家というものは往々にして所有者である家族の歴史を語るものである。イタリア・ヴェネト州の田園地帯に佇む17世紀築のヴィラ「イル・パラツェット」は、そこに暮らす家族だけでなく、この家の改修に携わった建築家、スカルパ父子の記憶も鮮やかに映し出している

BY MAX NORMAN, PHOTOGRAPHS BY DANILO SCARPATI, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

画像: イタリアのモンセリーチェにある「イル・パラツェット」の広壮な階段アプローチは、イタリアの建築家カルロ・スカルパが1978年、亡くなる直前に設計したもの。竣工は2006年、彼の息子で同じ建築家であるトビア・スカルパが監修した。ヴィラの敷地内にもともとあった脱穀場「アイア」を再解釈した中庭の彫刻と、その前にある干し草納屋のカラフルな門扉もカルロ・スカルパによるデザイン

イタリアのモンセリーチェにある「イル・パラツェット」の広壮な階段アプローチは、イタリアの建築家カルロ・スカルパが1978年、亡くなる直前に設計したもの。竣工は2006年、彼の息子で同じ建築家であるトビア・スカルパが監修した。ヴィラの敷地内にもともとあった脱穀場「アイア」を再解釈した中庭の彫刻と、その前にある干し草納屋のカラフルな門扉もカルロ・スカルパによるデザイン

 イタリア北東部のパドヴァから車で30分ほど南下した場所にある小さな古都、モンセリーチェ。その郊外にあるヴィラ「イル・パラツェット」をアルド・ブジナーロが譲り受けたのは1964年のことだ。パッラーディオ様式(註:A・パッラーディオが確立した古典主義的建築)の堂々たる威容を放っていたものの、当時は人が住めるような状態ではなかった。そもそもアルドの祖父は、すでに廃墟同然だったこのヴィラを1924年に購入して、農業用の倉庫として使っていたのだ。第二次世界大戦中の一時期を除く数十年間、この家の住人といえば農具や余剰穀物とヤマネたちだけだった。だがアルド・ブジナーロは、この廃墟をマイホームに造り替えようと思い立ち、1965年にパドヴァから妻のルチアと3人の息子を引き連れてここに越してきた。現在58歳になる次男フェデリコは、当時のことをまだ覚えている。引っ越してきてしばらくの間は、家族全員が唯一雨漏りのしなかった部屋で寝起きし、母親のルチアはキャンプ用ストーブで食事を作っていたという。20万㎡の肥沃な農地の真ん中に佇み、赤茶の瓦屋根と、ツタの絡む褐色の漆喰のファサードを備えた箱型の家。もともとは1627年に、裕福な医者だったフランチェスコ=ジョバンニ・タッセロのために建てられた邸宅だった。約800㎡の面積を有しながら俗に“小型”と分類されるヴィラだが、家主のタッセロが描いていた理想は壮大だったにちがいない。2階のサロンの壁の高さは6mほどあり、出入り口は柱や彫刻のトロンプルイユで飾られ、その上部には帯状にウェルギリウス作『アエネーイス』の古代叙事詩をテーマにしたフレスコ画が描かれている。だがタッセロは黒死病を患い、彼が計画していたであろう優美な玄関アプローチは見果てぬ夢に終わった。つまりアルド・ブジナーロが引き継いだこのヴィラは、荒廃していただけでなく未完の状態でもあったのだ。

 家具メーカー「ベルニーニ」「ノル」「カッシーナ」などの販売コンサルタントだったアルド・ブジナーロは、3階建てのこのヴィラを単に修復するのでなく、イタリアにおけるコンテンポラリーデザインの推進者としてのプロフィールにふさわしい住空間にしたいと考えた。まず60年代後半に、仕事で知り合った天才的な建築家で家具デザイナー、トビア・スカルパの協力を得て初期の大幅なリノベーションを行なった。トビアは物置部屋をダークでミニマルなキッチンに替え、ダイニングルームに鉄の飾り枠で縁取ったスタッコのシンプルな暖炉を設けた。さらにアルドが使う1階の書斎(かつて家族5人が寝起きした部屋)の暖炉には、オフホワイトの漆喰で覆った大きな煙突を継ぎ足した。また同じ頃、アルドの別の友人であるイギリス人建築家コリン・グレニーが、3階の一部を、ふたつの寝室とひと続きになったゲスト用のリビングルームに改造した。だがアルドが真のコラボレーターを見つけたのは1969年のことだ。日本への出張時に、トビアの父親で著名な建築家カルロ・スカルパに出会ったのだ。「地域固有の17世紀の建築様式を書き替えるのでなく、それを生かすこと」を目指したカルロとアルドはタッグを組んで、ヴィラに真新しい世界観をもたらした。ふたりが築いた不変の友情は、年上だったカルロの晩年10年間で唯一無二と言っていい貴重なものでもあった。ヴィラ改造の物語はその後40年にわたって続き、そのなかでブジナーロ家、そしてスカルパ家の二世代の人生が交差していく。

