BY LIGAYA MISHAN, ARTWORK BY CARMEN WINANT, TRANSLATED BY MAKIKO HARAGA
言葉には、亡霊のようなものがつきまとう。どんなに語源からかけ離れた意味をもつようになっても、古い意味を宿し続ける。それはまるで、完全削除を逃れた暗号の破片や、地上に出る瞬間を待ちながら土の中で潜伏し続けるセミの幼虫みたいだ。
過去数年のあいだに、“カレン”は風紀委員を自ら買って出て世間を闊歩するタイプの、干渉好きで高圧的な態度をとる白人女性を意味するようになった。彼女たちは自分の社会的地位は安泰であると思っているため、権限をもつ人物や機関を呼び出すこともいとわない。責任者との直談判を要求したり、警察に通報したりする。だが、あまりにも些細なことを問題視するし、まったくの作り話をしては、それを犯罪だと言い張ることも少なくない。
では、なぜ“カレン”という名前がこういう女性を揶揄(やゆ)するために使われるようになったかというと、根拠もなく恣意的にこの名前があてがわれたとも言い切れない。より保守的で古い時代の米国の遺物であるカレンという名は、そんなにポピュラーな名前ではなかったが、1941年に一躍脚光を浴び、この年に生まれた女の子の名前ランキングで上から20位内に入ると、その後30年にわたって上位に君臨し続けた(人気絶頂だった1965年は、不動の人気を誇るメアリーとリサに次ぐ3位。つまり、現在、カレンたちの大半が50代半ばということになる)。カレンはあまりにもありふれた名前になり、個性を感じさせず、常識的であるということの象徴になり、「ごく普通の女の子」という安心感を醸し出した。だが、その人気はやがて下火になり、2020年にはすでに世界恐慌前のレベルにまで落ち込んだ。そんななか今度は、嘲笑をこめた言葉として盛んに用いられるようになったのである。
カレンが米国文化に浸透するはるか前、この名前はデンマークで「キャサリン」の短縮形として使われていた。キャサリンにはさまざまな由来があるとされ(ただし、人名学者たちは確証を得ていない)、そのひとつが“純粋、清潔、潔白”を意味するギリシャ語の「カタロス」だ。ギリシャ神話に登場する魔術の女神・ヘカテが由来という説もある。犬を引き連れたヘカテは、十字路や境界や墓場など、移動や変化を伴う場所をつかさどる。このようなルーツは、はたして現代の“カレン”に受け継がれているのだろうか? 確かに、彼女たちは自分こそが純粋・潔白の守護神だという自負をもっている。米国が白人中心社会から多文化社会へと変容しつつある時代において、さまざまな境界線に目を光らせ、秩序を乱すものを見つけるとそれらを糾弾するのだ。
こうした“カレン”たちの行動は、非白人――とりわけ黒人の人々――と向かい合う場面において、危険な兆候を示しがちだ。ソーシャルメディア(SNS)に投稿された数々の動画は、彼女たちが不審者を通報する様子を伝えているが、通報されたのは次のような人々だ。サンフランシスコの歩道で飲料水を売っていた8歳の黒人の女の子、ブルックリンの食料品店に居合わせたときにバックパックが白人女性にぶつかった、9歳の黒人の男の子(この女性は「痴漢行為をされた」と警察に訴えた)、自分のアパートメントがある建物に入っていくセントルイスの黒人男性(3件とも2018年の投稿)、アトランタで宅配会社UPSの制服を着て配達中の黒人男性(2019年)、ニューヨークのセントラルパークで鳥を観察していた黒人男性、ノースカロライナ州ウィリアムストンで、家族と滞在中のホテルのプールで泳いでいた黒人の子どもたち(いずれも2020年)など。
こうなると、“カレン”は正真正銘の邪悪なキャラクターであると、決めつけたくなる。あたかも、善良な人々を引きずりおろして食い物にするために、獲物を寝て待つ魔女――現代に生きるヘカテの手先――であるかのように。これまでの米国の歴史をひもといても、ひとりの白人女性の告発が、ひとりの黒人市民の人生を破滅させるのに十分な威力を発揮する時代が長く続いた。それは、1955年にミシシッピ州で起きた凄惨なリンチ事件を振り返ればわかる。当時14歳だったエメット・ティルは、ふたりの白人男性によって殺害された。白人女性のキャロリン・ブライアントが、ティルに口笛を吹かれたと主張したからだ。ジャーナリストのデイモン・ヤングは“カレン”というネーミングについて、昨年『The Root』でこう書いている。あまりにも“可愛い子ぶった”感じがして、残虐な行為には見合わない軽薄さが漂い、まるで「人の死をミーム(訳注:ネットで拡散される面白いコンテンツ)にしているみたいだ」。
