今アメリカで最も称賛されているパフォーマーのひとり、アンダーソン・パーク。彼はジャンルを超えたコラボレーションの手腕で知られ、ソウル・ファンクのスーパーデュオであるシルク・ソニックのひとりだ。パークはポップスターという存在を再定義しただけでなく、ポップスターが到達できる限界を、ことごとく打ち破ってきた

BY ADAM BRADLEY, PHOTOGRAPH BY D’ANGELO LOVELL WILLIAMS, STYLED BY IAN BRADLEY, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 ブロディという名がついたウィッグの髪色はプラチナブロンドだ。ゆるくウェーブがかかり肩の下まで滝のように垂れ下がっている。リル・フリップというウィッグは、烏の濡れ羽色のような漆黒だ。毛先がピンと跳ね上がり、誘惑しているようにも見えるし、激情がほとばしっているようにも見える。ピー・ウィーという名のウィッグは、1960年代のイギリスの若者文化を感じさせる黒い長めのボブスタイルで、1966年当時のリンゴ・スターの髪型にそっくりだ。あの頃のビートルズは、リバプール出身の4人の好青年という前提を覆そうとしていたわけだが。8月のある土曜日の晩、ラスベガスのパークMGMのドルビー・ライブ円形劇場の舞台裏にあるアンダーソン・パークの楽屋で、この3つのウィッグは、アクリルのウィッグスタンドの上に並んでいた。スタイリストがウィッグの用意をしている間、パークはソファの上で寛いでいる。けば立ったカンゴールのバケットハットをかぶり、グッチの黒いサングラスをかけ、短パンに半袖シャツという装いだ。シャツの胸元からは、『Hotter Than July(ホッター・ザン・ジュライ)』を歌っていた1980年頃の、ビーズを髪に編み込んだスティーヴィー・ワンダーの姿を描いたタトゥーがのぞいている。

画像: アンダーソン・パーク。カリフォルニア州マリブで2022年7月21日に撮影 ジャケット(参考商品)/ドルチェ&ガッバーナ ドルチェ&ガッバーナ ジャパン TEL. 03(6833)6099 タンクトップ(参考商品)/Judy Turner judy-turner.com パンツ(参考商品)/Marine Serre marineserre.com ベレー¥130,000/ディオール クリスチャン ディオール フリーダイヤル:0120-02-1947 アイウェア¥122,100/カルティエ ケリング アイウエア ジャパン カスタマーサービス TEL. 0800-600-5024 スニーカー[EPAAK SPORT DX]¥12,100/VANS VANS JAPAN TEL. 03(3476)5624 ジュエリー/すべて本人私物

アンダーソン・パーク。カリフォルニア州マリブで2022年7月21日に撮影

ジャケット(参考商品)/ドルチェ&ガッバーナ
ドルチェ&ガッバーナ ジャパン
TEL. 03(6833)6099 

タンクトップ(参考商品)/Judy Turner
judy-turner.com 

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ベレー¥130,000/ディオール
クリスチャン ディオール
フリーダイヤル:0120-02-1947

アイウェア¥122,100/カルティエ
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ジュエリー/すべて本人私物

 36歳にして、パークはすべてを掌握したように見える。たとえば、3メートル先からでも完璧に見えるように髪型を整えさせる手腕もそうだが、商業的成功を収めつつ、同時に批評家からも絶賛されるという離れ業をやってのけた。2017年にポップスターのブルーノ・マーズとの交流の中で結成の産声を上げた、ソウルフルなスーパーデュオのシルク・ソニックがその例で、パークは今から2時間後にそのステージに立つのだ。また、ひとつのジャンルに固定されない音楽を創作しながらも、複数のジャンルを自分なりに定義する才能が彼にはある。たとえば、この夏にはポップシンガーで女優のヘイリー・スタインフェルドから、ハイチ系カナダ人のハウス・ミュージックのプロデューサーであるケイトラナダに至るまで、あらゆる人々とコラボした作品をリリースしたばかりだ。さらに彼は夫であり、ふたりの幼い子どもの父親でもある。

