ファッション界の帝王と称されるジョルジオ・アルマーニ。その自邸や愛蔵品に、彼の歩んできた軌跡や信念、そして映し出される素顔を垣間見る

BY LAURA MAY TODD, TRANSLATED BY CHIHARU ITAGAKI

 ファッション界で最も有名な存在であるジョルジオ・アルマーニ。彼は1934年、イタリア北部の街ピアチェンツァに生まれた。「10代の頃はファッション業界について何も知りませんでした。まだイタリアン・ファッションはブームになっていませんでしたから」と言う。医師になるため1953年にミラノ大学に入学するが、3 年後、陸軍入隊のため中退。その後、百貨店ラ・リナシェンテでショーウィンドウ装飾の職に就く。「ファッションに関わる最初の仕事はニノ・セルッティのもとで経験しました。彼は繊維工場の経営者で、自らのブランドも手がけていました」。長い間、工場で腕を磨き、生地制作を学んだ。ヴァレンティノやゼニアなどでも働き、1975年、公私にわたるパートナー、セルジオ・ガレオッティ(10年後に死去)とともに自らの名を冠したブランドを立ち上げる。

画像: 「1980年代、ミラノの当時のアトリエで撮影したもの。イヴ・サンローランのクロッキーを見ながら練習を重ね、やっとのことでスタイル画が描けるようになりました。サンローランのクロッキーはほかの誰のものより生き生きと躍動感に満ち、型破りに見えました。スタイル画を描くのは今も私の仕事の一部。コンピューターを使うより手描きでさっと仕上げるほうが好きです。生命力が感じられるし、それこそ私が服作りで追い求めているものだから」 COURTESY OF ARMANI

「1980年代、ミラノの当時のアトリエで撮影したもの。イヴ・サンローランのクロッキーを見ながら練習を重ね、やっとのことでスタイル画が描けるようになりました。サンローランのクロッキーはほかの誰のものより生き生きと躍動感に満ち、型破りに見えました。スタイル画を描くのは今も私の仕事の一部。コンピューターを使うより手描きでさっと仕上げるほうが好きです。生命力が感じられるし、それこそ私が服作りで追い求めているものだから」

COURTESY OF ARMANI

 最初に発表したのは、当時主流だった硬い裏地や大きな肩パッドを取り去った脱構築的なメンズジャケット。「私自身や私と似たタイプ、前時代的な堅苦しいフォーマルさをよしとしない男性に向けてデザインしたものでした」。自らが手がけた落ち感のある素材のジャケットや軽い着心地のスーツについて、「シルクやリネンはフェミニンな素材だと思われていた。私はその真逆を示して見せたのです」と語る。

 スーツは80年代のコスモポリタンのユニフォームとなり、彼自身も世界に知られる存在に。1981年、ミラノに旗艦店をオープン。今も彼はその場所に住む。アジアや北米にも進出し、1991年にアルマーニ エクスチェンジ、2000年にアルマーニ / カーザをスタート。ドバイとミラノにホテル、世界各地に20店以上のレストランを展開するに至った。

画像: 「ウディ・アレンの『アニー・ホール』(1977)のダイアン・キートンは素晴らしかった。とりわけ、そのマスキュリンな着こなしがね。アカデミー賞授賞式でも映画のような格好をするといいのでは、と彼女に提案したんです。ある意味で映画の世界と現実がつながっていると思えるからね。これは反響を呼びましたよ」 GETTYIMAGES

「ウディ・アレンの『アニー・ホール』(1977)のダイアン・キートンは素晴らしかった。とりわけ、そのマスキュリンな着こなしがね。アカデミー賞授賞式でも映画のような格好をするといいのでは、と彼女に提案したんです。ある意味で映画の世界と現実がつながっていると思えるからね。これは反響を呼びましたよ」

GETTYIMAGES

画像: 「『アメリカン・ジゴロ』(1980)は私のターニングポイントです。1979年の7月、ポール・シュレイダー監督と、当初、主役のジュリアン・ケイを演じる予定になっていたジョン・トラボルタがミラノにやってきたのです。取り組んでいた春夏コレクションのスケッチを見せると、監督はこれこそ自分の思い描いていた衣装そのものだと言いました。(最終的にジュリアン役を演じた)リチャード・ギアが彼一流の歩き方で服に命を吹き込んだ。ジャケットが彼の筋肉を強調し、パンツが脚の線をそっとなぞる。奇跡のような体験でした」 COURTESY OF ARMANI

