ヒップホップのスターでありながら女優業をこなし、プロデューサーとしても活躍しつつ、アメリカの主流メディアを代表する顔でもある、という女性は、以前は誰も存在しなかった。そこに彼女が登場した。彼女の手にかかると、まるですべてがたやすく実現できてしまうかのように見えるのだ

BY EMILY LORDI, PHOTOGRAPHS BY RAHIM FORTUNE, STYLED BY IAN BRADLEY,TRANSLATED BY MIHO NAGANO

「成功を自分だけのものにしたいと思ったことは一度もない。
私たちみんなの生活を向上させるために、自分の力を使って支援するのは、ごく当たり前のこと」

画像: クイーン・ラティファ。ニューヨーク市内で2023年6 月27日に撮影。 ジャケット(参考商品)/ルイ・ヴィトン ルイ・ヴィトン クライアントサービス TEL.0120-00-1854 ピアス¥1,155,000/ブルガリ ブルガリ ジャパン TEL.03-6362-0100 ボディスーツ(参考商品)/Lafayette 148 New Yor(k lafayette148ny.com)

クイーン・ラティファ。ニューヨーク市内で2023年6 月27日に撮影。

ジャケット(参考商品)/ルイ・ヴィトン
ルイ・ヴィトン クライアントサービス TEL.0120-00-1854

ピアス¥1,155,000/ブルガリ
ブルガリ ジャパン TEL.03-6362-0100

ボディスーツ(参考商品)/Lafayette 148 New Yor(k lafayette148ny.com) 

クイーン・ラティファ インタビュー前編

 ラティファは「ラ」というシンプルな呼び名で自己紹介した。髪型は5 本の編み込みが畝のように並ぶコーンロウだ。肌は宣伝写真で見たとおりに光り輝いている。彼女は私のローヒールの靴とショートカットの髪型を褒めた。ラティファは自身の2作目のアルバム『Nature of a Sista(’ ネイチャー・オブ・ア・シスタ)』(1991年)に収録されている楽曲のうち、どの曲を、当時54丁目とブロードウェイの交差点にあったスタジオのヒット・ファクトリーで録音したのかは覚えていない。だが、スタジオの使用料金が高額だったことと、歴史あるスタジオに漂う「重厚さ」は覚えているし、自分がそこにいた記憶ははっきりあると語った(さまざまな場所に分散しているヒット・ファクトリーのスタジオでレコード制作をした数々のスターたちの中にはマイケル・ジャクソンもいた)。

 ラティファは、自らが通っていたアーヴィングトン高校で美術の教師をしていた母親のリタ・オーウェンズを通して、シャキム・コンペアと学校内で出会った。ラティファは1989年に19歳でトミー・ボーイ・レコーズと契約を結んだが、そのとき、彼女とコンペアは、どんなマネジメント会社でも彼女をうまく売り出せないのではないかと疑念を抱いていた。そこで、ふたりはニューアークにある窓のない事務所でフレイバー・ユニット・エンターテインメントを立ち上げた。リタも共同経営者に加わったが、彼女はめったに事務所に来ることはなかった(当時の事務所にはタバコの煙が充満していた。のちに、コンペアとラティファはどちらも禁煙した)。リタの子どもたちはすでに彼女から目標達成型の生き方を学んでおり、自らが成功した暁にはコミュニティに貢献すべし、という教えも受け継いでいた。その教えは1960年代に芽生えたブラックパワー運動の自治の精神に根ざしている(ラティファいわく、リタは70年代に、ともに詩人であるアミリとアミナ・バラカ夫妻らを招いて会合を開いていた。ラティファはのちに、それがブラック・パンサーの集会だったことを知る)。

