BY EMILY LORDI, ARTWORK BY SAM MCKINNISS, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
ホイットニー・ヒューストンが1993年に発表した『アイム・エヴリ・ウーマン』という曲のミュージック・ビデオには、彼女以外に、不思議なまでに大勢の女性たちが登場する。この曲は、ヒューストンの類いまれなメゾソプラノの歌声が奏でる、勇気が出てくるような女性讃歌だ。聴く者を圧倒するようなパワフルな声で「私にはすべてが備わっている」という歌詞を彼女が歌うとき、ほかの出演者の女性たちは必要がないように感じるほどだ。だが、彼女の隣には、ファンクの重鎮であり、この曲を1978年に初めてレコーディングしたチャカ・カーンがいる。さらにこの曲を共同作曲したヴァレリー・シンプソンの顔も見える。また、ヒューストンの母親であり、メンターでもあるシシー・ヒューストンの姿や、若い黒人の少女たちで構成されたダンスチーム、3人組のTLCもいる。ヒューストンはこの曲『アイム・エヴリ・ウーマン』を1992年公開の映画『ボディガード』のサウンドトラックとしてレコーディングした。彼女はエグゼクティブ・プロデューサーのひとりとしてこの映画の製作に参加し、この映画のヒットによって彼女の大スターとしての地位が確立された。「彼女の驚嘆すべき才能とキャリアはあらゆる人に衝撃を与えた」と義姉のパット・ヒューストンは語る。彼女は、ヒューストンの楽曲の権利や契約を含む遺産の管理人を務めている。この『アイム・エヴリ・ウーマン』のミュージック・ビデオを観れば、ヒューストン本人が自分のもつ影響力の大きさを理解し、それを駆使していたことがわかる。彼女は、自らのミュージック・アイコンとしての地位を意識的に使って、同業の先輩である黒人女性たちや、創造力に富んだ後輩たち全員に光をあてようとしていた。
彼女の死から11年が経過した今、化粧品メーカーのM・A・Cはホイットニー・ヒューストン メイクアップコレクションを立ち上げて新しい商品ラインナップを売り出し、香水メーカーのセント・ビューティーも彼女の名を冠した香水を発売している。さらにヒューストン本人の歌声は、ナオミ・アッキーがヒューストン役を演じた最新の自伝的映画にも使われている。この先数カ月から数年の間にも、ヒューストンの関連作品の数々が世に出る予定で、その中には、彼女の未公開のゴスペル音源をまとめたアルバムや、彼女を題材にしたブロードウェイ・ミュージカルなどもある。ホイットニー・ヒューストンの遺産を管理する企業と音楽出版社のプライマリー・ウェーブが2019年に結んだ資産配分契約によって、こうした企画が実現することになり、ヒューストンの人物像を私たちが再び見直すことができるだけでなく、生前の彼女が自分以外の黒人女性たちのことを折に触れて気にかけていたという事実を改めて発見することができる。
現在、私たちは、歌手のビヨンセやリアーナ、映画監督のエイヴァ・デュヴァーネイやコメディ番組プロデューサーのリナ・ウェイスなどのセレブリティたちが、お互いのもつ能力や資産を共有して、自分たちのレコード会社やプロダクションを立ち上げたり、協業したりするのを当たり前のこととして受け止めている。それは俳優のイッサ・レイが2017年のエミー賞授賞式で語った「すべての黒人アーティストを応援している」という言葉を体現するもので、特に、黒人女性が互いを支援し合う現象が当たり前になっている。だが、実は黒人女性のアーティストたちを積極的かつ大々的にプロモートする活動の起点となったのがヒューストンだった。彼女はゴスペル歌手のアイコン的存在だったシーシー・ワイナンズとキム・バレルに手を差し伸べて連帯し、ブランディやモニカといったポップスターたちをメンターとして支援してきた。
私たちは今までこうした事実を知ることがなかった。それは、彼女にまつわるさまざまな神話の中で、彼女が黒人であることが、あたかも彼女が抱えていた問題のひとつであるかのように語られてきたからだ。実際、彼女が黒人であることは、彼女自身のプライドや活躍の機会を生み出す源でもあったのに。白人による道徳的なメッセージを主体としたポップ音楽の主流派にとっては、彼女は黒人寄りすぎたし、1989年のソウル・トレイン・アワード授賞式で彼女に向かってブーイングを浴びせた心の狭い黒人の聴衆たちにとっては、彼女は白人寄りすぎた。彼女が当時「バッドボーイ」の評判で知られていたボビー・ブラウンと結婚したのは、彼女が昔、自分の故郷のニュージャージー州ニューアークの街で獲得していた地元民からの尊敬を取り戻すためだったという説がある。そしてまた、クライヴ・デイヴィスが設立したレコード会社、アリスタから発売された彼女のポップ音楽のヒット作品に漂っていた白人っぽさを払拭するためだったとも伝えられている。