一方で、現代の“カレン”を語るエピソードには、ある変化が見られる。カギとなるのは「罪なき人を不当に通報しておきながら、“カレン”にはお咎とがめなしとはいかない」という世間のモラルだ。彼女たちはそういつもうまく逃げ切れるとは限らなくなったのだ。“カレン”がもつ唯一の武器は言葉であるが、その言葉にはかつてのような威力はない。自分の言い分を通すためには「本物の支配力」をもつ人々に頼るしかないのだ。だが彼らはもう、味方についてくれなくなった。現場に駆けつけた警官が、“カレン”に同調するとは限らない。これまでは、こうした状況で警官が悪者になりがちだったが、近頃の警官は、バーベキューをしていた黒人男性は単にバーベキューを楽しんでいただけであり、家の壁にステンシルで「Black Lives Matter」と描いたフィリピン人男性は、実際にその家の住人であることを理解している。つまり、真実が勝るようになってきたのだ。2018年、ある緊急通報に応じたオペレーターは、カリフォルニア州オークランドの公園で複数の黒人男性がバーベキューをしていると通報してきた女性の、あまりにも激しい口調に困惑した。その女性が精神疾患を抱えているのではないかと問い合わせ、「通報者は5150に該当するようだ」と警察に忠告した。“5150”とは、自分自身や他人に対して危害を加える恐れがあるため、本人が拒んでも精神医療施設に最長72時間滞在させることを指す。
警官が黒人の市民に暴力をふるう現場を記録した数々の動画が出てきたことは、悲劇である。それに対して、白人女性が罪なき人を貶おとしめるような“カレン動画”が拡散したことは勝利である。陰湿な(時に致命的な)差別が日常的に行われていることを裏づける証拠が世に示されただけではなく、まさにこうした差別的行為が立証されたからだ。告発者は信用に値しない語り手であることが暴露され、その目的を達成することなく力を奪われ、軽蔑の的として見世物にされる。彼女たちは職を失うことさえある(これについては、人種差別に関する世間の総意よりも、雇用主の一方的な権利行使のほうが問題になりそうなものだが)。こうなるとたいていの“カレン”は姿をくらまし、SNSのアカウントを削除し、再び発信することはない(少なくとも、退屈に耐えられない世間の人々の関心がほかの動画に向くようになるまでは)。
ネットに投稿され、何百万回も再生された“カレン動画”は、「人種差別をした人はきっちり処罰されねば」という希望が現実になったというある種の幻想を人々に抱かせている。これは、マイノリティの人々に限ったことではない。ひときわ声高に“カレン”を糾弾する白人のあいだにも、こうした幻想が広がっているのだ。恐らく彼らは、自身が“カレン”の共犯者ではないか、彼女たちと同様の行為に及ぶのではないかと勘繰られそうな一切のことから、距離を置こうとしているのだろう。さらに言うならば、人種差別はほんの一部の人たち――ヒステリーぎみで精神的に不安定な状態にあり、些細なことを騒ぎ立てるタイプ――がやらかすことであり、画面をフリックすれば消えてしまう問題だというのが、白人の人々が抱いている幻想である。
“カレン”は決して特異な存在ではない。かつては“アン女史(Miss Ann。時にMiss Anneとも表記される)”と呼ばれた人たちがいた。19世紀に南部の黒人のあいだで使われていた、この地方特有の表現で、大農園の女主人や女ボス――いわば今日のガールボス(若い女性管理職)の原型――を指すため、否応なしに敬称がつけられていた。“アン女史” は、白人男性の“チャーリー氏(Mr. Charlie)”に従属しながらも、農園のヒエラルキーにおいては黒人の人々よりも上位にあったので、その地位を最大限に利用した。尊大な態度から一転、上品ぶってみたり、高圧的な言動が鳴りを潜めて無能ぶりを露呈させたりと、“アン女史”の振る舞いは時と場合によってコロコロと変化した。そして、この呼び名は長く生き続けた。
