BY THESSALY LA FORCE, PHOTOGRAPHS BY LANDON NORDEMAN, TRANSLATED BY T JAPAN
エルメスのアーティスティック・ディレクター、ピエール=アレクシィ・デュマは、ニューヨークに誕生する新しい旗艦店のオープン数週間前にその4階に立ち、アントワーヌ・カルボンヌによる大きな絵の前にしゃがみ込み、布でその縁を丁寧にこすっているアシスタントにひっそりと話しかけていた。デュマは、この店に飾られるすべてのアート作品を自ら監修した。あるものはメゾンのアーカイブから、またあるものは最近入手したもので、すべてエルメスのストーリーを伝えることを目的としている。
しかし、この絵には問題があった。
「こんな大きなサインがあるとは思いませんでしたーー馬鹿げている」と、デュマ(56歳)は、カルボンヌが絵の側面に書いた自分の名前を指して言う。彼のアシスタントは、真っ白なペンキで描かれたサインを丁寧に取り除いていた。「これを目立たなくしなければなりません」とデュマは続ける。「彼は、私たちが作品を損なうことなく行うことに同意しています」。
マディソン・アベニューと63rd ストリートにある、エルメスがメゾンと呼ぶ旗艦店の4階は、エルメスの象徴であるオレンジ色の箱の山で無造作に埋め尽くされ、多くはまだ包装されたままだった。香水、財布、口紅、ブレスレット、犬の首輪、ベルト、ネクタイ、スカーフなど、フランスなどから届いたばかりの商品を、スタッフが忙しそうに開梱している。数点のケリーバッグや、店の住所であるマディソン706番地が描かれた木製自転車など、この場所のためだけに作られた特別な品々もある。テープカットには、エルメスのファミリー85名と従業員150名が駆けつける予定だ。オープニング・パーティーでは、ブロードウェイ・ミュージカル「ラブ・アラウンド・ザ・ブロック」が上演されるという。
ネイビーのスラックスとセーター、レザーポケットのついたブレザーを着たデュマは、一族が経営する由緒ある会社に30年間勤め、ここ数十年で急成長を遂げたビューティやトラベルなどのクリエイティブ面を監督してきた。28年間、クリエイティブとビジネスの両面で会社を運営し、パリの伝統あるブランドをより国際的な視野を持つ会社へと変化させた父、ジャン=ルイ・デュマに代わり、2006年にアーティスティック・ディレクターに就任した。ピエール=アレクシィが勤め始めた当時、約2,000人だった従業員数は、今年の始めには18,428人となった。従兄弟であるアクセル・デュマは、2003年から2014年までCEOを務めたパトリック・トマの後を継いで、2013年にエルメスのCEOに就任した。ピエール=アレクシィもアクセルも、1837年に創業した馬具・鞍職人ティエリ・エルメスの子孫である。
ジャン=ルイ・デュマの時代から始まったことだが、エルメスは毎年テーマを発表し、レディースウェア、メンズウェア、シルク、フレグランスなど、さまざまな部門のデザイナーがそれぞれに解釈している。2022年のテーマは“Lightness”(軽やかさ)。過去のテーマは、“Innovation in the Making”、“In Pursuit of Hermès Dreams”、“Let's Play!”などだ。
2年前にテーマを決めるデュマは、その選び方について“考えない”ことだという。直感に頼ることを好むのだ。
早起きのデュマにとって、朝は神聖な時間だ。パリのオフィスまで45分、あるいは第二の故郷であるノルマンディーの海辺を歩くことを好む。「歩くと、脳が酸素をたくさん取り込むんです」と彼は言う。1日1回、一言だけメモをすることもある。テーマが浮かんだら、社内の哲学者アドリアン・バロット(「君の仕事は、あの椅子に座って本を読むことだ」とデュマは告げたそうだ)ら側近に持ち込んで、その可能性を議論することもある。
以前のエルメスの旗艦店はすぐ近くにあったが、8年半かけて作られたこの店は、20,500平方フィートと大きく立派なだけでなく、よりソフトでバラエティに富んだものとなっている。
