BY MOMO MITSUNO
はじめて珈琲を飲んだとき、口のなかに花が咲いた。
その花は、八重の野ばらのように、薄い花びらが幾重にも重なって丸いかたちをつくっていた。花びらの色は、黒みがかった藤色で、それがまったく珈琲そのものの色に感じられた。
ひとつ、ふたつ、みっつと、一口ごとに開いていく幻想的な口中の花たちを思いなが、珈琲ってきれいな飲み物なんだな、と驚いていた。
初めて珈琲を教えてくれたのは、父だった。子どもの頃から父とはあまりそりが合わず、家の中でもほとんど口をきいた覚えがない。反対に母親とは仲がよく、なんでも話をする、友だちのような関係だった。だから我が家は父も娘も母親を通して相手に何かを伝える、と言うコミュニケーションが確立していた。
高校に通い始めたばかりの頃だっただろうか。ある日、父から直接呼出しがかかった。
その日は何かの休日で、わたしは家にいるつもりだっだが、しかたなく、父の好むよそゆきのワンピースを着て、待ち合わせした高輪の古い洋館のホテルに行った。
父のお気に入りの華やかなコーヒーハウスは、高校生が行くようなところではなかったが、父の命令とあれば、逆らえない。
父は先に来ていた。おしゃれをした大人たちがクラシック音楽をBGMに忙しそうに歩いている。ロック喫茶を根城にしているわたしには、縁のない場所に思えた。
「コーヒー飲むか」
父がぽつりと言った。あまりにも長い間、コミュニケ―ションを取ることなく、お互いに嫌いだと直接には言えず、かといって好きではなく、もう今が、この娘がおとなになって家を離れてしまう前の最後のチャンス、と父は思っていたことだろう。その象徴の様な、黒紫のコーヒーだった。
結局その日も何も話さず、うん、とかはいとか、そうですねとか、3つほどの語彙でお茶を濁して帰ってきた。父が頼んだ珈琲は、黒に近い泥のような色で、あまり美味しそうには見えなかった。深煎りのモカ、という意味も分からず飲みほしたけれど、その神秘的な味わいだけがいつまでも記憶の底に残った。
父の頼む珈琲には、小さな皿にチョコレートコーティングされたアーモンドチョコが2つついていた。父はいつもそれをふたつとも私にくれた。チョコレートは美味しかったが、娘となんとか繋がろうとする男親の姿を前に、口に入れると苦さが立った。どうしようもない苦さを、珈琲で喉の奥に流しこんだ。そしてそのたびに、「味覚」が花の開くような気配となって感じられることに、驚かされた。
それからすぐに、わたしはおとなになってしまった。大学時代はロック喫茶でブラックコーヒー,就職したら徹夜明けのミルクコーヒー、それから先は、珈琲になんの思入れもない時代が長く続いた。そしてついに、浅煎り珈琲と出会う日が来た。
きっかけは、コーヒーの焙煎器を家人が購入したことだった。焙煎器ときいて最初に思ったのは、焙煎コーヒー屋さんの店頭でぐるぐるまわっているそれだ。でも違った。それは掌に載ってしまうほど小ぶりな、可愛い「土器」といった風貌をしていた。持ち手の先が開口部になっていて、煎り上がった豆はそこから出す。だんだん熱くなってきたら、シャカシャカと容器を回して、丁度いい煎り加減にする。
シャカシャカシャカシャカ、の音で目覚めること数カ月、ある朝、「飲んでみて」と言う家人の声に起こされて、キッチンへいってみると、そこには珈琲の新鮮な香りが立ち込めいた。香りに包まれひとくち飲むと、その鮮烈な新鮮さは、まるでジュースだ。
そりゃそうだろ、珈琲は豆のジュースっていえるもんな。
得意げな家人の隣で、珈琲はブレンドだけじゃないんだ、と思い出した。そういう名前の珈琲があるかのように、何十年もブレンドを飲んできた。ブレンドに罪はない。だがやはりハンドドリップのストレート珈琲を飲んでしまうと、他のものには替えられない、と思う。
そう気づくとほぼ同時くらいに、街には薄めの琥珀色をした、新鮮で酸っぱくないストレート珈琲を飲ませるスタンド店が一気に増えてきた。
そんな店のひとつで、ハンドドリップのエチオピアを買う。店の前は電車の線路になっていて、ベンチともいえない細長い木の板に腰かける。通り抜ける電車の、かろやかで明るい風を受けながら飲むのが好きだ。