作家のゾラ・ニール・ハーストンは、短編小説『Story in Harlem Slang』(1942年)に添えた用語集の中に“アン女史”を含めている。回顧録を遺した公民権運動家のマヤ・アンジェロウは、1969年に発表した詩『Sepia Fashion Show』に“アン女史”という表現を用いた。「彼女たちに言ってあげなくちゃ。アン女史の家の掃除でそんなふうになった自分の膝小僧を、よく見てごらんなさいって」(訳注:「彼女たち」は、上流社会の女性のファッションや化粧に憧れてまねをしたがる若い黒人女性を指す)。“アン女史”が登場した最近の例は、2016年だ。大統領選挙の行方を占うCNNの出口調査で、白人女性の40パーセント以上がドナルド・トランプに投票したことが示されると、ジャーナリストのエイミー・アレクサンダーは『The Root』に寄稿した文の中で、この結果を“アン女史効果”と説明した。
だが、米文学者のカーラ・カプランは著書『Miss Anne in Harlem』(2013年)において、次のように指摘している。1920年代にハーレム・ルネサンス(訳注:アフリカ系アメリカ人による文化運動および芸術の発展)を迎える頃になると、なにを企んでいるかわからないような白人女性を指して“アン女史”と呼ぶようになった。彼女たちは、そんなことをするとほかの白人たちから「モラルの欠如」「正気の沙汰ではない」と非難されるような時代に、あえて自分から黒人サークルに足を踏み入れた。活動家もいれば、単にスリルを味わいたいとか世間を騒がせたいだけという人もいて、彼女たちの目的は「お粗末なものから立派なものまで」実にさまざまであったと、カプランは記している。一方で、彼女たちを迎えた当時の黒人コミュニティは、警戒心を解かなかった。
同じように、今日の“カレン”にもいろんなタイプがいる。露骨な偏見をもっているとは限らないし、自分は偏見などとは無縁だと思い込んでいる人もいる。黒人のボーイフレンドに身分証明書の提示を求めた警官を平気でなじる「“リベラルな白人”ガールフレンド」もいる。自分は白人だから暴力をふるわれたりしないと安心しているからこそ、強気な態度に出るのだ。この女性には、実はもうひとつの顔がある。黒人の人々を自己実現のための手段としか考えない、白人のサイコパスである。ジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』(2017年)(訳注:白人のガールフレンドの両親を訪ねた黒人青年が体験する恐怖を描いた映画)のように。あるいは、民主・共和のどちらにもなびくタイプもいる。あるときは、保守的なテレビ番組司会者のメーガン・ケリーのような女性になり、またあるときは、民主党の急進左派エリザベス・ウォーレン上院議員のような一面も見せる。ケリーは2018年、ハロウィンの仮装で顔を黒く塗っても「問題なし」だった時代を懐かしむコメントを発した。1980年代から90年代にかけて大学で法学部の教授を務めたウォーレンは、6世代以上も前の遠い祖先について家族のあいだで語り継がれてきた話を唯一の根拠として、自分のアイデンティティはアメリカ先住民だと主張した(それにより、マイノリティのステータスを与えられた)。
“カレン”をより広く定義するならば、肌の色のおかげで自分が得をするのは当然としか思わず、一方でほかの人々の苦労や痛みには無頓着に見える白人女性は、すべて“カレン”になるだろう。今年の初め、自己啓発本の人気著者であるレイチェル・ホリスは、自身が雇っている家政婦を“トイレ掃除をする人”と形容したことで、一般人とはかけ離れていると批判された。ホリスはこれに対して、「たいていの人はここまで頑張らないのに、私は懸命に努力したから家政婦を雇えるようになった」と自己弁護に走った。なおかつ、ハリエット・タブマン(1820頃~1913年)やマララ・ユスフザイのような、“一般人とはかけ離れた”女性たちを引き合いに出し、暗に自分と重ね合わせたのである。タブマンは奴隷解放運動家として活躍した人物で、自身が奴隷生活から逃れたのち、ほかの人たちの逃亡を手助けすることを自らの使命とした。パキスタン出身の活動家でノーベル平和賞受賞者(2014年)のユスフザイは、女性の教育機会を制限するタリバンに異を唱えたことで、頭部に銃弾を受けた。自ら道を切り拓いた偉大な啓蒙者たちと自分に共通点があると思い込んであっけらかんとしている様子は見るのも不愉快であったが、まさしく彼女たちを“カレン”たらしめている誇大妄想が露呈した瞬間だった。