画像: パッラーディオ様式のこのヴィラは1924年にアルド・ブジナーロの祖父が購入したもの。アルドの書斎には、アフラ&トビア・スカルパによるレザーチェア(右ページ)と、豊富なモダンアート・コレクションが並ぶ

パッラーディオ様式のこのヴィラは1924年にアルド・ブジナーロの祖父が購入したもの。アルドの書斎には、アフラ&トビア・スカルパによるレザーチェア(右ページ)と、豊富なモダンアート・コレクションが並ぶ

画像: 書斎につながる部屋。17世紀に描かれたトロンプルイユのフレスコ画が壁一面を彩る

書斎につながる部屋。17世紀に描かれたトロンプルイユのフレスコ画が壁一面を彩る

 昨夏、ブジナーロ家で昼餐会が催された。トビア・スカルパはダイニングルームに飾られた、自身の作品であるシーリングランプ〈セレスティア〉の下に座っていた。ふんわりとドレープを寄せたリネン地の、雲を思わせるフィルムのランプだ。彼はそこで「イル・パラツェット」における自らの功績を過小評価するような話をした。「左利きの私は、真剣にやるべきことは右手で、重要じゃないものは左手でデザインしているんです」。60年代に「イル・パラツェット」で手がけたキッチンや暖炉は左手でデザインしたものだという。依頼を受けたとき、ちょうど自分のプロジェクトがなかったので、顔が広い友人アルド・ブジナーロのためならと承諾し、手早く仕事を片づけたのだそうだ。当時、トビアと彼の妻でコラボレーターだったアフラ(2011年に他界)は、機能的でありながらエレガントな家具やランプのデュオデザイナーとしてすでに名を馳せていたので、何がなんでも仕事を受ける必要などなかった。何より父カルロ・スカルパとは仕事上で関わらないように気をつけてもいた。86歳になった今でもトビアは、亡き父カルロに対して深い敬意とわだかまりとが混在した、複雑な気持ちを抱いたままでいる。トビアは淡々とこう語った。「アルド・ブジナーロ氏が父カルロと出会ったあと、私は追い払われたんですよ。いや、正確に言えば自ら立ち去ったんですが」。それから約40年の間、トビアが「イル・パラツェット」で右手を使う機会はなかった。

 1970年、アルド・ブジナーロは改修プロジェクトを始動するためにカルロ・スカルパをヴィラに招いたが、当初はまだ特に明確なプランなどなかった。「あの時代、スカルパといえば建築業界の教祖的な存在でしたから」と、ブジナーロ家の次男フェデリコが当時を振り返る。カルロはフランク・ロイド・ライト、ルイス・カーンなどアメリカの建築家に崇拝されていたが、コンクリートや大理石のブロックと、木や真鍮の精巧なディテールを組み合わせた独特の美学はイタリア国内ではそれほど評価されていなかった。「私の父アルドはカルロを“プロフェッソーレ”(註:伊語で教授や先生の意味)と呼んでいて、カルロに仕事がないとわかると『プロフェッソーレ、何か創ってくれないか』と頼んでいたんです」。とはいえヴィラにはもちろん大きな手直しが必要だった。メインエントランスの錆びきった鉄製のアーチ型のゲートは新装すべきだったし、屋外で人をもてなせるようなスペースもほしかった。2階の玄関前には、17世紀に造られるはずだった壮麗な階段アプローチとは似ても似つかない、ちっぽけなジュリエット・バルコニー(註:小型のバルコニー)が設けられており、玄関なのに外に出られない状態だった。カルロはこれらを課題に改修のアイデアを練った。ブジナーロはこうした問題点の改良を望んだ以外は、友人カルロが自由に想像力を働かせてくれればそれで満足だった。カルロは、何日もヴィラに滞在し、最上階にある屋根裏部屋の小さなデスクで仕事に取り組んだ。

画像: サロンの壁を飾るのは画家ピエロ・ドラツィオによるフェルトのコラージュ作品。その手前の二脚のチェアはカルロ・スカルパが「ベルニーニ」のためにデザインしたもの。テーブルの彫刻はカルロが1968年のベネチア・ビエンナーレのイタリア館に出展した4作品のうちのひとつで、そのレプリカ品