「質感と素材感が戻ってきました」とデュマは、女性用ジュエリーのセクションにある特注のジャカード織りの壁布を指でなぞりながら語る。「コンセプチュアル・アートの世界ではアイデアが優先され素材が重視されなかったのに、突然、誰もが素材とクラフトを再発見するようになったのです」。確かに、細部にまでこだわった職人技を誇るエルメスだけに、象嵌細工を施したテラゾー床や大理石の大階段、造園家ミランダ・ブルックスが設計したニューイングランド原産の植物だけで埋め尽くされた屋上庭園、雪の日のエルメスのパリ本店(24 Rue du Faubourg)をイメージしたと言う手縫いの小さな窓付きの白いバーキンまで、どんなディテールも見落とせない。
「私たちは自然に逆らって仕事をするわけではありません」とデュマは語り、約200人のクリエーションに従事する社員を突き動かす原動力となっているのは、彼の信念だと説明する。「素材の本質を生かす。それは黄金律の一つであり、私は三つの黄金律を持っています」。
では他の二つは?という問いかけに対して、彼は答えた。
「黄金律の二つ目は、機能的な製品を作ることです」。そして、彼の曽祖父が馬具のデザインをしていたことにちなんで、こう付け加えた。「機能とは神聖なものです。私たちは、『馬が幸せになりますように』と唱えるのです」。
「そして三つ目は、純粋に共感することです。モノや建築が、あなたの心や感覚に与える影響を過小評価してはいけません。私たちは、自分たちが使用するエレベーターや階段、自転車といった乗り物から影響を受けます。それは神聖なものであり、語り継がれるべきものなのです。人間の身体に関わるものなのですから」。
オープニングには、マーサ・スチュワート、トリー・バーチ、ニッキー・ロスチャイルドなど、何百人ものゲストが新しい店舗を見て回り、カクテル、ワイン、シャンパンが振る舞われた。マディソン・アベニューの両側にある63rd ストリートは、この日のために近隣のレストランと同様に閉鎖され、数台のフードトラックが登場し、タコス、Junior'sのチーズケーキ、パイ、プレッツェル、神戸牛のハンバーガー、ホットドッグ、ポテトフライ、ダンプリング、ファラフェルなど、バラエティに富んだディナーを提供した。ゲストたちは各々、エルメスを身に着けて来場した。3部構成のミュージカルの後は、オレンジ色のspeakeasy(隠れ家バー)に変身した旧旗艦店で、DJとダンスが繰り広げられた。
「これほど多くのバーキンが、これほど多くのファラフェルに囲まれているのを見たことがない」と、このイベントのためにやってきたロンドンのインテリアデザイナー、シャーロット・レイは述べた。
イベント当日の朝、デュマは旗艦店のホームフロアにある小さなサイドルームに座っていた。そこには、バインダー入りの生地見本が木製の本棚に丹念に並べられていた。隣の壁には馬の絵がかかっている。コーヒーテーブルの上には、完璧な姿の胡蝶蘭が置かれ、店内が華やかになった。
彼は、“desire”(欲望)の語源を説明した。「“夜の道しるべとなる遠くの星を見たい”という願いが込められていました」。そしてこう続けた。「現代の私たちにとってこの言葉が意味するのは、消費した途端に何となく虚しくなってしまうような一時的な満足感ではなく、”人生に意味をもたらす物を手に入れたい”という願いであり、それはかつてないほど高まっているのです」と。
ニューヨークへの出店は、エルメスにとって「トラウマ」のようなものだったとデュマは言う。彼の祖父は1930年にニューヨークで店を開いたが、世界恐慌のために翌年には閉店せざるを得なかった。エルメスが再び独立した店舗を持つようになったのは1983年のことだ。2022年は世界的なインフレと差し迫った不況の恐怖に見舞われたが、今回、エルメスが二の足を踏むことはなかった。
パーティーに参加したニューヨークのアーティスト、クロエ・ワイズは訝しがった。「ファッションウィークでもアートバーゼルでもない時期に開くパーティーにこんなにお金をかけるなんて。正気の沙汰じゃないわ!」