2019年に公開された映画『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』は、男女平等・同権を唱えるふたりの若い女性が主人公だが、彼女たちでさえ見ようによっては“カレン”である。勉強ばかりしていた女の子たちが、なんとかして一晩だけ羽目をはずそうとしてドタバタ劇を繰り広げるのだが、彼女たちは古いしきたりを打破したお手本として、公民権運動家のローザ・パークス(訳注:彼女が公営バスで白人に席を譲るのを拒んで逮捕されたことをきっかけに、アラバマ州モンゴメリーでの公民権運動が高まった)を引き合いに出している。ただし、彼女たちの“しきたりを破る”というのは単に飲酒と乱痴気パーティを体験するという意味でしかなく、しかもひとりは逮捕された翌朝に、警官と冗談を言い合っていたりする。
リース・ウィザースプーンが演じたほぼすべての役柄にも、“カレン”の亡霊がちらちらと見え隠れする。たとえば、『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』(1999年)で演じた上昇志向の塊のようなトレーシー・フリックや、テレビドラマシリーズの『ビッグ・リトル・ライズ』(2017~’19年)や『リトル・ファイアー~彼女たちの秘密』(2020年)で演じた、傲慢で自己陶酔型の母親など。ドル箱スターであるウィザースプーンの魅力のひとつは、こうした人物像に陰影を与え、観るものに感情移入させる演技力であることは間違いない。視聴者の大半は、主人公と同じような恵まれた白人女性であり、ウィザースプーンが演じる人物を通して、自分たちの暗部を認識し、それを咎め、最終的にはそれを許容する。
“カレン”と名指しされるよりもさらにつらいのは、カーティス・シッテンフェルドの短編小説『White Women LOL』(2019年)が描くように、まさに自分が“カレン”なのだと気づいてしまうことである。主人公の白人女性ジルは、友人の誕生日パーティが行われていたレストランの中で、洗練された着こなしの見慣れない黒人男女のグループに目をとめ、あたりさわりのない言い方で(少なくとも本人はそうしたつもりだった)彼らに退出を促す。ところが後日、その動画がフェイスブックに投稿され、ジルの行いが衆目に晒さらされてしまう。だが、誰もジルに救いの手を差し伸べない。白人の夫は、妻はなぜ店の責任者に知らせなかったのか(これも「“カレン”的行動」なのだが)と不思議がり、パーティの主役だった白人女性は、招待しなかった人たちにパーティのことが知られてしまったことに、気分を害している。ジルは友人たちに見放され、職場では出勤停止になり(「処分といっても、給料をもらえるじゃないか」と夫に指摘される)、自分は被害者であるという意識をもっている。その一方で、自分があまりにも短絡的に黒人の男女を招かれざる客とみなしてしまったことに対して、罪悪感を覚えるのだ。
ジルは贖罪として、子ども同士が同じ学校に通う裕福な黒人女性のために、行方不明になった彼女のシーズー犬をひとりで捜すことに没頭する(ほかの一般的な黒人家庭は、ジルたちが住む地区からは遠く離れたところに住んでいる)。パーティの主役だった友人は、「白人至上主義は、無神経の延長線上にあるものよ」とジルに冷ややかに告げるが、彼女自身もかつてはバスで通ってくる黒人の生徒たちを「deseg kids」(desegはdesegregationの略)と呼んでいた(訳注:desegregationは人種隔離政策の廃止を意味する)。そして物語の終盤、ジルはシーズー犬を見つけると身をかがめ、ウソ泣きを始める。効果が実証されている、典型的な白人のヒロイン像「囚われの姫」を演じてみることにしたのだ。怪我をしたふりをしながら思いきって近づいたら、犬はそれを真に受け、あわよくばケージに入ってくれるのではないかと期待して(訳注:ジルは友人から、「ペット捜しの専門家が言うには、迷い犬は怯えているので名前を呼ぶと逆効果。怪我をしたふりをしながらウソ泣きをして苦しそうな声を出せば犬が助けに来てくれるらしい」と聞かされていた)。そうやってジルは、犬が自分を助けようとしてくれるのか、それとも自力で頑張らなければいけないのかを、見極めようとする。
