ヒップホップのスターでありながら女優業をこなし、プロデューサーとしても活躍しつつ、アメリカの主流メディアを代表する顔でもある、という女性は、以前は誰も存在しなかった。そこに彼女が登場した。彼女の手にかかると、まるですべてがたやすく実現できてしまうかのように見えるのだ

BY EMILY LORDI, PHOTOGRAPHS BY RAHIM FORTUNE, STYLED BY IAN BRADLEY,TRANSLATED BY MIHO NAGANO

画像: コート¥775,500/バレンシアガ クライアントサービス(バレンシアガ) TEL.0120-992-136 イヤリング¥4,290,000/カルティエ カスタマーサービスセンター(カルティエ) TEL.0120-1847-00 シャツ(参考商品)/Kallmeyer(kallmeyer.nyc) パンツ(参考商品)/Hanifa (hanifa.co)

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 ダナ・オーウェンズが、ニュージャージー州のニューアークからマンハッタンのミッドタウンにある「ラテン・クォーター」という名のナイトクラブに友人たちと通い始めたのは、まだ15歳の頃だった。彼女たちはそれを「探検」と呼んでいた。バーガーキングのアルバイトのシフト勤務が終わると、彼女はスウォッチのロゴがついたジャージに着替え、ハドソン川の地下のトンネルを通る通勤電車に乗り込む。その後、地下鉄を乗り継いでタイムズ・スクエアに向かう。クラブの入り口では、用心棒が彼女の身体検査をして武器を隠し持っていないかを確かめる。店の中に入ると、彼女いわく「客が酔っ払っていて、騒がしくて、とてつもないエネルギーが渦巻いていた」。

 ステージ上には、ポスターやレコードのアルバム写真でしかその顔を見たことがなかったメリー・メルやビッグ・ダディ・ケインらのMCがいた─彼らのようなアーティストを生で見るのが彼女の長年の夢だった(1985年当時はラップ音楽のビデオ映像はまだほとんど存在しなかった)。客の目の前で、毎晩新しいカルチャーが生み出されていた。DJたちは最新のレコードをラジオ番組で紹介する前に、まずこの店でかけて客の反応をうかがった。オーウェンズは、川向こうにあるアーヴィングトン高校の他の生徒たちがまだ誰も知らない新しいダンスの動きをここで覚えては、学校の仲間たちに披露していた。

 のちにクイーン・ラティファという芸名で知られることになる、繊細で、とてつもない魅力をもつこの少女は、とにかくのみ込みが早かった。ティーンエイジャーの彼女は、1960年代から70年代にかけて黒人芸術運動を牽引した作家ニッキ・ジョヴァンニに触発されて自分で詩を書いたり、オクティヴィア・E・バトラーのSF小説を読んだり、高校のバスケットボール部で活躍して、州大会では二度優勝した。彼女はハウスミュージックやミュージカル音楽、さらにレゲエやジャズやゴスペルを聴いて育った。だが、「ラテン・クォーター」(むしろ通称の「クォーターズ」という呼び名のほうがよく使われていた)はまったく新しい音楽の坩堝だった。MCたちは知的で技巧に凝ったソウルミュージックの断片をつなぎ合わせて、シャープで荒々しい切れ味を出しつつも、コンテンポラリーな教会音楽風に仕上げて、主に自分たちの勇敢さを讃えていた。

 多くの魅力的な女性たちもステージ上で活躍していた。たとえばヒップホップ・アーティストのソルト・ン・ペパ(彼女たちの1986年発売の「My Mic Sounds Nice」をラティファは「ノリノリの曲」と称する)やDJのジャジー・ジョイス(ラティファと同じようにスウェットパンツを着てスニーカーを履いていた)のように。その中でも最も客を熱狂させたのがブルックリン出身の音楽の達人パフォーマー、MCライトだ。さらに彼女はラティファよりも年下だった。ラティファは「もしライトにできるんだったら……」と考えたのを覚えている。ヒップホップの担い手は、自信満々で競争心のある若者たちだった。彼らはお互いが実力をつけていく姿を見ながら「自分だってできるのでは?」と思っていた。そんな彼らはラップやダンスバトルや殴り合いの喧嘩を通してのし上がってきた。「でも、そんな混沌の最中にあったのが」とラティファは言う。「私の人生で初めて体験する最高にイカした音楽だった」。そして、彼女はほほ笑んでこうつけ加えた。「ただし、私はこのクラブにいるべき人間ではなかったんだけど」

 そんな禁じられた人生の巡り合わせが、ラティファの職業人生を定義づけた。ただひとつの仕事だけに安住したくないという彼女の意思が、キャリアの道筋を決めたのと同じように。活動の領域をひとつに絞らないというのは、彼女の特性であり、それが彼女の人生を形づくっているのだと私が発見したのは、今年7 月のある日の午後のことだった。私たちはニューヨーク市内のノーホー地区にあるレコーディングスタジオ「ヒット・ファクトリー」の薄暗い照明の部屋で座っていた。ここは、かつてラテン・クォーターがあった場所から40ブロックほど南に位置している(ラテン・クォーターが1989年に閉店したあと、その跡地には、チェーン展開しているラマダ・ルネサンス・ホテルが建てられた)。