 しかし、私が何よりも気になっているのが彼のウィッグのことだ。2014年にスタジオ録音されたデビュー・アルバムの『Venice(ヴェニス)』の頃からパークの音楽キャリアを追いかけていた人、もしくはそれ以前の2000年代初頭に、ブリージー・ラヴジョイという名義で彼がオンライン音楽プラットフォームのサウンド・クラウドに曲をアップロードしていた頃から知っている人は、彼が帽子に強いこだわりをもっていることを知っているはずだ。古着店で購入した中折れ帽やニットキャップ、そして最近舞台でもよくかぶっているバケットハットに至るまで、彼は数百個の帽子を持っている。髪が薄くなってくると、それを隠すために帽子をかぶるというのはよくあることだが、次第に、帽子をかぶること自体が自尊心と直結してくるのだ。「自分もまったく同じ道をたどっているよ」と彼はその考え方に言及した。「若い子たちがハロウィーンで自分の格好を真似するだろうな!」

 さらに「ポップ・アイコンと呼ばれたスターたちはみんな、ひとり残らず髪がふさふさしていたことに気づいたんだよ」と彼は言う。その言い方は自信に満ちていながらも謙虚さがにじみ出ている。そんなふるまい方は、最近彼がとみに出席することが多くなった授賞式での態度と同じだ。プリンスやリック・ジェームス、ロバート・プラントやボン・ジョヴィなどの映像が私の頭に浮かんでは消える。「音楽界のアイコンとして超ビッグな存在になる気満々でいても、頭上にスウィングできるものがなきゃ、どうしようもないからさ」と彼は言い、頭を前後に揺らした。そして彼が動きを止めると、サングラス越しに、彼の瞳が初めてはっきり見えた。「それは運命的な出会いだった」と彼は言う。「ウィッグをかぶった途端、魂が目覚めたんだ」

画像: パークがロサンゼルスで主催したパーティでの様子 KEVIN MAZUR/GETTY IMAGES FOR SELVAREY

パークがロサンゼルスで主催したパーティでの様子
KEVIN MAZUR/GETTY IMAGES FOR SELVAREY

「魂」という言葉はパークにとって本質的なものだ。あまりにも特別なために、長男に「ソウル」と名づけてしまったほどだ。パークは、ゴスペルやファンク、ヒップホップやパンクなどのさまざまな形態で表現されてきたブラック・ミュージックの伝統の礎を体現して生きる証しのような存在だ。魂は彼のすべての音楽を統括するのに欠かせない要素であり、それは聴衆を動かす意思でもある。2016年に発売された彼の最初のヒット曲『Come Down(カム・ダウン)』でも、彼が魂を込めて歌っているのがよくわかる。3分弱のこの曲で、パークは歌い、ラップし、叫んでいる。うなり声やうめき声を発する。言葉は感情を伝えるサポート役として存在し、感情はリズムによって表現される。「彼がこの曲に向かっていく姿勢は、ジェームス・ブラウンを思わせるよ」と2017年に語ったのは、この曲をプロデュースした、シンシナティを拠点とするヒップホップ・プロデューサーのハイ・テックだ。

 パークの声質はブラウンよりもスライ・ストーンに近いが、ブラウンとパークはともに天才的なリズム感の持ち主だ。このふたりのアーティストは、パーカッションやドラムなどの打楽器を情感たっぷりに奏でるのと同じ効果を、ボーカルを駆使することでつくり出してしまう。「昔作った曲の中でも」と、パークはサウンド・クラウド上でリリースした曲について語った。「ビートの中に埋没して、ただ振動しているのが大好きなんだ」。彼はもっぱら、ボーカルのアレンジや詞を作り込むことにはそれほどこだわらず、シンプルに「悠然と自信満々にふるまい」つつ、曲をどんな態度でどう表現するかに比重を置いている。だが『Come Down』と同じ2016年に発表した『Suede(スウェード)』という曲が決定打となり、スターへの階段を駆け上がっていったとき、パークはついに彼独自のスタイルを見つけた。低音域を歌うときには、かすれた声で、高音域を歌うときには、はちみつのような甘い声で、と使い分ける手法だ。