“カレン”の攻撃性は、あからさまに人種差別に向けられるとは限らない。ただ漠然とイライラを募らせているだけということもある。たとえば、新型コロナウィルスが猛威をふるっていたさなか、ニューヨークのとあるベーグルショップでは、ほかの客からマスクの着用を促された白人女性が、腹いせにその客の顔に咳を吹きかけた。ダラス・フォートワース空港では今春、搭乗時刻に遅れて飛行機に乗れなかった白人女性が、責任者を呼べと訴え続けた(その後、酒に酔って公衆に迷惑をかけたという罪で逮捕された)。“カレン”は、人種差別主義者を指すようになる以前は、単に好戦的ないしは面倒くさい人という意味合いでのみ使われていた。2005年、白人コメディアンのデイン・クックが「どんな仲よしグループにも必ずひとりはいる、実は皆から嫌われている人」にカレンという名をあてはめ、「“カレン”はゲスな女」と言ったのが、この名前が侮辱的に使われるようになった初期の例である。それから10年後、掲示板型サイト「Reddit(レディット)」に書き込みをしていた男性が元妻である白人女性を“カレン”と称し、彼女の残酷さについて面白おかしく延々と綴っていたところ(このアカウントはすでに削除されている)、彼の投稿にインスパイアされた人々によって、似たようなタイプの意地悪な女性の話に特化したスレッドが2017年に立ち上がった。
侮辱的な表現である“カレン”は、人種差別に対する世間の反発から生まれたわけではなく、このように白人男性が白人女性に対して敵意をむき出しにしたことが始まりだった。そのため、これを女性蔑視だと非難する白人女性が現れた。今年の初め、ふたりの映画学者(アイルランド在住のダイアン・ネグラとノルウェー在住のジュリア・レイダ)が共著による論文を発表し、“カレン”について「中間層に広がる新たな生活不安が風刺的に表出したもの」という見解を述べた。なんとしても自分の言い分を通そうとする彼女たちの言動は、「最近の小売業界の風潮として、顧客応対の人員をカットし、彼女たちが頼れるサービスをなくしてしまった」ことへの抗議の表れとして理解できると説いた。だが、買い物をするのは白人女性だけではないし、近年の資本主義は誰にとっても――消費者にとっても、売り場で働く人にとっても――まともに機能していない。「多様化が進む米国社会において、白人男性は自分の存在が無視され脅かされていると感じたから、ドナルド・トランプに票を投じた。つまり、彼らにはもはや支配的立場が保証されていないということだ」という、よく繰り返されるありきたりのコメントと、この論文の主張は、たいして変わらない(エッセイストのメーガン・ダウムは昨年、「白人女性は、白人男性の生まれ変わりだ」と言い切った)。
もちろん白人女性だって、これまでも不当な扱いを受けてきたし、それは今も続いている。時には、見た目には華やかだが自由のない生活を送っているようなタイプの、ある特定の階層に属する女性たちも、抑圧を受ける立場になる。法学者のキャサリン・マッキノンは、1991年に発表した論文「From Practice to Theory, or What Is a White Woman Anyway(訳注:実践から理論へ そもそも白人女性とは何かを考える)」の中で、白人女性は白人男性が勝手につくりあげたイメージにすぎないという世間の考えに対して、怒りを露あらわにした。「なよなよしていて、甘やかされていて、恵まれていて、守られていて、気まぐれで、自分がやりたいことだけをする」、かつ「お金に困っていない、暴力をふるわれたことがない、性暴力を受けたことは(あまり)ない、少女時代に性的ないたずらをされた経験はない、10代で妊娠したことはない、売春したことはない、強制的にアダルトビデオに出演させられたことはない、生活保護を受けるシングルマザーではない、経済的に搾取されていない」。白人女性は、このようなイメージをもたれているのだという。『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』の描写には、注目すべき点がある。主人公である嫌われ者の女子高生トレーシー・フリックは、信頼を寄せていた白人の男性教師に騙されて性的関係をもたされてしまう、れっきとした被害者だ。教師はこの罪によって失墜する。だが、あたかも彼女が教師の人生を台なしにしたかのように描かれている感じが、そこはかとなく伝わってくるのだ。