彼女の人生のストーリーは、ふたりのカリスマ的な男性たちの間での奮闘として描かれてきた。そんなシナリオ設定に出てくる黒人女性は、歴史的な先人たち(彼女の音楽の母でもあるシシーと、彼女のいとこでセレブリティのディオンヌ・ワーウィック)か、禁断の恋人たちだけだった(彼女の長年の親友であり、クリエイティブ・ディレクターでもあったロビン・クロフォードは、巷で流れている噂を訂正したいという意図もあり、2019年に回顧録を出版した。その中で彼女は当時17歳だったヒューストンに出会ったときのことや、ふたりが親しくなった初期には性的な関係もあったことを書いている。この点については、最近公開になったヒューストンの自伝的映画の中で、感情を排して淡々とリアルに描かれている点が新鮮だった)。
メディアはヒューストンのドラッグ依存をこぞって報道した─2012年にビバリーヒルズのホテルの浴槽の中で溺死したとき、彼女は48歳で、彼女の体内からはドラッグが検出された─。そんな報道によって、薬物に振り回されて人生のコントロールをほぼ完全に失った女性としての評判が決定づけられた。ましてや、彼女がエンターテインメント界のほかの黒人女性たちの先導者になっていたことなど、人々は知るよしもなかった。映画『ボディガード』以降の年月において、彼女がどれだけ意識的に、かつ親身になって、自らの力を他者のために使っていたかを世間が読み取ることはほぼ不可能だ。あの映画以降のほとんどの報道は、彼女が死に向かって真っ逆さまに転落していく様子を描いたものばかりだったからだ。
ただ、そうはいっても、ヒューストンが大々的に黒人女性アーティストたちを支援していたことがあまり知られていないのは、それが、ごく個人的な活動でもあったからだ。彼女は人種を前面に出すタイプの女性ではなかった。桁違いなスターとしての地位をすでに築き、野心もあった彼女は、例えば女優のルビー・ディーや、もっと若い世代のイッサ・レイが行動してきたように、人種問題に深く関わることを公に宣言することはできなかった。
さらにヒューストンは、2005年に放送されたリアリティ・テレビ番組シリーズの『BeingBobby Brown(ビーイング・ボビー・ブラウン)』に出演したことで、黒人女性の尊厳をめぐる政治的活動や、ロールモデルとしての立場とは、きっぱりと決別してしまった。ヒューストンは、オプラ・ウィンフリーやスパイク・リーなどのように、彼女と同時代に活躍したメディア経営の巨人たちとも違った(アーティストのマネジメント会社ひとつと、レコード会社がひとつ。どちらも短命だった)。それでも彼女は、ポスト公民権運動の世代の一員として、人種の壁を取り払うために奮闘し、かつて白人が独占していた領域に自力で居場所をつくり、ほかのアーティストたちをそこに招き入れる役割を果たした。彼女は世間の注目を浴びることが、いかに自らをすり減らすかを身をもって知っており、黒人女性たちのメディア露出をただやみくもに増やすのではなく、衆人環視の中で彼女たちがサバイバルできるように見守ることを心がけた。
『アイム・エヴリ・ウーマン』のビデオに現れた変化が示唆していたように、彼女は、自信が90年代半ばに獲得したアメリカの恋人という地位を、ブラックカルチャーの担い手という形に変えはじめていた。全米から「ザ・ボイス」と称賛された存在としてだけでなく、新たな才能を見極める確かな耳をもったマルチメディア・ストラテジストとして。1994年にはネルソン・マンデラが大統領に就任した南アフリカで一連のコンサートを行った。また1995年には、テリー・マクミランの1992年出版の小説『ため息つかせて(Waiting to Exhale)』を原案にした映画の製作に出演者のひとりとして、またエグゼクティブ・プロデューサーとしても関わった。同映画のサウンドトラックは黒人女性のアーティストのみによって制作され、彼女もその一員だった。このアルバムの制作メンバーには、アレサ・フランクリンや、R&Bのボーカリストであるフェイス・エヴァンス、そして若くしてすでに大成功をつかんだブランディもいた。ブランディはこの後、1997年公開の映画『シンデレラ』において、さまざまな人種の登場人物で構成された物語の主役を演じ、ヒューストンはプロデューサーのひとりとしてこの映画に参加した(ヒューストンは同作品に魔法使いの役で出演もしている)。