 彼女は当時の状況が単純ではなかったことを想像してみてほしいと私に言った。濃密なまでにクリエイティブな音楽空間であったと同時に、15歳の少女にとっては禁断の世界でもあったのだ。ラティファという人物を理解するのにも、それと同じように、360度あらゆる方向から分析する視点が必要だ。メディアは彼女がヒップホップ界においてパイオニアとしての業績を残してきたことをしばしば讃える。彼女は単独の女性ラッパーとして初めて50万枚を超えるアルバム売り上げを記録し、今年末にはワシントンD.C.のケネディ・センター名誉賞を女性ラッパーとして初めて受賞することが決まっている(さらに彼女はハリウッドのウォーク・オブ・フェイムに、星とともに名前が刻まれた最初のヒップホップ・アーティストでもある)。

 現在53歳のラティファは、4枚のラップ音楽のアルバムに加え、ジャズのアルバムも2枚出し、昼の時間帯にTV放送されるふたつのトークショーの司会も務め、さらに60本以上の映画に出演してきた。そんな仕事の多くは、彼女がビジネス・パートナーのシャキム・コンペアとともに1995年に設立した「フレイバー・ユニット・エンターテインメント」というマネジメント兼プロダクション会社が企画製作したものだ。2003年までには、彼女の歌声はすでに誰もが知っていたし、映画の中で、彼女の頰骨の張り出した顔のアップがスクリーンいっぱいに映し出されるのも当たり前というレベルの名声を得ていた。さらに化粧品メーカーのカバーガールが、彼女をプラスサイズの黒人モデルのひとりとして初めて宣伝に起用し、のちに同社は、有色人種の女性客をターゲットに、彼女の名を冠した化粧品のラインナップを発売した。彼女が主演し、CBSで放送中のスパイものスリラー・ドラマの『イコライザー』は間もなく4シーズン目に突入する予定だ。彼女は、ネットワークTV局放映の1 時間ドラマで主役を演じる初めての黒人女性のひとりでもあった。

 ニュージャージー出身の身長約178センチのひとりの黒人女性が、彼女が築いてきたようなキャリアを達成して成功を維持するには、何があろうと自分をとことん信じ抜く自己信頼が不可欠だ。だが、彼女が実力を発揮してきた手腕と──その自信は──固い信頼関係で結ばれた仕事仲間たちのおかげで培われてきたことも確かだ。彼らは彼女の「posses(ポッシ)」とも呼ばれる。この言葉は、ラップの概念では家族のような親しい集団を意味する。これは彼女の1989年発売のシングル曲「Princess of the Posse(プリンセス・オブ・ザ・ポッシ)」にもつながっていく。そしてこの「ポッシ」の概念は、さらに複数の彼女のプロジェクトに組み込まれ、今では彼女が発揮する文化的影響力のさまざまな局面を体現するものとして息づいている。

 古参のヒップホップ・ファンたちは今でも「Ladies First(レディース・ファースト)」(1989年)や「U.N.I.T.Y.」(1993年)などの黒人フェミニスト賛歌の重要性を訴える。「レディース・ファースト」は英国人ラッパーのモニー・ラヴとともに録音した曲で、グラミー賞を受賞した「U.N.I.T.Y.」では「Who you callin’ a bitch?(誰のことをビッチと呼んでいるのか?)」というパンチのきいた歌詞がまるで不意打ちのように繰り出される。それよりもやや年齢層が低いファンたちは、ブルックリンで暮らす4 人の黒人女性の仲間たちを描き、1993年から1998年まで放送されたTVコメディドラマの『Living Single(リビング・シングル)』で彼女を知った。また、アウトローの女性たちの集団を描いたF・ゲイリー・グレイ監督の映画『Set It Off(セット・イット・オフ)』(1996年)では、彼女はレズビアンの銀行強盗を演じた。この作品の彼女の役柄は、今ではこのジャンルの古典と呼ばれるようになった。さらに、主要キャストのひとりとして出演した2017年のコメディ映画『ガールズ・トリップ』は、黒人女性脚本家(トレイシー・オリバーはこの作品をケニヤ・バリスと共同執筆した)が手がけた作品として史上初めて1億ドル(149億円)以上の興行収入を記録した。

 最近では、ラティファの全人格的なイメージから観客が感じる印象は穏やかで、彼女のもつ爆発的な影響力は隠されていることが多い。だが、かつて実現不可能に近いと考えられていた業種間の融合を戦略的に指揮してきたのは彼女で、その結果、現在ではそれが当たり前の形になっている。たとえばラップとハリウッドの融合や、ヒップホップとハイファッションの協業、さらに、黒人資本主義とアクティビズムの合体などがそうだ。そのおかげで、私たちは今、アイス・キューブやコモンが、自らプロデュースして出演する映画やTV番組を観て楽しむことができる。

 さらに今、ラップ界で最も革新的な活躍をしているのが複数の女性アーティストたち(ミーガン・ザ・スタリオンやラトーなど)であることも、もはや当たり前だ。映画界では、クィアの恋愛や欲望を作品を通して表現する黒人女優が増え(ヴィオラ・デイヴィスやゼンデイヤ)、さらに、リアーナが手がけるファッション・ブランド「Savage X Fenty(サヴェージXフェンティ)」のショーでは、丸みのある肉体をもつ黒人女性アーティストやモデルたちが、ランウェイで中心的な役割を果たすのを目にするようになった。現在、そんな光景が私たちの目の前に広がっているのは、かつてラティファがそんな世界の実現に向けて、道筋をつけたからだ。もし彼女が私たちに溶け込んでいるように見えるとしたら、それは彼女が、私たちを彼女に近づけるべく変えてきたからだ─彼女がともに歩んでいきたいと思えるような集団の仲間として。──後編につづく

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