被抑圧者が、抑圧する側になってしまうこともある。しかも、白人女性が自らの被害者意識を擁護することによって、非白人女性の立場を危うくしかねない。マイノリティの女性はこれまで、白人女性と同様の「傷つきやすさ」をまとうことを認められてこなかったのだから。たとえば、白人女性シンガーソングライターのラナ・デル・レイは、「私は、女性の傷つきやすさを代弁している」と開き直った(訳注:デル・レイは、大成功を収めた非白人女性シンガーたちの実名を挙げ、「彼女たちは性的アピールを売りにして成功した」などと発言し、批判を浴びた。さらに、弁明として投稿した動画の中で、「フェミニズムには、傷つきやすい女性に対する配慮も必要だ」と発言して炎上を招き、人種差別をめぐる論争に発展した。デル・レイの楽曲には男性の言いなりになる女性がモチーフのものもあり、これまでも「ドメスティックバイオレンス(DV)を美化している」などの批判を受けることがあった)。挑発的な言動でたびたび物議を醸すデル・レイについては、白人女性に対して人々が抱く「守ってあげたい、繊細な花のような存在」という、よくある人種的偏見とは、そもそもかみ合っていないのだが――。
次々と拡散された動画に登場する“カレン”たちはおしなべて、自分は女性であるがゆえに不当な扱いを受けたと主張する。ダラス・フォートワース空港で警察が駆けつける騒ぎを起こした“カレン”は、「私は女性よ! ドレスを着ているじゃない!」とわめきちらし、黒人男性たちがオークランドの公園でバーベキューをしていると通報した“カレン”は、警官が到着すると「嫌がらせを受けた」と言って泣きじゃくった。ニューヨークのセントラルパークで黒人のバードウォッチャーを不適切に緊急通報した“カレン”は、「アフリカ系アメリカ人の男性がいて……、彼に……脅されているんです」と言った。男性は、犬に首輪をつけて散歩させてくださいと、この女性に頼んだだけなのに。
こうした不満の表し方は戦略的なものであると、ジャーナリストのルビー・ハマドは著書『White Tears/Brown Scars』(2020年)で指摘している。「弱さを見せるのではなく、支配力をちらつかせているのだ」。支配力といっても、それはあくまでも白人男性を通じて、このような状況においてのみ得られるものである。歴史を振り返っても、黒人の人々を脅威の対象にしてしまえば白人女性は間違いなく白人男性の注意を引くことができたし、それは彼女たちの人生において自分が主役になれる瞬間だったのかもしれない。他人の恐怖心を煽あおることによって、確かに彼女たちは白人男性を味方につけることができるのだが、「自分の用心棒を得た」ということとは、実際はかなり様子が異なる。白人男性は、大切な人を守るために、彼女のもとに駆けつけるわけではないのだ。白人としての自身の美徳を体現するために、白人女性の味方につくのである。つまり、“支配力”とは抑圧するために使う力のことであり、そういう力に訴える白人女性もまた、自らが抑圧の対象に含まれてしまうという社会の力学が、改めて認識されただけのことである。
誰かが自分の代わりに行使してくれる“白人の支配力”にしがみつく――かつて自分を黙らせるために使われたものと同じ力を、今は自分ももっていると主張しようとする――、まさにこのことが、“カレン”の全体像を的確に言い表しているのかもしれない。19世紀から20世紀初頭にかけて盛んになったフェミニズム(女性解放運動)では、白人女性は自分たちの参政権を獲得しやすくするために、南部の白人至上主義の男性と手を組み、黒人女性を排除した。今日においても、白人のフェミニズムという文脈で使用される言語は、いまだに「リーン・イン(キャリアを高めてリーダーを目指そう)」を信条とする“ガールボス”に偏っていて、まるで職場で男性と肩を並べることだけが平等・同権の実現であると言わんばかりだ。「たくましく生きることよりも、特権を増やすことにばかり気をとられすぎている」。評論家のミッキ・ケンドールは、2020年の著書『Hood Feminism』(訳注:日本語版はDU BOOKS刊『二重に差別される女たち――ないことにされているブラック・ウーマンのフェミニズム』)にそう記している。
