BY CHIKO ISHII
他人の日記を読むのが好きだ。日記は不可逆の時間を一部分でも言葉にして、記憶にとどめようとするものだからだろう。内面の吐露があるものはもちろん、ただ身のまわりで起こった出来事や生活の細部を記録しているだけのものもいい。妄想が混ざっていてもいい。
宮内裕介『作家の黒歴史 デビュー前の日記たち』
『作家の黒歴史 デビュー前の日記たち』は、幼少期をニューヨークで過ごし、国際情勢に関心が深く、元プログラマーでIT技術から日本近代文学まで幅広い知識を持ち、純文学とエンターテインメントを横断して活躍する宮内悠介が、デビュー前にmixiやブログに書いていた文章を読みなおし、今の自分の視点で批評したエッセイ集だ。世の中に〈モノ申す系〉の日記から、その日の直感やひらめきを開陳した日記、日常を記した本来の日記まで、他者のように距離をもって観察して、自分が何を言わんとしていたかを読み解いていく。

『作家の黒歴史 デビュー前の日記たち』著者 宮内裕介、装幀 川名潤
¥1,760/講談社
2008年のガザ侵攻に対する海外の反応を収集した日記をはじめ、政治や社会について考えた文章も読みごたえがあるが、やはり私的なことを綴った文章に引き込まれる。
たとえば、「日記らしい日記」と題した章。将来を約束しあっていたパートナーが同居していた家を出て行った2006年の日記を紹介している。10月31日の〈気分転換に髪をきった。かつて彼女がいまにも崩れそうな人型の灰みたいになったとき、無言でなでていたヒゲもいいかげん剃った。ぼくは命綱にはなれなかったのだ〉というくだりは切ない。しかも、髪を切っただけでは気分転換にならなかったようで、11月2日には赤く染めている。失恋の記憶は、ただでさえ恥ずかしさや痛みを呼び起こすものだ。しかし宮内は当時の自分の心理を細かく分析し、意味のわからない部分は丁寧に解説する。別れた相手への未練をごまかしたり、幻想を押しつけているように見えるところは批判するが、〈正直に言うならば、ぼくはこの一連の記述に、完全には否定できないなんらかの真実があると感じている〉と認めるところがいい。
過去の日記を批評するエッセイということで、宮内は次第に日記とは何なのかという定義を考えるようになっていく。インターネットの普及が日本の日記概念をどう変えたかを論じる「1行で読者を脱落させる」は秀逸。宮内によれば、個人的に紙に書かれるものだった日記と、テクノロジーが発達し個々人が文章を公開しはじめたことで生まれた日記のようなものは違う。ウェブという世界で個人が何かを表現できるようになったとき、多くの人がとりあえず日記という既存の概念を持ち込んだ。「さるさる日記」などの無料レンタル日記サービスが隆盛し、注目を集める書き手も登場した。レンタル日記からブログ、SNSへ、プラットフォームは変化した。〈ともあれ、日記のようなそれは媒体に応じてコミュニケーションと同化したり、アジテーションと同化したり、娯楽や自己実現やマネタイズと同化したり、あるいは写真や動画といった形にメディアをまたいだりしながら、呼ばれかたを変えつつ拡散していったわけだ〉という。宮内はそういう日記的なるものでしか生み出せなかったであろう不思議な文学を発見するのだ。
少し前に流行したがいつのまにか誰も言わなくなった〈価値観のアップデート〉という言葉について考察した「呪いのアパート」も素晴らしい。「まとめのようなもの」に掲載された〈本当に誰にも見せたくないもの〉も必読。
一度は葬り去ろうとした〈黒歴史〉の発掘から出発して、自分にとって文学とは何かを探求する。これまでにない知的冒険を楽しめる奇書である。
山崎佳代子『ベオグラード日誌 補填版』
山崎佳代子『ベオグラード日誌 増補版』は、読売文学賞を受賞した傑作日記文学に最近の日誌を加えている。山崎は1981年にセルビア共和国(当時はユーゴスラビア社会主義連邦共和国)に渡り、現在も首都ベオグラードに住む詩人だ。セルビア文学を日本語に翻訳し、日本文学をセルビア語に翻訳する翻訳家でもある。

『ベオグラード日誌 補填版』著者 山崎佳代子、カバーデザイン 五十嵐哲夫、カバー画 Nebojša Yamasaki Vukelić
¥1,056/ちくま文庫
ユーゴスラビアの解体後、旧ユーゴスラビアの中心だったセルビアと分離独立を求めるコソボ自治州のあいだで紛争が勃発。1999年3月、和平案を拒否したセルビアに対して、NATOが大規模な空爆を実施した。山崎の日誌は2001年6月23日、空爆で家族全員を失った女性の話からはじまる。生き残った女性も重傷を負い、精神病院に入院したという。山崎は空爆の記憶が生々しい街で、文学を翻訳し、詩を朗読し、難民センターを訪ね、さまざまな人と交流する。時折日本にも帰る。そんな12年間の出来事が綴られる。
日本語とセルビア語という二つの言語を行き来しながら、バルカン半島の激動の歴史を目のあたりにしている詩人ならではの視点と文章に魅了される。セルビアだけではなく、世界各地で起こっている戦争のことや、災害のことも語られるが、なんにもない日にゆっくりジャムを煮る日常も描かれる。いなくなったと思ったら藍色の闇からひらりと現れる燕、妹の葬儀のために行った寺に咲いていた白い彼岸花、第一次世界大戦の激戦地となった山から見下ろした黄金の蛇のような川……。山崎の言葉の窓を通して見える風景は、小さなものも鮮やかに映って印象深い。
文庫化にあたって新たに収録された2019年から2025年の日誌には、新型コロナウイルスの感染が拡大したころの生活、ウクライナとロシアの戦争のはじまり、ベオグラードの小学校で起こった銃乱射事件のことも記されている。
山崎と同じ時間、自分は何をしていたのか思い出す。繰り返し読みたい一冊だ。
多和田葉子『言葉と歩く日記』
あわせて読みたい傑作日記文学といえば、多和田葉子の『言葉と歩く日記』。多和田は日独ニカ国語で作品を発表し、高く評価されている作家。詩人でもある。
本書は日本語とドイツ語を話す自分を観察した日記だ。

『言葉と歩く日記』著 多和田葉子 ¥1,034/岩波新書
多和田は〈何をするのにもわたしは言語を羅針盤にして進む方向を決める。言語の中には、わたし個人の脳みその中よりもたくさんの知恵が保存されている。しかも言語は一つではない。二つの言語が別々の主張をして口論になることもあるが、独り言をぶつぶつ言っているよりも自分の頭の中で二つの言語に対話してもらった方が、より広くより密度の高い答えが生まれてくるのではないかと思う〉という。
二つの言語と対話しているからこそわかることが面白い。たとえば、日本語で書いた小説『雪の練習生』をドイツ語にする作業を続けているときに、自分の日本語には「何々すると何々だった」という構文が多すぎることを発見したりするのだ。
二人称単数の代名詞は二種類あるのに、なぜ一人称単数の「ich(わたし)」は「ich」のままなのかとか、ドイツ語の文法について疑問に思ったことを語っているくだりも楽しい。
読んでいると、自分の身のまわりにある言葉も観察してみたくなる。

石井千湖
納得や共感、憧れの気持ちを湧き起こすを近著「『積ん読』の本」(主婦の友社)や、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』などで注目の書評家・ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経て今の道へ。新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿をはじめ、ほか著作に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、週刊誌の連載をまとめた『名著のツボ 賢人たちが推す! 最強ブックガイド』(文藝春秋)がある。
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