サロンの壁を飾るのは画家ピエロ・ドラツィオによるフェルトのコラージュ作品。その手前の二脚のチェアはカルロ・スカルパが「ベルニーニ」のためにデザインしたもの。テーブルの彫刻はカルロが1968年のベネチア・ビエンナーレのイタリア館に出展した4作品のうちのひとつで、そのレプリカ品

 カルロ・スカルパのデザインには、戦後の大量生産ブームへの反発心と、生まれ故郷であるヴェネト州で失われかけていた職人技への熱い思いが込められている。彼が得意としたのは、リノベーションという建築の“パ・ド・ドゥ”(註:二人舞踏。本来の建築家以外に、その改修を担う建築家が携わるため)だ。「イル・パラツェット」では、カルロが手がけた公共建築や住宅建築とは異なって、ヴェネト州の都市ではなく、農村地方の伝統が生かされている。このヴィラの敷地では2000年前後まで実際に農業が営まれていたのだ。カルロは特にエクステリアに力を入れ、ヴィラを囲む、ふんわりと木々が茂った約1万㎡の庭園を通って門扉にたどり着けるような通路を考えた。近くの丘で採掘した火山岩の一種でざらざらしたグレーの粗面岩を用いて、庭園を囲むように高さ2.2mの壁を造り、その一部に約4×2.4mのヒンジ式門扉をはめ込んだ。遠くから眺めると、色褪せたカラマツの厚板パネルが昔ながらの釘で継ぎはぎ状に留められた横長のこの門扉は、ギリシャ雷文(らいもん:文様)のようにも見える。門を押し開ければヴィラが視界に飛び込んでくる。その北側にはカルロの息子、トビア・スカルパが外壁に板張りを施した19世紀築の干し草納屋、西側にはポルティコ(柱廊)がついた16世紀築の石造りの馬屋が、ヴィラを囲うように整然と並んでいる。

 カルロ・スカルパによるこのプロジェクトのなかで、控えめながらも特に彼らしい独創性にあふれているのが、この3つの建物に囲まれた中庭の作品だ。1974年、彼はイタリアの農園の心臓部であり、舗装された脱穀場を意味する「アイア」を再解釈して、サンドブラスト仕上げのテラコッタレンガとコンクリートで、異次元を思わせる巨大なオブジェをデザインした。もともとこの敷地内にもあった伝統的な脱穀場に着想を得て、傾斜の緩やかなピラミッド型をふたつ合わせ、それぞれの頂には柔らかなヴィツェンツァ石(註:ライムストーンの一種)の平らな円盤を載せた。カルロはその一方の円盤を太陽、もう一方を月と呼び、作品の真ん中には1階のエントランスへと導くコンクリートの通路も設けた。ブジナーロ家の次男フェデリコは、このオブジェがれっきとした彫刻作品であるのにもかかわらず、農産物の置き場にされていたことをよく覚えている。その頃まだ農業を営んでいた家族は収穫期になると、そこに豆類など小さめの作物を積み上げていたそうだ。

 カルロは1972年、暖かい季節に人をもてなすスペースとして、ヴィラ東側の外壁沿いに屋外のダイニングルームを設けた。ふたつのコンクリート壁と、コンクリートの細い梁を組んだ屋根だけで構成されたこの空間は、無骨ながら軽やかさも漂わせている。庭園を囲む壁と同じ粗面岩製の巨大なグリル台の上にはエレベーター大の煙突がそびえ、これが3つ目の壁の役目も果たしている。さらに煙突前面のコンクリート部分には火山風の抽象的な幾何学模様が刻まれ、そこから煙を吐いているかのようにタイルが縦一列に並んでいる。このカラフルなタイルは、ベネチアの有名なオルソニ工房製だという。エクステリアのデザインに比べると、ヴィラと干し草納屋(今は次男フェデリコとその妻が暮らしている)のスタイルはより控えめで、農村にふさわしい落ち着いた佇まいをしている。とはいえ、カルロ・スカルパらしい独特のセンスはそこかしこに存在する。邸宅の屋根の南西角にはベネチア特有の巨大な煙突が設置され、倉庫前の舗道には水玉模様のレンガが敷き詰められている。もともとこれらのレンガには、職人が積み上げやすいように4つ穴が開いていたが、カルロのアイデアでその穴にセメント、石灰、大理石の粉からなる白い混合物を詰め込んだのだ。「イル・パラツェット」におけるカルロのデザインに共通して言えることだが、こうした型破りな作風が、田園風の古典的なヴィラに新しい表情を与えている。

