らしている。
玄関チャイムを鳴らすと、黒いセーターに鮮やかな色のラインが入ったロングスカートを合わせた永山が現れた。隣駅の住宅の現場を見てきたところだという。
「小学校の同級生の家を設計したのですが、その鉄骨の建て方をチェックしてきました」
万博のパビリオンに、来春開業となる新宿歌舞伎町の超高層ビル〈東急歌舞伎町タワー〉、そして2027年度完成予定の東京駅前の常盤橋に建つ日本一高いビル〈Torch Tower〉と大規模プロジェクトが続く建築家が、個人住宅の現場にも足繁く通っていることに少し驚いた。
「小さな家も街並みの一部になってゆくことには変わりがないので、それをデザインする責任があります。建築的な行為というのは、都市をつくる責任を担うことだと強く感じるんです」
永山は自分が生まれ育ったエリアに暮らしている。
「仕事柄、キラキラした場所にも行くんですけれど、緊張感があって(笑)。杉並区は老若男女の日常生活感があって、住むのにちょうどいいんです」
昭和女子大学を卒業し青木淳の設計事務所で働いた永山は、2002年に退所し、自らの事務所を構える。プロジェクトが決まり独立したものの、最初はアシスタントもおらず、実家近くに事務所を借り、建築を学んでいた妹にも助けてもらいながらのスタートだった。
「木造・風呂なしのアパートで、独りぼっちを紛らわすためにラジオをずっとつけていたり、同世代の建築家の友人に長電話をしたり(笑)。半年ぐらいしたらもうひとつプロジェクトが入ってきて、初めてスタッフを雇いました。女の子だったので、一緒に寝泊まりして銭湯に行ったり、部活みたいで楽しかったですね。それからスタッフも増えてゆきましたが、雑魚寝しなきゃいけないし、男子は居にくいかなと思ったので女子ばかりで。当時のスタッフは、今でも子ども連れで集まったりして親戚みたいに仲がいいんです」
独立したての日々を振り返る永山は、自然体で自信にあふれている。今年で事務所設立20年となるが、これまでの道のりでは、出産や子育てなど彼女自身の生活にも大きな変化があった。
「出産するときに、事務所を縮小するか少し休むか考えたんですけれど、夫がアーティストになると決めたこともあって、どう現状維持するかを一生懸命考えました。事務所近くに部屋を借り、そこをサテライトオフィスにして子どもを連れていき仕事をしていたのですが、それでも集中できなくて。もう無理かと思っていたら母や学生時代の同級生、そしてそのお母さんたちが子どもを預かるよと言ってくれたり。そうこうしているうちに、効率的な仕事の進め方を考えるようになったんです。最初は自分でも引いていた図面をスタッフに任せられるようになって、人に任せる勇気を持てるようになりました。子育ての時期は大変でしたが、事務所をここまで大きくできたのは、そこで鍛えられたからだとも思います」
超高層ビルを日常につなげる試み
子育ての経験は永山の設計にも影響を与えた。〈Torch Tower〉で永山はTorch Tower次世代アーキテクトチームの一員として低層部のデザインを手がけるが、そこには「家族でそこに訪れるだろうか?」という彼女ならではの視点が反映されている。
「超高層の建物はつるんとしていて、大体上層部にはオフィスが入っていますが、そこで働いていない人たちには無関係な感じがする。地上を歩いている私たちが、もう少しその建物を自分の日常の延長線上にあるものとして視覚的にも感覚的にも感じられるようにするにはどうすればよいかを考えました」
永山が提案したのは低層部の外周に空中散歩道を設け、建物前の広場からつながってゆく動線をつくり出すことだった。
「低層部といっても60mほどの高さがあるのですが、ジグザグした約2㎞の遊歩道をつくって自分の足で上っていけるようにしました。〈Torch Tower〉のコンセプトは『日本を明るく、元気にする』なので、それならばみんなが歩いて上れるものにすればいいと思って」
デザインが、そこにはなかったアクティビティをつくり出す。さらに永山の構想は広がってゆく。
「超高層ビル内の店舗は、入り口が内側の共有部に向いていることがほとんどで、外側にはちょっとロゴが出ているぐらいのケースが多いんですけれど、外周の遊歩道の部分にもスタンドみたいな店舗をつくれないかと事業主の方々と話しています。『薄皮店舗』と呼んでいますが、高層ビルのガラスのファサードと構造体の間などは使われずに倉庫になることが多い。でも外側に道があることによって、使えなかった場所がむしろ価値となり、薄皮店舗みたいな面白い場所ができるのではないかと。ちょっとした逆転の発想で、いろいろなものが反転してゆく。そうしたことができると、私たちがプロジェクトに関わった意味があるなと思います」
予定調和ではいかない建築の面白さ
プロジェクトが大きくなればなるほど、開発会社や組織設計事務所など複数のチームが関わることとなり、永山の考える建築の姿が薄められるように思えるが、彼女自身はまったくそうは考えていないようだ。
「大規模開発のプロジェクトに私たちのようなアトリエ系建築事務所が参加するのは最近の傾向ですが、大手の事務所にはない視点を提案できれば、ちょっと新しい方向性をつくれるのではと思い参加しています。私たちが関わることで、少しでも東京の街並みが変わったり、大規模開発の考え方が変わったりするといいなと」
ドバイ万博でも複数の組織や地元の建築家とともに日本館を設計した。
「さまざまなハードルがありましたが、でき上がったものは、本当に最初に思い描いていたコンセプトにかなり近い形で実現できました。みんなが持っている知見とエネルギーを全部注力してもらえましたし、そういう力を引き出すのが自分の役目でもあったと思っています。私が出したコンセプトに共感してもらい、それぞれが自分のプロジェクトだと思って取り組んでもらう。そういうことが大事なのだなと実感しました」
建築家としての作家性にはこだわらないという。
「もちろん作家性は大事だけれど、その都度プロジェクトの条件は違いますし、クライアントも一緒に組むチームもいるので、思い描いていたものと違ってくることはあります。でもそうした『違ってくること』に対してはまったく違和感がなくて、むしろ予定調和的に自分の思ったものがそのままできるよりも、思わぬ方向にいって、自分が考えていたものを超えるような建築ができたほうがドキドキするんです」
あらゆる変化を受け入れ、ポジティブに乗り越えてゆく永山。そんな彼女の開かれた姿勢に人々は引きつけられ、ともに新しい街をつくりたいと願うのだろう。
永山祐子
1975年東京都生まれ。昭和女子大学生活美学科卒業後、青木淳建築計画事務所を経て独立。2002年永山祐子建築設計を設立。主な作品は〈LOUIS VUITTON京都大丸店〉( 2004年)、〈カヤバ珈琲〉(2009年)、〈豊島横尾館〉(2013年)、〈女神の森セントラルガーデン〉(2016年)、〈2020年ドバイ国際博覧会 日本館〉(2021年)など。