 フレイバー・ユニットという名は、ニュージャージーをヒップホップの拠点にすることを目指す多くのラッパーやDJたちのためにつけられた。彼らとともに切磋琢磨することで、彼女は独自の音楽を作り出していく。尊厳に満ち、ゆったりと流れるようなリズムの中で、人々の記憶に残るフレーズを彼女は歌った。彼女の音楽はさまざまな国に四散した民族のルーツも感じさせた。「プリンセス・オブ・ザ・ポッシ」はラップと歌の完璧な融合に加え、レゲエを取り入れたことでも注目された。その手法はニュージャージー州内の同じ地域出身の後輩ラッパー兼ボーカリストのローリン・ヒルに継承されていく。違ったジャンルを組み合わせたり、女性のエンパワーメントの基盤をつくったりしたのはラティファが最初というわけではなかった(1988年にはMCライトが楽曲「アイ・アム・ウーマン」を発売している)。だが、音楽的な革新に歴史的な意味づけを与えることで、彼女は自分の楽曲を、みんなで楽しく踊ることができ、同時に、聴衆に正義を訴える媒介に仕上げた。彼女はさまざまな題材を次々に提示していく。たとえばパーティ(1989年の「ダンス・フォー・ミー」)から政治(同年の「Evil That Men Do」)やセックス(1991年の「How Do I Love Thee」)など。彼女の出で立ちは、威厳と説得力に満ちていた。アフリカ起源の柄で彩られた衣装を着て、布製のクフィと呼ばれる王冠のような伝統的な帽子を被る。その姿は、リアル・ロクサーヌのような女性アーティストが醸し出す性的魅力を内包しながらも、同時にロクサーヌ・シャンテが体現するカジュアルな雰囲気をも感じさせ、着飾ってはいるが、堅苦しくはないという絶妙なバランスを保っていた。

 さらにクイーン・ラティファという彼女の名前が特別だ。この名称がすでにグローバル・ブランドとなってしまった今では、初めてこの名を名乗るとき、どれほどの度胸が必要だったかを想像するのは難しい。「ニュージャージーで育った黒人の少女が、ダナ・オーウェンズという名前では、もはや自分が誰なのかを正確に表現しきれないと決意するということ」と語るのは、ジャーナリストのダニエル・スミスだ。「そしてクイーン・ラティファという名前に変える──これは、きわめて勇敢な行動だ」。当時、全米各地の黒人の子どもたちの間でアラビア語の名前を名乗るのが流行っていた(それがナショナリストの年長者たちの流儀だった)。

 オーウェンズは柔軟さや繊細さを意味する「ラティファ」というアラビア語が、自分の内面を表すのにぴったりだと感じた。実はこれはほとんどの人が見過ごしている点だ。トミー・ボーイと契約を結ぶ際に彼女は「クイーン」という言葉を名につけ加えた。自分に王冠を授けながら、同時に彼女は南アフリカのアパルトヘイト政策によって苦しんできた人々を敬う思いを込めた。映画『セット・イット・オフ』で共演し、ラティファの親しい友人でもある52歳のジェイダ・ピンケット・スミスは、ボルティモアのクラブで1980年代にラティファの写真を見たときのことを覚えている。「あのとき、初めて、自分の名前の前に『女王』の称号をつけている若い女性がいることを知った」。ラティファの写真を見て彼女は思った。「私たちって、クイーンなんだ。そうだよね?」 

 1990年代前半にパブリック・エネミーのフィアー・オブ・ア・ブラック・プラネット・ツアーに参加した中心的なパフォーマー・グループの中で、紅一点だったラティファは、主役たちが立つ大舞台の前方部分に設置された前座用の狭いステージを、いかにうまく使うかに趣向を凝らした。さらに髪のセットをしなくてすむように、クフィを頭に被った(「これがクイーンの雰囲気、ソウルの空気感。でも同時に、この衣装なら一日数百ドルは節約できるぞというノリ」と彼女は語る)。ダニエル・スミスはラティファの当時の人となりをこう称した。「近所のスーパースター。街じゅうで一番きれいで、格好いい女の子。芯がものすごく強くて、人気があるのに、誰にでも親切な子」。

 ラティファが漂わせている自信は、ごく自然に備わっているように見えるが、実際彼女は何度も試練をくぐり抜けてきた。1999年に出版された自著『Ladies First: Revelations of a Strong Woman(レディース・ファースト:強い女性の知られざる真実)』の中で、彼女は高校の学園祭で舞台に上がる前に恐怖にとらわれた経験を書いている。「もしみんなが私のことを好きじゃなかったら? 野次が飛んできたらどうしよう?」そして真逆の問いを自分に向けた。「もし気に入られたらどうする? スタンディング・オベーションで絶賛されたら?」。彼女はルーサー・ヴァンドロスの「If Only for One Night」を歌い、称賛を浴びた。そんな挑戦を積み重ねるうちに、自信がついていった。それは、ウィンキーというあだ名で知られていた彼女の兄、ランスロット・オーウェンズ・ジュニアが妹に日頃語っていたとおりの展開だった。