画像: ヴィラの屋根裏部屋をゲスト用ベッドルームに改造したのは、イギリス人建築家コリン・グレニー

ヴィラの屋根裏部屋をゲスト用ベッドルームに改造したのは、イギリス人建築家コリン・グレニー

 1978年、アルド・ブジナーロとカルロ・スカルパが文化交流派遣団のメンバーとして再び訪日した際、カルロは仙台で事故に遭い、致命傷を負ってしまう。訪日前にカルロが最後に手がけていたのが「イル・パラツェット」のファサードに沿った、壮大なコンクリート階段の図面だった。完璧なものを造ろうと、カルロが長年温めてきた構想だった。その後ブジナーロ家では、数十年にわたり、カルロとトビア・スカルパをはじめとするモダニズムの巨匠たちの家具や彫刻を数多くコレクションしていた。だがブジナーロ家の三男フェルディナンド(現在56歳)が「父を支援して、カルロ・スカルパ最後の構想を形にしよう」と思い立ったのは2000年のことだった。父アルドはこのプロジェクトを遂行する条件のひとつとして「トビア・スカルパが監督すること」を挙げた。だがトビアはこの話を断った。父カルロの仕事には手をつけないと固く決心していたからだ。しかしブジナーロ家から再三にわたる電話を受けて、5年後、トビアは数十年ぶりに「イル・パラツェット」に足を運ぶことにした。このとき、このプロジェクトが病に臥ふした父アルドへの三兄弟からの最後の贈り物だということを知り、トビアは彼らの要望に応えようと心に決めた。

 アルド・ブジナーロはこの階段の完成を待たずにこの世を去った。竣工は2006年末、亡くなってからわずか数カ月後のことだった。アルドがもしそれを目にしたなら、中庭の雰囲気と見事に調和した、壮大な造形美に胸を熱くしたことだろう。コンクリートのウィング(註:建物主要部から左右に延びた部分)は、干し草納屋からヴィラまで長く延び、ウィングの向こうには庭園が広がっている。ウィングの手前にある、約2m幅の片持ち式の浮き階段を10段上ると踊り場に着き、さらに6段上ると、玄関口と壁一面ツタに覆われたバルコニーにたどり着く。その真下にあるくさび形の浅い池は、屋外のダイニングルームでも使われていたカラフルなベネチア製のモザイクで縁取られている。トビア・スカルパはこの階段の着工前に、父カルロが残した図面を半年ほど研究し、基本的にほんの小さな修正しか加えなかった。だが、父カルロのモダニズム建築が抱えていた主要問題のひとつを解決に導いた。コンクリート内の鉄筋は湿気を吸って錆びると膨張しやすく、堅牢に見える巨大なコンクリート構造でさえ爆裂することがあったのだ。このプロジェクトでトビアは、特注したステンレス鋼の鉄骨造にコンクリートを打ち込み、建造物が劣化することなく後世まで残るよう細心の注意を払った。

画像: カルロ・スカルパはヴィラ最上階のこの部屋に何日も泊まって仕事をした。壁の絵は、ドイツ人画家ヨゼフ・アルバースの作品

カルロ・スカルパはヴィラ最上階のこの部屋に何日も泊まって仕事をした。壁の絵は、ドイツ人画家ヨゼフ・アルバースの作品

 トビア・スカルパに「この階段を手がけたことで、父カルロに対する考えは変わったか」と尋ねると、彼はこう答えた。「息子も父親も悪かった。ふたりとも決して良い父親、良い息子になろうとしなかった」。トビアはふたりの不和の原因について触れたがらない。ただ彼はもう何十年も前から、自分の道を貫くしかないと腹を据えてきた。「だからヴィラに来ると、つい階段から目をそむけてしまって」とトビアは冗談っぽくつぶやいた。トビアがどう言おうと、これが初めて彼が引き受けた父カルロ・スカルパのプロジェクトであり、父子ふたりで取り組んだ唯一の、容易とは言えない共同作業だったことに変わりはない。そして2007年、「イル・パラツェット」の物語の最後の一句を綴ったのはトビアだった。プロジェクトの仕上げとして、1階の玄関口に縦溝彫りの細い鉄の支柱に支えられた長方形のガラスの大きな庇(ひさし)を設置したのだ。父カルロがデザインした階段に比べたらずっと控えめで小さなものだが、これこそがトビアにとっての締めくくりであり、ブジナーロ家とスカルパ家の物語のエンディングだった。こうしてこのヴィラと父子の物語は、円環のように始点からゆっくりとひと回りしてようやく終点にたどり着いた。トビアがこの改修プロジェクトの最終章を引き受けることにしたとき、彼がフェルディナンドに伝えたのはこんな言葉だった。「父から息子へ、息子からまた父へ」

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