「ツイッターで誰かが『ニューポート銘柄の煙草を吸っているようなやつでもそこそこ歌えるんだな』って書いていたよ」とパークは誇らしげに言う。彼は軽やかなリズムでラップし、曲のテンポを保ったまま、より自由で広い可能性を模索している。さらに、流れるようなフレーズを表現する際には高い技術力を駆使し、詞を際立たせるように歌うことで、メロディにパンチを加えている。シルク・ソニックの曲『Put On a Smile(プット・オン・ア・スマイル)』からもわかるように、彼の歌い方はうまいだけでなく幸福感に満ちている。その秘密は、音域などの身体的な制約を逆手に取って、彼独自のスタイルの一部として打ち出し、音量や声のトーンや言い回しなどの部分を調整することに力を注いでいることにある。彼は重圧にさらされた人間の状況を歌い上げ、時には疲弊しきった閉塞状態を表現する。「きれいごとじゃない」とパークは言う。そんな深い感情のうねりを伝えることができる声をもつシンガーは稀だ。

 パーク自身には伝統が根づいているが、彼は伝統にコントロールされているわけではない。むしろ、彼はブラック・ミュージックの未来を確固たるものにするため、今の時代にあえて過去を起動させていると言ったほうが近い。「ファンクがこの土地で生まれたことを自分たちの観客が知らないままでは、とてもじゃないけど、自分たちのファンクを創作して、新時代を打ち立てたりすることなどできないよ」と彼は言う。ソウル・ミュージックは1960年代を生き抜いた人々の傷を癒やす薬だった。公民権運動によって法律上の権利が拡張しても、60年代の偉大なリーダーたちが暗殺されても、制約つきの自由しか手に入らなかった現実があり、それに対し、ソウル・ミュージックは異議申し立てをしてきた。われわれの両親や祖父母は、ダンス・フロアでは最低限、自由らしきものを楽しむことができた。客から入場料金をとってアパートの家賃にあてるレント・パーティやディスコ。それは同じブロック内の住民全員を招いてのブロック・パーティや地下室でのヒップホップ・セッションなどに発展していった。音楽とダンスと公民権運動は、音を介した贖罪の儀式を行う劇場空間をつくり出し、音のシャワーの中で、自由が産み落とされたのだ。われわれにはそんなやさしいソウル・ミュージックが今再び、火急に必要なのだ。パークはそんな音楽を提供するごく少数のミュージシャンのひとりだ。

 家族のフォト・アルバムの中でも、ファンの自撮り写真でも、宣伝用の写真でも、パークが笑っていない一枚を探すのは難しい。この8月、パークは、TikTokから始まったある爆発的な流行に乗っかった。それは2000年の国民的大ヒットシングルとなったウィータスの曲『Teenage Dirtbag(ティーンエイジ・ダートバッグ)』の、煽るようにピッチの速いコーラスに合わせて、ユーザーたちが、自分たちが思春期だった頃に撮影した、思い出したくないような気恥ずかしい写真をアップするというものだ。パークはインスタグラムに13秒間の映像クリップを投稿した。最初の写真は、大きなサングラスをかけ、ベージュのキャップをかぶっている現在の自然体でクールな自身の写真だ。それを起点に写真は過去にさかのぼっていく。高校時代のプロム・ダンスのデート相手とのツーショット、そしてチョコレートケーキの上のキャンドルを吹き消している写真、高校卒業の日にピンク色のレイを首にかけているショットが続く。昔のどの写真の中でも、彼はふっくらと栄養が行き渡った身体をしていて、幸せそうに見え、たいてい眼鏡をかけている──視力矯正用の眼鏡で、オシャレ用のものではない。この映像は過去の自分をおちょくって笑いを提供するものであると同時に、パークがいかに長い道のりを経て、過去から現在に至ったのかを祝福し、慈しむものになっている。