 彼女は男性ラッパーたちから学んだことを活かし、女性が活躍できる場をつくり上げた。女性ラッパー同士の因縁めいた争いなど存在しないと断言し、女性たちが分断されることをきっぱりと拒否した。AMCが製作したドキュメンタリー『Hip-Hop:The Songs That Shook America(ヒップホップ:アメリカを揺るがした楽曲)』の中でMCライトが語っているが、当時、ライトは自身のレコード会社から、モニー・ラヴとラティファが共演した「レディース・ファースト」の楽曲制作に参加することは許さないと釘を刺されたという。ライターのキエルナ・メヨいわく「このデュエットはヒップホップ界に存在する性差別を初めて公に表明した曲だった」。ラップが可視化してきた人種問題を含めて、この曲は、私たちが現在インターセクショナル・アナリシスと呼ぶ、さまざまな格差や差別を複合的に捉えた分析を、すでに提供していたのだ。

 モニー・ラヴが言うには、クイーンズにあるパワー・プレイ・スタジオでこの曲を書いたとき、ふたりは部屋の隅と隅に分かれて歌詞を作っていたが、2〜3行書くたびに、お互いが駆け寄って歌詞を見せ合い、「ラ、ちょっとこれ聞いて!」「それ、めちゃくちゃいい!」と叫び合っていた。楽曲の創作を通して彼女と過ごした時間を振り返りながら、ラヴは、ラティファが作る音楽の流れを「魔法のよう」と形容する。彼女は同じ舞台に立ちながら、クイーンに興奮し、魅了されていた。その光景をラヴはこんな歌詞で高らかに歌った。「楽しくて、うれしくて、ウキウキ、ワクワク、とんでもなくハッピーで、歓喜に満ちている/私の姉妹たちが作り出したすべてのビートとリズムで幸せに包まれる」(訳者訳)。「レディース・ファースト」のビデオには、歴史上の女性たちのシスターフッド(奴隷制廃止を訴えたハリエット・タブマンや、革命思想を唱えたアンジェラ・デイヴィス、そしてアパルトヘイト反対を唱えたウィニー・マンデラなどの写真が映し出される)や、現代の女性ラッパーたちも何人か登場する。

 その中心にいるのが、司令総監の軍服を着たラティファで、彼女が地図の上に置かれた白いチェスの駒をひとつずつ引き倒していく。この構図は、ヒップホップの創生期の舞台装置としておなじみだった、急ごしらえの軍の参謀本部を思わせる。当時、主流派のマスコミの中には、ラップを、芸術性のかけらも存在しない単なる流行であり、風紀を乱すものだと断じるメディアもあった(のちに副大統領となったアル・ゴアの妻、ティッパー・ゴアが創設者のひとりとして立ち上げた、ペアレンツ・ミュージック・リソース・センターという団体が、ラップ音楽のアルバムに「過激な歌詞」というステッカーを貼りつけて保護者に注意喚起するにまで至った)。そんな中、ラティファと友人たちはレコード・スタジオで会うと、ラップ音楽に反対する人々からの誹謗中傷に疑問を呈していた。「彼らが(ニュース報道で)語っていたことはすべてナンセンス。ラップはこの先も存続するし、世界中に影響を与えていく」とラティファたちが語っていたのを、ラヴは覚えている。「誰かが『ああ、もうだめかも』と弱気になるときでも、彼女はやる気満々で挑戦していた」。

 だが、若くして成功したラティファにも危機は訪れた。ナイトクラブのプロモーターが約束した報酬をなかなか払いたがらないときには、コンペアが交渉しなければならなかったし、ラティファはラップの歌詞の規制問題について、報道陣から厳しい質問を浴びせられて対応を迫られた。そして1992年には、24歳の若さで兄のウィンキーがオートバイ事故で死亡した。彼の死のショックで彼女のキャリアはほぼ中断しかかった。兄にオートバイを買ったのはラティファだった──ツーリングに出かけるのがふたりの趣味だった。兄なしでこの先も人生を構築していくことは彼女には考えられなかった。著書『レディース・ファースト』で彼女は、自殺をなんとか免れたのは、神への信仰が最後の砦になったからだと記している。彼女は飲酒とマリファナ喫煙に溺れ、仕事に没頭した。兄に捧げるために彼女は『Black Reign(ブラック・レイン)』(1993年)というタイトルで、怒りに満ちた素晴らしいアルバムを制作した。今でもこの作品が彼女にとって一番のお気に入りだ。

