INTERVIEWS BY LOVIA GYARKYE AND NICOLE ACHEAMPONG, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA
エィミ・タン 72歳、小説家
『ジョイ・ラック・クラブ』(1989年)を語る
1980年代半ばの私は商業ライター(企業の宣伝資料や社員向け冊子などを書く仕事)でした。仕事はうまくいっていたけれど、気持ちが満たされていませんでした。意義のあることを何もしていなかったからです。
小説を書くことで、架空の設定を通じて、私自身が掘り下げていなかった心の機微に触れることができるようになったのです。初めて小説を書くときは誰でも自伝的要素が多く入りやすくなるものですが、『ジョイ・ラック・クラブ』(中国からアメリカに移住した女性4 人と、アメリカで生まれたその娘たちの人生を描いた作品)も、私自身が気づかないうちに、とてもパーソナルなものになっていました。人種差別や世代間の分断に焦点をあてた話ですが、そういうことを書こうと意識していたわけではありません。当時の私(刊行時37歳)は、ただストーリーを見つけ出そうとしていただけでした。
読んだ人はさまざまな感想をもってくれていました。この本のおかげで夫婦関係や人間関係を修復できた、と言われたこともあります。素敵なことだと思いましたが、私の功績とはいえません。誰かの人生を救う本を書こうと意図したわけではないのですから。そういうことを目指すのも崇高な試みなのかもしれませんが、もしやろうとしたら、まったく違う本になっていたでしょう─もっと作為的なものになり、正直さも薄れていたはず。私にとって何よりも誇らしいのは、間違いなく、母に読んでもらえたことです。母は英語が堪能ではありませんでしたが、それでも、誰より深くこの本を理解してくれました。
アヴリル・ラヴィーン 39歳、ミュージシャン
『レット・ゴー』(2002年)を語る
初めて入ったスタジオでは、いろいろな人から、ああしろこうしろと音楽の方向性を指示されたけれど、自分がつくりたいものは自分でちゃんとわかっていた。『レット・ゴー』は、まだ子どもだった私が音楽業界に足を踏み入れたときの気持ちが表れているアルバム。契約書にサインしたのは15歳、あのアルバムをつくったときは16歳だった。もどかしさや反発心、その頃の私の感情をそのままのトーンで表現したかったのに、周りの大人が歌わせようとするのはつまらない歌ばかり。ギターの感じも、なんとなく合わなかった。あまりにも明るくてふわふわしていて、それが我慢できなくて収録をやめたの。
LAで知り合った「ザ・マトリクス」(ソングライティング・チームのローレン・クリスティ、グラハム・エドワーズ、スコット・スポックのこと)とクリフ・マグネス(プロデューサー)のほうがすごくクールで、頭がやわらかくて。特にローレンとはかなり長い時間を一緒に過ごした。庭にピクニック用のブランケットを敷いて、そこに座ってローレンと「コンプリケイテッド」をつくった。気持ちが完全に通じあい、ようやく私を理解してもらえた、という感じだった。そこそこよくできたアルバムだと思う。今つくり直すとしたら、制作面では少し変えて、あれからの20年の経験で得たことも足すんじゃないかな。でも、「スケーター・ボーイ(原題は"Sk8er Boi")」や「コンプリケイテッド」などの大事な曲は、生のギターとドラムが入っていて、オリジナルのままで十分にロックしてる。「アイム・ウィズ・ユー」もいい具合に粗削りだし。「アンウォンテッド」や「ルージング・グリップ」もやりきってる曲だと思うーー空気を読んだりなんか、絶対にしなかったから。
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