目の前に淡く広がる日常の景色と、心に浮かびあがる光景をゆっくりとときほぐしていくーー。うたかたのように見えて澱となり、ほのかに香りだち、いつしか人生を味わい深く醸す日々のよしなしことを、エッセイストの光野桃が気の向くままに綴る。連載第八回目は珈琲に誘われて開く記憶の景色と、時のつづれ織りを描く

BY MOMO MITSUNO

 はじめて珈琲を飲んだとき、口のなかに花が咲いた。

 その花は、八重の野ばらのように、薄い花びらが幾重にも重なって丸いかたちをつくっていた。花びらの色は、黒みがかった藤色で、それがまったく珈琲そのものの色に感じられた。
 ひとつ、ふたつ、みっつと、一口ごとに開いていく幻想的な口中の花たちを思いなが、珈琲ってきれいな飲み物なんだな、と驚いていた。

画像: 深煎りはひとりで、浅煎りは静かな友と飲みたくなる

深煎りはひとりで、浅煎りは静かな友と飲みたくなる

 初めて珈琲を教えてくれたのは、父だった。子どもの頃から父とはあまりそりが合わず、家の中でもほとんど口をきいた覚えがない。反対に母親とは仲がよく、なんでも話をする、友だちのような関係だった。だから我が家は父も娘も母親を通して相手に何かを伝える、と言うコミュニケーションが確立していた。

 高校に通い始めたばかりの頃だっただろうか。ある日、父から直接呼出しがかかった。
 その日は何かの休日で、わたしは家にいるつもりだっだが、しかたなく、父の好むよそゆきのワンピースを着て、待ち合わせした高輪の古い洋館のホテルに行った。
 父のお気に入りの華やかなコーヒーハウスは、高校生が行くようなところではなかったが、父の命令とあれば、逆らえない。
 父は先に来ていた。おしゃれをした大人たちがクラシック音楽をBGMに忙しそうに歩いている。ロック喫茶を根城にしているわたしには、縁のない場所に思えた。

「コーヒー飲むか」
 父がぽつりと言った。あまりにも長い間、コミュニケ―ションを取ることなく、お互いに嫌いだと直接には言えず、かといって好きではなく、もう今が、この娘がおとなになって家を離れてしまう前の最後のチャンス、と父は思っていたことだろう。その象徴の様な、黒紫のコーヒーだった。
 結局その日も何も話さず、うん、とかはいとか、そうですねとか、3つほどの語彙でお茶を濁して帰ってきた。父が頼んだ珈琲は、黒に近い泥のような色で、あまり美味しそうには見えなかった。深煎りのモカ、という意味も分からず飲みほしたけれど、その神秘的な味わいだけがいつまでも記憶の底に残った。

 父の頼む珈琲には、小さな皿にチョコレートコーティングされたアーモンドチョコが2つついていた。父はいつもそれをふたつとも私にくれた。チョコレートは美味しかったが、娘となんとか繋がろうとする男親の姿を前に、口に入れると苦さが立った。どうしようもない苦さを、珈琲で喉の奥に流しこんだ。そしてそのたびに、「味覚」が花の開くような気配となって感じられることに、驚かされた。
 それからすぐに、わたしはおとなになってしまった。大学時代はロック喫茶でブラックコーヒー,就職したら徹夜明けのミルクコーヒー、それから先は、珈琲になんの思入れもない時代が長く続いた。そしてついに、浅煎り珈琲と出会う日が来た。

 きっかけは、コーヒーの焙煎器を家人が購入したことだった。焙煎器ときいて最初に思ったのは、焙煎コーヒー屋さんの店頭でぐるぐるまわっているそれだ。でも違った。それは掌に載ってしまうほど小ぶりな、可愛い「土器」といった風貌をしていた。持ち手の先が開口部になっていて、煎り上がった豆はそこから出す。だんだん熱くなってきたら、シャカシャカと容器を回して、丁度いい煎り加減にする。

画像: 自家焙煎の道具は、どこか土着的、土器的な造形がおもしろい。波打つ三角形が浅煎り珈琲とよく合うドリッパー、空気のように透明なガラスのサーバー、中ぐらいの大きさのポットは銀色で、カップ&ソーサーは、白一色、柄も模様もないものを日曜日の教会のガラクタ市で探した。焙煎し終わった珈琲を収納しておく場所と、コーヒー豆を湿気から守る置き場所は、美味しく飲むために大切なポイント PHOTOGRAPHS BY MOMO MITSUNO

自家焙煎の道具は、どこか土着的、土器的な造形がおもしろい。波打つ三角形が浅煎り珈琲とよく合うドリッパー、空気のように透明なガラスのサーバー、中ぐらいの大きさのポットは銀色で、カップ&ソーサーは、白一色、柄も模様もないものを日曜日の教会のガラクタ市で探した。焙煎し終わった珈琲を収納しておく場所と、コーヒー豆を湿気から守る置き場所は、美味しく飲むために大切なポイント
PHOTOGRAPHS BY MOMO MITSUNO

 シャカシャカシャカシャカ、の音で目覚めること数カ月、ある朝、「飲んでみて」と言う家人の声に起こされて、キッチンへいってみると、そこには珈琲の新鮮な香りが立ち込めいた。香りに包まれひとくち飲むと、その鮮烈な新鮮さは、まるでジュースだ。
 そりゃそうだろ、珈琲は豆のジュースっていえるもんな。

 得意げな家人の隣で、珈琲はブレンドだけじゃないんだ、と思い出した。そういう名前の珈琲があるかのように、何十年もブレンドを飲んできた。ブレンドに罪はない。だがやはりハンドドリップのストレート珈琲を飲んでしまうと、他のものには替えられない、と思う。

 そう気づくとほぼ同時くらいに、街には薄めの琥珀色をした、新鮮で酸っぱくないストレート珈琲を飲ませるスタンド店が一気に増えてきた。

 そんな店のひとつで、ハンドドリップのエチオピアを買う。店の前は電車の線路になっていて、ベンチともいえない細長い木の板に腰かける。通り抜ける電車の、かろやかで明るい風を受けながら飲むのが好きだ。

画像: 光野桃(みつの もも) 1956年、東京生まれ。クリエィティブディレクターの小池一子に師事、その後、ハースト婦人画報社に勤務し、結婚と同時に退職。ミラノ、バーレーンに帯同、シンガポール、ソウル、ベトナムで2拠点生活をおくる。著書に『おしゃれの幸福論』(KADOKAWA)『実りの庭』(文藝春秋)『妹たちへの贈り物』(集英社)『白いシャツは白髪になるまで待って』(幻冬舎)など多数。

光野桃(みつの もも)
1956年、東京生まれ。クリエィティブディレクターの小池一子に師事、その後、ハースト婦人画報社に勤務し、結婚と同時に退職。ミラノ、バーレーンに帯同、シンガポール、ソウル、ベトナムで2拠点生活をおくる。著書に『おしゃれの幸福論』(KADOKAWA)『実りの庭』(文藝春秋)『妹たちへの贈り物』(集英社)『白いシャツは白髪になるまで待って』(幻冬舎)など多数。

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