 ラップ界の長老となってしまう前に、彼女はTVと映画に進出して影響力を拡大し、活躍の選択肢を多様化させた。彼女がTVドラマに抜擢され始めた1991年に出演した『ベルエアのフレッシュ・プリンス』(1990〜96年)では、主演のウィル・スミスの友人として登場し、のちに、彼と恋に落ちるというストーリーだった。だが、ほとんどすべてのシーンで彼女の体重を誰かが揶揄するジョークが登場した。その後、TVドラマの『リビング・シングル』に出演する頃には、彼女はそんなジョークを逆手にとるほどの余裕を見せた。彼女が演じる、野心満々の雑誌編集者のカディージャが、男性が存在しない世界とは一体どんなものか想像してほしいと問われる。すると彼女は口を大きく開けてにっこり笑い、「たくさんの太ったハッピーな女性たちが住む、犯罪のない世界!」と叫ぶのだ。

『The Cosby Show(ザ・コスビー・ショー)』や『A Different World(ア・ディファレント・ワールド)』などの黒人のコメディドラマが台頭した時代の波に乗って『リビング・シングル』が黒人女性を中心とした物語を展開できたように、映画『セット・イット・オフ』は、ジョン・シングルトン監督が手がけた映画『ボーイズン・ザ・フッド』(1991年)などの作品へのフェミニスト側からの回答だった、と記したのは、学者のアマンダ・ウィックスだ。『セット・イット・オフ』でも、ラティファは実力ある共演者たちに囲まれて、より自由に羽ばたいたように見える。ラティファは、警察に不当に扱われて深く傷ついた友人の復讐を果たすために銀行強盗になるクリオ役を演じた。この役で、彼女はジョークを繰り出すリズムやタイミングを加速させ、演技に新たなニュアンスや深みを加えた。彼女が演じるクリオが盗んだ車でやってきて、停まっている友人の車の隣に路上で並ぶシーンがある。車中にいる友人のひとりが銃で撃たれて死んでいるのを見つけると、クリオの顔がゆがみ、ハンドルの上に身を乗り出す。それはまるで、カメラにすら泣き顔を映されてたまるか、という動きだった。『セット・イット・オフ』の演技によって、ラティファはさらに別の集団に属することになった。ジャーナリストのクローヴァー・ホープは、その現象を、著書『シスタ・ラップ・バイブル─ヒップホップを作った100人の女性』(2021年)の中で「ハリウッド映画で興行実績を上げられることを証明した(中略)ラッパーとしては最初のジェネレーション」(訳者訳)の一員になったと記している。そんな選ばれし集団のメンバーたちの活躍をラティファはこう語る。「ウィル(・スミス)が成功して」彼女もそれに続いた。「きっとLL(・クール・J )も『彼らにできるんだったら……』と思ったに違いない」

 彼女の映画界でのキャリアがまぶしすぎて──アカデミー賞助演女優賞にノミネートされた『シカゴ』(2002年)も含む──実際には、彼女が『ラスト・ホリデイ』(2006年)で初の単独主演を勝ち取るまでに20以上の映画に出演していた事実は、あまり知られていない。その後、『恋のスラムダンク』(2010年)でコモンの相手役として、恋愛映画で初めて主演するまでにも、さらに複数の作品に出演している。『恋のスラムダンク』は、彼女とコンペアが製作も手がけた。成功したヒップホップ・アーティストたちが、自分が売れる前にどんな境遇で育ったかを忘れ去ってしまうことが原罪だとするならば、ラティファは、よく練られたヒット映画を自ら製作し、多様性に富んだ数多くのスタッフを雇うことで、その原罪をうまく回避してきたように見える。ハリウッドの映画人のほとんどは「なじみのスタッフに声をかけて雇う。彼らにとってはそれが心地いいから」とラティファは言う。「でも、私にとっては、それは心地いいものではない」。人種に関係なく役にぴったりの「最高の」人材を探すにはどうすればいいかという映画界の議論を、逆の方向から見てきたラティファは、こう問いかける。「もし最初から選択肢にすら入れてもらえない人たちがいるとしたら、私たちは一体どうやって最高の人材を選ぶことができるのか?」