1970年代、「個人の問題は政治の問題である」という概念が受け入れられるようになった。女性が直面する問題を個人レベルで解決させてはならず、DVや子育てのような、まさしく「個人の問題」に、公的な支援が必要であるという考えだ。第二波フェミニズムで勝ち取ったもののひとつがこの概念であるとするならば、現代においては、その逆の概念が幅をきかせている。「政治の問題が個人の問題に集約されてしまった」とハマドは指摘する。この点について、ジャーナリストのコア・ベックは、今年の初めに上梓した『White Feminism』の中で丁寧に解説している。「あまりにも『私』を前面に出しすぎると、社会の仕組みや制度が生んだ障壁について議論しているときに、論点が『集団全体が不利益を被るものかどうか』ではなく、『個人の問題』にすり替わる。そのような議論の枠組みにおいては、フェミニズムは『なにかを手に入れるための手段』に成り下がってしまうのだ。すなわち、それは自分が手にして当然だと感じたものをより多く勝ち取る手段であり、消費するための手段である」。そうなるとここでまた、ネグラとレイダの論文に戻ることになるわけだ。“カレン”というのは、「破綻した顧客サービス」という名の荒野で、商品の払い戻しを求めて遠吠えする女性なのだ、と。
結局のところ、“カレン”と通ずるのは恐るべきヘカテではない。ヘカテは冥界との関連で語られることが多い女神だが、古代ギリシャの詩人ヘシオドスは紀元前8世紀、彼女を慈善心に富んだ女神として描いた(訳注:ヘシオドスが記した『神統記』によると、ヘカテはゼウスから特別に崇められ、さまざまな特権を与えられたため、絶大な力をもち、不死の神々の尊敬を集めた。彼女を崇める人間は富やさまざまな恩恵を与えられた)。むしろ、より共通点が多いのは、中世の魔女狩りで火あぶりの刑を受けた女性たちだ。実際に犯した過ちがなんであれ、“カレン”はスケープゴートなのである。問題を全体的に消滅させるよりも、ぽつりぽつりと出没するはみ出し者の“カレン”を消すほうが、ずっと簡単だ。前出のヤングは『The Root』への寄稿文の中で、この呼び名の使用停止を呼びかけた。「白人男性のほうがよほどひどいことをしているのに、カレンが現代における白人至上主義の象徴になっているのはおかしなことだし、間違っている」。
だが、この議論は堂々巡りに陥ってしまう要素もはらんでいる。白人女性が自らを検閲・叱責するようになるからだ。そして当然の成り行きともいうべきか、白人女性が積極的に働きかけて自らを批判の的にしてしまうがゆえに、“カレン”という概念もまた消費主義に飲み込まれ、次々と商品化されている。小さいながらもひとつの書籍ジャンルが生まれ、ワークショップが開催され、各種コンサルティングサービスが登場し、参加費が何千ドルもする会員制ディナーが催されるようになった。対象はすべて白人女性で、“支配力を握る集団”との共犯関係に正面から向き合う手助けをするのが目的だ。罪悪感が金儲けのネタになっているのだ。
もし、社会的に恵まれた女性の誰もが“カレン”になる可能性を秘めているのだとしたら(ここには筆者も含まれる。私は白人とフィリピン人の両親のもとに生まれ、それなりの教育を受け、それなりの階層に属し、自身に内在する“カレン”的な要素にたえず意識を向けている)、そのことを前向きに活かすこともできるはずだ。ただ単に憂いてみたり漠然と申し訳ない気分を味わったりするのではなく、どうしたらもっと社会を前に進めることができるのか、自分自身に問いかければよいのだ。法学者で活動家のマリ・J・マツダは、自身のエッセイをまとめた『Where Is Your Body?』(1997年)の中で、次のように述べている。「私たちは、あえて被抑圧者の視点に立って世界を見渡すという選択もできる。ある女性は今、生活保護受給者の宿泊施設で、水をくんだバケツを両手に持って5階まで階段を上がっている。別の女性は、DV被害者の保護施設で震えながら朝の3時を迎えている。ケープタウン、ヨルダン川西岸地区、ニカラグアには、血まみれの子どもたちを抱きかかえる女性たちがいる。同胞である彼女たちのことを、私たちは知っておかなければならない」。自分も同じような苦悩を抱えていると主張したり、同列に扱ってはいけない苦悩を引き合いに出したり、すべての女性が同じ苦しみを味わっているかのように偽ることと、「知っておくこと」は明らかに異なる。「知っておく」というのは、個人的な経験から得るものには限界があることを認め、他者から学ぼうとする姿勢なのだから。
おそらく、“カレン”は役に立つ存在だ。狭間に生まれてきた者として、よりよい世界につながる道を見つける一助になるかもしれない。「私たちは自分の意志によって、他人の生きざまを知ることができる」とマツダは説く。そしてそれは、「あなたは誰? お名前は?」という、実にシンプルな問いかけから始まるのだ。