「自分はいつも冗談ばかり言って楽しんでいるおかしなやつだった」とパークは言う。「母いわく、父も同じようなタイプだったって。でも父はフィラデルフィアの最も荒れた地区出身だったから──父の双子のきょうだいもそうだ。あのふたりが笑って写っている写真は一枚も見たことがない」と彼は言い、沈黙した。「先祖たちが長年にわたって苦しい人生を送ってきた結果、今、自分がついに笑える立場にいるのかもしれない。彼らは笑うことが許されなかったから」。彼はそのことと自分のファッションの関係についてこう語る。「お調子者で笑っている自分が、こうやって世に出て、グッチのバッグを持てるようになるために、彼らは死んだのかも」

画像: 6月にパリで開催されたファッション・ウィーク PASCAL LE SEGRETAIN/GETTY IMAGES

6月にパリで開催されたファッション・ウィーク
PASCAL LE SEGRETAIN/GETTY IMAGES

 パークは1986年の2月8日にブランドン・パーク・アンダーソンとして、カリフォルニア州のオックスナード市で生まれた。同市はロサンゼルスのダウンタウンから97キロほど北西に位置する海沿いのコミュニティだ。彼の母親のブレンダ・パーク・ビルズは黒人と韓国人の両親から生まれ、韓国の児童養護施設に預けられていたところを、コンプトン在住の黒人のアメリカ人夫婦に引き取られた。その後、一家はオックスナードに引っ越した。パークの父、ロナルド・アンダーソンは米国海軍に入隊後、フィラデルフィアから南カリフォルニアに引っ越した。ブレンダとロナルドは1982年にナイトクラブで出会い、1985年に結婚した。その7カ月後にパークが生まれ、さらに2年後に妹のフィールディングが生まれた(パークはステップファミリー全体で9人の兄弟姉妹の下から2番目だった)。母のブレンダは勝負師っぽいところがあったとパークは言う。彼の子ども時代には、ブレンダは四六時中忙しく働き、いちご畑の経営に携わり、その後、彼女はスーパーやレストランにいちごを卸売りするまでに事業を拡大した。父のロナルドは家族の面倒を見ようと彼なりに頑張っていたが、ドラッグ依存症で、リハビリ施設への入退院を繰り返していた。

 1993年の夏のある晩、7歳のパークと5歳の妹は、仕事から帰宅した母に父が怒鳴っているのを見た。父は母を銃で脅し、通りの真ん中で彼女の首を絞めた。父は殺人未遂罪で起訴され、14年の刑期を言い渡された。その後、父は6年半服役し、2011年に死去した。自身の夫に襲われた事件の10年後、パークの母は再婚し、ヴェンチュラの丘の上にある大きな家に一家で引っ越した。その後、エルニーニョの影響で、畑のいちごが収穫できない季節が続いた。それと前後して、彼女の新しい夫が資本家たちと結んだ事業投資契約が、米国連邦捜査局の目に留まった。捜査の末、パークの母は22件におよぶ株取引詐欺の罪を認め、刑務所で7年半服役した。彼女が釈放された2011年には、パークは25歳になっていた。彼はホームレスとなり、友人たちの家に居候していたこともあった。

 パークがソロでリリースした曲を注意して聴いてみると、彼の自伝が曲にちりばめられているのがわかる。モザイクのようにつなぎ合わされた歌詞からは、傷ついた人生を通して、家族──血縁で結ばれた家族と、自分が選んだ家族の両方──への変わらぬ愛と、芸術がもつ癒やしの力が伝わってくる。パークの2枚目のアルバム『Malibu(マリブ)』(2016年)に収録されている『The Season/Carry Me(ザ・シーズン/キャリー・ミー)』という題名の、2部構成の6分近い長い曲では、パークは家族をこう簡潔に表現している。「おまえのママは刑務所にいる/おまえの父には新しい肝臓が必要だ/おまえの家族はバラバラになり、兄弟姉妹はライバル関係にある」。この曲の後半で、彼は自己憐憫なしで事実を表明している。「自分の木を見ると、葉がない場所がある/何世代にもわたる厳しい生活と依存症」。『Carry Me』のコーラス部分では、答えを探しても回答が得られない経験を表現した。「ママ、僕を連れてってくれる?」。その2年後に発表された曲の『Saviers Road(セイヴィアーズ・ロード)』というタイトルは、オックスナードにある有名な通りの名からつけられた。その中で、彼は鮮明に記憶に残っているある仕事の経験を歌っている。それは、マリファナ農園での加工の仕事だ。「マリオットでいとこと一緒に花を剪定し/それをアリゾナに送る。うまく芽が出るように」