 2015年にケーブルTVのHBOで放送された伝記映画『ブルースの女王(Bessie)』は、1920年代から30年代にかけてのジャズ・エイジと呼ばれた時代に活躍した歌手のベッシー・スミスの生涯を描いたものだ。ラティファはこの作品の監督に、ディー・リースを抜擢した。当時リースは、レズビアンの少女が成長していく物語を描いた映画『アリーケの詩うた』の監督として知られていた。リースの脚本は、ベッシーがバイセクシュアルであり、ジェンダーに流動性があることに焦点が置かれていた。それと同時に、男性が牛耳る業界で、女性がいかに独自のキャリアを構築してきたかを描いている。ブルースの母と呼ばれたマ・レイニー(モニークがこの役を演じている)が白人ビジネスマンを相手に自分の仕事の報酬額を自ら交渉していたとき、ベッシーの夫(ジャック・ジーの役はマイケル・K・ウィリアムズが演じた)は代理人として妻のレコード契約を結んでいた。共同経営者のコンペアが男性であることが有利に働いたことはあるかとラティファに尋ねると、「一般的に考えられている男性の概念」を提示して助けてくれたことは何度かあると語った。だが同時にラティファとコンペアは、レコード会社の重役や配役を決める責任者、さらに映画関係のエージェントなどを務めるパワフルな女性たちと、あらゆる場面で協業してきたと彼女は語る。「今のようなヒップホップは存在しなかった」と彼女は言い、「シルヴィア・ロビンソンという存在なくしては」とつけ加えた。ロビンソンは1979年にラップ音楽に特化した初のレコード会社、シュガーヒル・レコーズを共同設立した人物だ。

 さらにTVドラマ『イコライザー』では長年一緒に働いてきたスタッフたちもいる。このシリーズをプロデュースしてきたデブラ・マーティン・チェイスいわく──彼女は『恋のスラムダンク』の製作協力者でもある──ラティファの父、ランスロット・オーウェンズ・シニアは元警官で(彼とリタはラティファが10歳のときに別居した)、撮影現場にやってきては、ラティファに闘争シーンのアドバイスをしていたという。さらにこの番組の撮影現場で、ラティファは『セット・イット・オフ』で共演したピンケット・スミスとうれしい再会を果たした。「これはぜひ知ってほしいんだけど」とピンケット・スミスは言う。「ラはものすごくシリアスな演技もうまいけど、基本的に、楽しく仕事をするのが何よりも好きな人」

『イコライザー』はもともと1980年代に白人男性俳優のエドワード・ウッドワードが主演したTVドラマ(日本で放送された当時の邦題は『ザ・シークレット・ハンター』)だった。その後、2010年代に俳優のデンゼル・ワシントン主演で映画シリーズがスタートした。さらにその後、ラティファ主演でTVドラマ版が放送開始となった。ラティファが演じるロビン・マッコールは、米政府から見捨てられた人たちのヒーローだ。劇中でマッコールは「あなたが警察に電話できないときに、連絡できる人物」と自身を形容している。それはジャーナリストのダニエル・スミスの言葉を借りれば「近所のスーパースター」であり、ラティファのヒップホップ人格と重なる(この番組の製作指揮を執るのがラティファ本人であることは、彼女の額の傷がメイクで隠されていないことからもわかる。彼女の意思でそうしているのだ。この傷は彼女が3 歳のときに兄のウィンキーとレスリングごっこをしていてできたものだ)。

 若かりし頃のラティファは、ラップ・カルチャーが台頭してきたことで、あるときは危機に陥ったり、また反対に活力をもらったりしてきた。その一方で、この番組の魅力のひとつは、彼女がさまざまな人物に変装して(弁護士、格闘家、運転手など)、誰にも正体を悟られない無名の存在であることを最大限に楽しんでいる点だ。これまでは、社会に埋没した目立たない役柄を演じることができるのは、白人男性だけの特権だった。しかし、ネットワークTV局には現代でもまだ限界が存在する。ロビンの伯母役のヴァイ(ロレイン・トゥーサントが演じている)には女性の恋人がいるが─製作者は主人公のロビンにはクィアである設定を与えなかった。