さらに1996年公開の映画『天使の贈りもの(The Preacher’s Wife)』のサウンドトラックで、ヒューストンはシーシー・ワイナンズとケリー・プライスとコラボレーションすることで、現代的なゴスペル音楽を世に知らしめることに尽力した。1998年にはミッシー・エリオットとローリン・ヒル(彼女たちのことをヒューストンは「新種」と呼んでいた)らのミュージシャンたちとともに歌い、アルバム『マイ・ラヴ・イズ・ユア・ラヴ』を制作した。傷つきながらも再び立ち上がって人生を歩むというメッセージを込めたこの作品で、ヒップホップの味付けをしたR&Bに自身の新しい方向性を見いだしていく。セクシーな曲『ハートブレイク・ホテル』をプライスとエヴァンスとともに3人で歌った。この曲は特にトリオで歌う必要はなかったが、「ヒューストンはキリスト教会で賛美歌を歌ってきたほかの黒人女性たちにもスポットライトをあてたかったようだ」とエヴァンスは語る。グラミー賞にノミネートされたこの曲と、同曲のビデオによって、エヴァンスとプライスはポップ音楽の聴衆にもその存在が広く知られるようになった(同時に、ヒューストンにとっては、エヴァンスやプライスなど若いアーティストが活躍する、いわゆるアーバン・ミュージック市場の聴衆たちに自分の音楽を届けられるという利点もあった)。
ヒューストンの最後の作品となったのは2012年に公開された映画『スパークル』だ。この作品は黒人俳優たちが主演した1976年版の同名のミュージカル映画をリメイクしたものだ。彼女は、歌手志望の娘たちの母親役を演じた。その役柄は、それまで20年近くにわたって、実生活で若い世代の支援を続けてきた彼女にぴったりだった。
19歳でレコード契約を結んだヒューストンは、30代になる頃には業界の長老的な立場になっていた(ヒューストンの親しい友人のひとりだったキム・バレルの弁によれば、あるときヒューストンは、新進気鋭のスーパースターのある女性アーティストに出会ったが、その彼女の印象があまりよくなかったことから、エンターテインメント業界で女性たちが取るべき行動と避けたほうがいい行動を、ドキュメンタリー作品の形で残したいと願っていたそうだ)。
ヒューストンは、自身がメンターとして面倒を見ていた17歳年下のモニカに対し、『Street Symphony(ストリート・シンフォニー)』(1998年)のような、都会の生活を題材にした、当時の業界の常識にとらわれない作品を今後も作り続けるようにと励ました。そして、たとえドレスコードがロングドレス指定の場であっても、モニカ自身のお気に入りである、レザーのサイハイブーツ(太ももの高さまであるブーツ)を履き続ける信念をもったほうがいい、とアドバイスした。モニカはヒューストンから、音を「ピュア」なまま歌うことで、曲に流れる感情の純度を保つようにと指導されたことを覚えている。若いボーカリストたちはキリスト教会で歌う際に「音の調子を変えたり、さまざまな音をいくつも加えたりする」手法を学んできたが、そうしないほうがいいと助言されたのだ。さらに「リズムを加える空間と場所をうまく見極めて、でも、やりすぎないこと」を「ホイットニーはすごく大切にしていた」とモニカは回想する。
それらの技法を正しく使うのは、聴衆を魅了するためというよりも、むしろ音楽を使ってきちんと自分が信じる神を讃えるのが目的だった。「それは舞台上でゴージャスに映えるようにとか、『うまく歌えた?』と気にすることとは違う」と義姉のパット・ヒューストンは言う。「彼女は"あなたのために歌う" ことが目的で舞台に上がっていた。つまり、彼女が歌で伝えたいことの中から、あなたが、これが聴きたかったという何かを確実に受け取れるかどうかを気にかけていた」。
ヒューストンにとって、音楽が欠かせなかったのは、彼女が実生活でこんな人間でありたいと目指していた最高の形を、舞台上で音楽という媒体を通して自ら体現することができたからだ。それは生き生きとして親しみやすく、人の心の機微や要望を受け止めることができる感受性を備えた人格だ。バレルはテキサス州のヒューストンにある教会で主任牧師を務めていたが、彼女自身の教会を作りたいという夢があり、それを応援したのもヒューストンだった。エヴァンスの夫でラッパーのノトーリアス・B.I.G.が1997年に殺されたとき、ヒューストンはエヴァンスを家の外に連れ出して避難させた。18歳だったモニカの恋人が悲劇的な方法で亡くなったときも、アトランタにあるモニカの自宅に飛んでいき、1 週間ほどともに過ごした。
彼女のこうした思いやりに満ちた行動の数々は、彼女の友人たちから実際に聞かなければ、知ることはなかった。ヒューストンはそんな行動を宣伝したいとは思っていなかった。そうでなくても、彼女の私生活の一部始終は大衆によってさんざん消費し尽くされていた。だが、そうはいっても、人々が彼女のした善行に気づくと、彼女は喜んでいた。
のちにジャーナリストとなるクインシー・トーマスがまだ20代前半だった1998年に、MTVの番組でヒューストンにインタビューをしたことがある。トーマスが「私たちの仲間を大勢雇ってくれて」と彼女に感謝すると、ソファに座っていたヒューストンは背すじをすっと伸ばして「そのことを知っているの?」と言った。誰に質問するか、そして、どこに目を向けるかで、私たちが知りうることは、常に違ってくるのだ。
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