 高校を卒業したばかりのパークは2004年に自分の寝室で曲を録音し、それをインターネット上にアップロードした。彼の作品に興味を示すレコード会社もあった。だが、レコード会社が彼の売り出し方を決め、彼の音楽に制約を加えようとすると、パークは拒否した(「自分には、彼らが市場で売れるようなものが何もなかった」と彼は2019年配信のポッドキャストでコメディアンのマーク・マロンに語っている。「クランク・ミュージックが人気絶頂だった頃だ」──クランク・ミュージックとはアップテンポでもっぱらクラブシーンで流れるヒップホップのことだ──。「で、彼らはそれに似た感じの音楽を作ってほしいと思っていたわけ」)。彼はレコード会社の誘いを断り、一時は音楽から足を洗おうとさえ思っていた。だがそれに続く10年間で、彼は、自分のバンドであるフリー・ナショナルズとともに、ロサンゼルスのミュージック・シーンに欠かせない存在となった。20代から30代前半にかけて、彼はセッション・プレイヤーとして活躍した。テレビの人気オーディション番組『アメリカン・アイドル』の参加者でもあったヘイリー・ラインハートのドラマーを務めたこともある。ジャンルの垣根を越えてさまざまなアーティストたちと積極的にコラボレートし、彼らのツアーに参加し、興行を成功させた。

 2015年にドクター・ドレーに出会う直前、彼は異なるステージネームが必要だと考えた。ラッパーでありプロデューサーであるドクター・ドレーに面会するときに、ブリージー・ラヴジョイという芸名で自己紹介する気になれなかったのだ。「アンダーソン」は説明するまでもなく彼の父の名字から取った。「パーク(Paak)」は母の名字の綴りを少しだけ適当に変えたものだ。韓国で3番目に多い名字が「パク(Park)」なのだ。パークの前に記されたピリオド表記については、2016年のNPR(註:公共放送のナショナル・パブリック・ラジオ)でのインタビューが最もわかりやすい説明だろう。「ピリオドは『細部』を意味している」と彼は語った。「何時間もかけて曲を作り、自分のスタイルを構築する。作品づくりで家に引きこもる時期を終えて世に出たら、細かい点にまで注意を払うぞと心に誓ったんだ」。2016年にドクター・ドレーが所有するアフターマス・エンターテインメント・レーベルと契約を結んでから数年のうちに、パークは合計8つのグラミー賞を受賞した。その半分にあたる4つのグラミーは、2022年4月3日のひと晩に、シルク・ソニックの『Leave the Door Open(リーヴ・ザ・ドア・オープン)』という1曲に与えられた。グラミー賞授賞式の一番最後にレコード・オブ・ザ・イヤーが発表されると、パークとマーズはふたりで同時に立ち上がり、曲の振り付けのポーズをとってから舞台に上がった。「聞いてくれ、聞いてくれ、聞いてくれ」とパークはスピーチを始めた。「この期に及んで、自分たちは何とか必死で謙虚さを保とうとしているんだけど。でも、この業界では、これを総なめって言うよね!」。そして彼は頭を振ってウィッグを揺らしてヒラヒラさせた。

HAIR BY ADRIANNE MICHELLE AT SIX K L.A., GROOMING BY ALANA WRIGHT PALAU USING SHISEIDO AT THE CANVAS AGENCY., SET DESIGN BY KELLY INFIELD.

PRODUCTION: CONNECT THE DOTS. PHOTO ASSISTANT: RASHAD ALLEN ROYAL. SET DESIGNER’S ASSISTANT: KAYLA EPHROS. TAILOR: OLENA PLETENETSKAYA. STYLIST’S ASSISTANT: ANDREW MCFARLAND

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