「『アメリカン・ジゴロ』(1980)は私のターニングポイントです。1979年の7月、ポール・シュレイダー監督と、当初、主役のジュリアン・ケイを演じる予定になっていたジョン・トラボルタがミラノにやってきたのです。取り組んでいた春夏コレクションのスケッチを見せると、監督はこれこそ自分の思い描いていた衣装そのものだと言いました。(最終的にジュリアン役を演じた)リチャード・ギアが彼一流の歩き方で服に命を吹き込んだ。ジャケットが彼の筋肉を強調し、パンツが脚の線をそっとなぞる。奇跡のような体験でした」

COURTESY OF ARMANI

画像: 「1980年秋冬コレクションのスケッチ。心を落ち着かせる深く鮮やかなブルー。いつからなのか思い出せないほど長く、私はこの色を着続けている。現実的で、内気な性格に合っていると思います。いつも同じ色を着ているから仕事相手も助かるんじゃないかな。私が着ている服ではなく、私の言動に集中できるから」 COURTESY OF ARMANI

「1980年秋冬コレクションのスケッチ。心を落ち着かせる深く鮮やかなブルー。いつからなのか思い出せないほど長く、私はこの色を着続けている。現実的で、内気な性格に合っていると思います。いつも同じ色を着ているから仕事相手も助かるんじゃないかな。私が着ている服ではなく、私の言動に集中できるから」

COURTESY OF ARMANI

画像: 「若い頃は映画を観るのが唯一の気晴らしでした。黒澤明監督のことはよく耳にしていて、初めて観た作品は『影武者』(1980)。(写真の1981年秋冬コレクションは、この映画がモチーフに)。特に気に入ったのは戦闘シーンでしたが、詩的で厳格な作風と、柔らかく緻密な美的センスに感銘を受けました。すぐに、私自身の世界観と似ていることに気づきました。このコレクションは批評家からは絶賛されたけれど、世間の反応はいまひとつでしたね」 COURTESY OF ARMANI

「若い頃は映画を観るのが唯一の気晴らしでした。黒澤明監督のことはよく耳にしていて、初めて観た作品は『影武者』(1980)。(写真の1981年秋冬コレクションは、この映画がモチーフに)。特に気に入ったのは戦闘シーンでしたが、詩的で厳格な作風と、柔らかく緻密な美的センスに感銘を受けました。すぐに、私自身の世界観と似ていることに気づきました。このコレクションは批評家からは絶賛されたけれど、世間の反応はいまひとつでしたね」

COURTESY OF ARMANI

 現在、アルマーニは88歳。この帝国は最初から計画的に築かれたわけではないと彼は言う。「自分が今いる場所がどこであろうと、チャンスがきたらつかみ取りたいと思う。その衝動が今の私をつくり上げたのです」

画像: 「2023年春夏コレクションは鎧に着想を得ています。コルセットには日本の侍の甲冑の影響が。とはいえ作るのはドレスであってコスチュームではないので、すべてにおいて着心地のよさを考慮します。鮮やかな色使いは、喜多川歌麿へのオマージュです」 COURTESY OF ARMANI

「2023年春夏コレクションは鎧に着想を得ています。コルセットには日本の侍の甲冑の影響が。とはいえ作るのはドレスであってコスチュームではないので、すべてにおいて着心地のよさを考慮します。鮮やかな色使いは、喜多川歌麿へのオマージュです」

COURTESY OF ARMANI

画像: 「人づきあいを楽しむのと同じくらい、瞑想するのも好き。ここは私がひとりで考えるための場所。パンテッレリーア島にある自邸の一角です。猫が大好きで、ソファでくつろぐ幸せなひとときを共有する仲間。私もひとりでいることを好み、自由を愛し、他人が喜んでいるかどうかは気にしないタイプですから」 COURTESY OF ARMANI; RICHARD BRYANT

「人づきあいを楽しむのと同じくらい、瞑想するのも好き。ここは私がひとりで考えるための場所。パンテッレリーア島にある自邸の一角です。猫が大好きで、ソファでくつろぐ幸せなひとときを共有する仲間。私もひとりでいることを好み、自由を愛し、他人が喜んでいるかどうかは気にしないタイプですから」

COURTESY OF ARMANI; RICHARD BRYANT

画像: 「コレクターではないが、長年いろいろなオブジェを集めています。ジャン= ミシェル・フランクのデスクとアルマーニ / カーザの"ブルーム"ランプ、それに小さなアラバスター像や、外国のさまざまなオブジェなど。ミラノの仕事場には、たくさん物を置いておきたい。膨大な数の写真やドローイング、アントニオ・ロペスやフランチェスコ・クレメンテが描いた私のスケッチも飾ってあります。私の右腕であり信頼する友人でもあるレオ(・デロルコ)を描いた、お気に入りのイラストも。ピーター・ビアードの撮った写真と、ハーブ・リッツによるアルマーニのメンズウェアを着たミシェル・ファイファーのポートレートは贈り物です。この部屋の目玉は実物大のゴリラ像。名前はウリ」 COURTESY OF ARMANI;GIONATA XERRA