画像: ドレス(参考商品)/ヴァレンティノ ヴァレンティノ インフォメーションデスク TEL.03-6384-3512 ベスト(参考商品)/Norma Kamali (normakamali.com) パンツ(参考商品)/16Arlington (matchesfashion.com) イヤリング(参考商品)/David Yurman(davidyurman.com) ネックレス(参考商品)/David Webb (davidwebb.com.) Hair by Iasia Estée Merriweather. Makeup by Raisa Flowers at E.D.M.A. Set design by Two Hawks

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 ヒップホップ音楽の歴史が50年を迎えた今、私たちが学んだ教訓のひとつが、革命というものにゴールはない、ということだ。ヒップホップを生み出した人々は、1960年代に活躍した草の根アクティビストたちの精神や文学性を受け継いでいる。当時のアクティビストたちは、自分たちの手でコミュニティ劇場を立ち上げ、朝食を配るプログラムを組織し、無料の医療クリニックを開いたりすると同時に、デモを主催し、フェスティバルなども開催していた。そんなアクティビストの子どもたちは、ワッツ(ロサンゼルス南部のエリア)やボルティモアなどで育った。街の財政は厳しく、警察の権力は強大だった。だが、彼らはどうやって団結すればいいかを熟知していた。新しい音楽やアートやダンスを生み出し、そんな活動を宣伝する商品を販売し、さらに商品を生産する企業も興した(「私たちは筋金入りの事業家だと思う」とラティファは言う。「そうじゃなければ、一体どうやってここまで実現できたと思う?」)。

 彼らは両親に家を買った──ラティファも21歳のときに母に自宅を購入した──まだ銀行が彼らへの融資を拒否していた時代に。2018年にリタが強皮症で死去したあと、ラティファは、母を合併症によって苦しめた肺疾患に関するドキュメンタリー作品を製作し、患者をとりまく状況を広く知らしめることに尽力した。彼女とコンペアはニューアークの中心部にある「ライズ・リビング」という名のアパート事業にも出資している。このアパートのうちの16棟は低所得者向けのユニットであり、同時に、高所得者の住民たちを同地区にとどまらせるように奨励するプロジェクトでもある。「私にだってできるんじゃない?」と自問することは、野心的で創造的な人間だけの専売特許ではなく、現実を変えようと決めた市民の誰もが共有できる行動だ。「成功を自分だけのものにしたいと思ったことは一度もない」と彼女は言う。「私たちみんなの生活を向上させるために、自分の力を使って支援するのは、ごく当たり前のこと」。そしてその過程は楽しむべきものなのだ。「自分の経歴を振り返ると、いつも、つい社会問題について熱く語ってしまう」と彼女は言う。

「でも、これだけは言っておきたいんだけど、こういう事業をやるのは、実はものすごく楽しい」。ヒップホップ・グループのデ・ラ・ソウルのメンバーで、今年死去したデヴィッド・ジョリクールの追悼イベントで、DJが「レディース・ファースト」の曲をかけた。するとラティファがラヴに向かって「モニー、どう?」と声をかけ、ふたりで再び歌った。ラティファと一緒に歌うことが大好きなラヴは、このチャンスに飛びついた、とラヴ本人は語る。この曲の歌詞を書いてレコードを制作した昔と「まったく同じ興奮」を感じたとラヴは言う。ラティファと親しい人々によれば、彼女が今でも精力的に活動しつづける理由はたくさん挙げられるという。活動に意義を感じている、または、ゴージャスな生活を支えるための経済力が必要という理由などもそうだ。そんなすべてをひっくるめても、この業界で生き残ってきたということは幸運であり、彼女は今でも楽しんで仕事を続けている。

 私たちが彼女のことをよく知らないにもかかわらず、彼女を絶賛しているとすれば、それは彼女が私生活を明かさないかわりに、まだ売れていなかった時代のことも包み隠さず公表しているからだ(彼女は少なくとも『セット・イット・オフ』以降、セクシュアリティに関する質問はうまくあしらって答えないが、パートナーでコリオグラファーのエボニー・ニコルズとの間に4 歳の息子がいることを、2021年のブラック・エンターテインメント・テレビジョン賞の授賞式で公に認めた)。彼女の2冊目の著書『Put on Your Crown(自分の王冠を頭に)』(2010年)では、おおっぴらに自らを語る記述は1冊目の著書よりもぐっと少ない。最初の著書で、彼女はウィンキーの死の喪失感を乗り越える過程や、自分にぴったりな男性を探す困難さを詳細に記している。最近では、彼女はこう語っている。