「コレクターではないが、長年いろいろなオブジェを集めています。ジャン= ミシェル・フランクのデスクとアルマーニ / カーザの"ブルーム"ランプ、それに小さなアラバスター像や、外国のさまざまなオブジェなど。ミラノの仕事場には、たくさん物を置いておきたい。膨大な数の写真やドローイング、アントニオ・ロペスやフランチェスコ・クレメンテが描いた私のスケッチも飾ってあります。私の右腕であり信頼する友人でもあるレオ(・デロルコ)を描いた、お気に入りのイラストも。ピーター・ビアードの撮った写真と、ハーブ・リッツによるアルマーニのメンズウェアを着たミシェル・ファイファーのポートレートは贈り物です。この部屋の目玉は実物大のゴリラ像。名前はウリ」

COURTESY OF ARMANI;GIONATA XERRA

画像: 右の少年がアルマーニ。兄、母とともに。「1940年代に父が撮ったもの。場所は私が育ったピアチェンツァを流れるポー川のほとりです。私の世界はわが家を中心に回る狭いものだったけれど、無限の可能性を秘めていました。外には未知の世界が広がっているように思えた。母は家族の要。元気で活動的で、勇気にあふれ、毎日を新しい視点で見ることのできる人でした。母から『less, but better(より少なく、しかしよりよく)』の精神を教わりました」 COURTESY OF ARMANI

右の少年がアルマーニ。兄、母とともに。「1940年代に父が撮ったもの。場所は私が育ったピアチェンツァを流れるポー川のほとりです。私の世界はわが家を中心に回る狭いものだったけれど、無限の可能性を秘めていました。外には未知の世界が広がっているように思えた。母は家族の要。元気で活動的で、勇気にあふれ、毎日を新しい視点で見ることのできる人でした。母から『less, but better(より少なく、しかしよりよく)』の精神を教わりました」

COURTESY OF ARMANI

画像: パンテッレリーア島の自邸近くで家族や友人たちに囲まれるアルマーニ。右端はエリック・クラプトン。「この写真のみんなの笑顔を見ていると、心から楽しい気分になります。1980年代の初め、友人を訪ねてこの島へ。最初は特に見どころのないさびれた島だと思いましたが、カラ・ガディール(同島内にある村)に行ったとき、私はまさに恋に落ちたのです。ダムーゾと呼ばれる、溶岩石を積み重ねて土と水の粘土で固めた、この地に特有の家屋が3つありました。私はそれらを買い取りました。今ではこの小さな建物は、私のための"島の中にある島"。ここにいるときはほとんど外出しません。地元のアイスクリーム店に寄るくらいです」 COURTESY OF ARMANI; RON GALELLA/RON GALELLA COLLECTION

パンテッレリーア島の自邸近くで家族や友人たちに囲まれるアルマーニ。右端はエリック・クラプトン。「この写真のみんなの笑顔を見ていると、心から楽しい気分になります。1980年代の初め、友人を訪ねてこの島へ。最初は特に見どころのないさびれた島だと思いましたが、カラ・ガディール(同島内にある村)に行ったとき、私はまさに恋に落ちたのです。ダムーゾと呼ばれる、溶岩石を積み重ねて土と水の粘土で固めた、この地に特有の家屋が3つありました。私はそれらを買い取りました。今ではこの小さな建物は、私のための"島の中にある島"。ここにいるときはほとんど外出しません。地元のアイスクリーム店に寄るくらいです」

COURTESY OF ARMANI; RON GALELLA/RON GALELLA COLLECTION

画像: 「2019年、京都の西陣で。着物は芸術性が高く、惹かれます。複雑な図柄には職人の卓越した技術が生かされている。私も着物を何枚か持っています。旅の醍醐味はその土地の文化に接すること。その点で京都は完璧。伝統的な日本らしさの象徴です。ぜひ路地を歩き、今もそこで修業を重ねる職人たちの姿を見つけてほしいですね」 COURTESY OF ARMANI;SHINTARO OKI

「2019年、京都の西陣で。着物は芸術性が高く、惹かれます。複雑な図柄には職人の卓越した技術が生かされている。私も着物を何枚か持っています。旅の醍醐味はその土地の文化に接すること。その点で京都は完璧。伝統的な日本らしさの象徴です。ぜひ路地を歩き、今もそこで修業を重ねる職人たちの姿を見つけてほしいですね」

COURTESY OF ARMANI;SHINTARO OKI

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