「私は人生をまるごとみんなと分かち合ってきた。自分に与えられた才能を、みんなとシェアしてきた。私生活まで公表しなければいけない筋合いはない」。彼女は「どこかの間抜けなリポーターに」脅かされることは二度とない、と続けたが、その言葉が直接的でないぶん、取材する側も変に身構えずにすむ。私の脳裏には、映画『ブルースの女王(Bessie)』の中で、歌手のベッシーがコンサートを終えて自宅に戻り、薄暗い部屋で鏡に映る自分の姿を見つめているシーンが浮かんできた。ラティファの仲間を思う愛情が強ければ強いほど、家庭生活と自らの孤独を守り抜くことで、彼女はこれまで正気を保ってきたのだろう。そもそも、ダナ・オーウェンズがクイーン・ラティファに出会ったのも、自己の深淵を見つめる静謐さによってだった。彼女は自分にそっとこう問いかけた。「もしみんなが私のことを好きだったらどうする?」。何十年もの間、彼女は違う世界どうしを糸で縫うようにつなぎ合わせてきた─黒人と白人、男性と女性─そんな中、公と私の間のスペースだけは、糸で縫い合わせるのを断固拒絶してきた。

 インタビューを終える前に、2009年の曲「The Light」について彼女に尋ねた。歌の中で、ニュージャージー出身の偉大なエンターテイナーたち(ブルース・スプリングスティーンやサラ・ヴォーン、そしてフランク・シナトラなど)を列挙したあと、彼女はこんな励ましのメッセージを送る。

ガール、あなたは成功するから、絶対に成功できるから!
頭の中で想像して、ぐっと力を込めて!
……やるべきことに真摯に向き合えば、世界はあなたを信じる。
そしてあなたはこう言うことができる。
「お母さん、見て!」
「私は光をつかんだ」(訳者訳)

 ラティファは最後の一節を、まるで子守歌のように穏やかな中音域の声で繰り返して歌う。だが、歌詞は「光をつかんだ」から「光に向かって進む」に途中で変わっていくように聴こえるのだ──それは、あたかも、栄光の地にたどり着いた誇りと、この先も続く希望の間を移動していくかのように。この二重構造を彼女のキャリア全般にあてはめて考察する前に、私は歌詞を正確に聴き取れているのかどうかを確かめたかった。「今ここで曲をかけて、あなたに教えてあげる」と彼女は言った。自分のスマホに入っている曲を探す間に、彼女はすでに歌いながらリズムをとっていた──「あの曲にはイカした歌詞が結構出てくるよね」と言いながら──そして私は完璧な音階で歌う彼女の生の声と、すべての歌詞を完全に暗記している彼女の記憶力に驚愕した。この楽曲を彼女が録音したのは14年前なのだ。

 彼女が頭を垂れ、耳をスマホに押しあて、自分の歌に合わせて踊り出すのを私は見ていた。確かに「つかんだ」と「向かって進む」という2 通りの歌詞が聴こえた。だが、そこに彼女はさらに幾重もの層を足していく。「それは、自分を超越した何か崇高なものという意味でもある」と彼女は言うのだ。「光り輝く舞台で活躍できるのは幸運なこと。そしてそれを達成するって? それこそ100万回に1回成功するかどうかという賭け。それはラテン・クォーターで味わったあの感じ。高いステージの上で演奏している彼らを見ている感覚。彼らにスポットライトがあたり、マイクがあって、『自分の道を行け!』と叫んでいる、みたいな」。何度も自分自身と深く対話してきた中で、今ここで、彼女はティーンエイジャーだった頃のラティファについて言及している。そして若いエネルギーでいっぱいだった頃の思い出を力にして、現在の自分を充電していく。過去、そして今、そしてこれから先も、さらなる飛躍が待っている。

PRODUCTION: MORI PROJECTS. DIGITAL TECH: ADRIEN POTIER. PHOTO ASSISTANTS: FALLOU SECK, NUVANY DAVID. MANICURIST: LISA LOGAN. MAKEUP ASSISTANT: DERRICK BERNARD. SET DESIGNER’S ASSISTANT: CASEY JONES. TAILOR: MAJORS.
STYLIST’S ASSISTANTS: CHARLES NDIOMU, TYLER SPARLING

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