BY KOTARO KASHIWABARA

自家製豆腐の麻婆豆腐
山梨県は東京から近いことで損をしている観光地である。富士山や富士五湖、八ヶ岳など、インバウンド人気も抜群の観光資源を抱えているのだが、日帰りで楽しめてしまうから、観光客はなかなか宿泊してくれない。関西で言えば、奈良県や三重県なども同じような悩みを抱えている。
せっかく地方の名店に行くなら遠くに行ってみたい、と考える人は多いから、東京近郊というのはどうしても後回しになってしまうのだ。だが、実はそんなところにいい店ができ始めている。
北杜市のかつて宿場町として栄えた地域に位置する「Terroir 愛と胃袋」や、西湖のほとりにある「Restaurant SAI(レストラン サイ)」、忍野村に出来たオーベルジュ「nôtori(ノウトリ)」が代表例だが、さらにもうひとつ、隠れた中華の名店が甲府市にある。「NIGRAT(ニグラット)」である。

青森で生まれ育った加藤亮平オーナーシェフ
店主の加藤亮平さんは青森県生まれ。高校を卒業して調理師専門学校に入り、中華の道を志した。
「卒業後に中華を選んだ学生は1割くらいでしたが、中華包丁と中華鍋だけでなんでもできる料理ということが気に入りました。今もよかったと思っています。ライバルも少ないですしね」
いくつかの中国料理店を経て天王洲「天厨菜館」にいたとき、料理長だった山野辺仁さんに誘われ、いっしょに「銀座 やまの辺 江戸中華」の立ち上げに参画した。「やまの辺」はミシュランの星付き中華料理店までになり、加藤さんは二号店の料理長をまかされたが、コロナ禍の真っ最中の2021年に独立を果たした。

最初から一軒家、ワンオペで勝負
「山野辺さんはお客様の考えを第一にするシェフで、とても勉強になりました。銀座で独立するときに声をかけていただき、当初はふたりでカウンターに立っていました。でも僕自身は青森の田舎出身なので都会には馴染めず、最初から独立場所として東京は外しました。妻がベジタリアンだったので、最初はベジタリアンの聖地といわれる北杜市で探したのですが、さすがに無名の僕がやるのはむずかしいと判断。同じ山梨県なら、いちばん人口が多い甲府市を選んだんです」
最初から一軒家、ワンオペでスタートし、当初からアラカルトは置かず、コースだけ。昼も夜も同じメニューにした。
「あとから『思い切ったね』と言われましたが、お客様が一組でも入れば暮らせるように考えてコースオンリーにしました。コロナ禍だったため、東京に食べに行けないお客様がスタート直後から来てくださり、口コミで広げていただいたのが助かりました」

甘エビの海老オイルと一緒に出された花巻

スペシャリテのひとつ、甘エビの海老オイル
地方の料理店といえば地産地消、テロワールがまず思いつくが、加藤さんはそこまで極端にはしないようにしている。
「ワンオペなので余裕がないという事情もありますが、近所のお客様が多いので、逆に東京で培った料理が喜ばれたりもするんです。半々くらいが理想だと思いますが、県外からのお客様向けの100パーセント山梨食材コースはやってみたいと思っています」
当初は5,000円のコースも設けていたが、いまは9,460円(税込み)から仏跳牆(乾物を主体とする福建省の高級スープ料理)の入った38,500円(同)まで。一番注文をいただくのは16,500円(同)のコースだという。

イカの湯引きのネギソース

山梨県産野菜の酸辣湯
スペシャリテは海老の殻で作ったオイルを使った「甘エビの海老オイル」や、自家製豆腐の「麻婆豆腐」、「山梨野菜の塩炒め」など。入荷した食材で料理は臨機応変に変わるため、その日に作った料理はすべてメモし、次回来店時には重ならないようにしている。が、客は以前の料理をもう一度食べたいといって来店することも多いから、いまは悩み中だとか。私は今回、9,460円のコースをいただき、幸運にもスペシャリテをすべていただくことができたが、たしかに次回もぜひこれは食べたいと思っている。
山梨県は知事を筆頭にしてガストロノミーを推進しており、「やまなし美食コンソーシアム」や「やまなしグルマン・エコノミー会議」を開き、私も一度講演させていただいたことがある。加藤シェフも昨年秋には、東京「au deco」の掛川シェフと一夜限りの特別なコラボレーションを開催した。
「県がガストロノミーツーリズムに積極的なので、このときは山梨の食材だけを使ったコラボにしました。こういうイベントは今後もたくさんやりたいですね」

クラゲの黒酢ジュレかけ

山梨県産野菜の塩炒め
県外の客もだいぶ増えてきたいま、加藤さんはキッチンに弟子を迎え、新たなフェーズに入ろうとしている。
「まだ夢物語ではあるんですが、市内に気に入った物件がみつかったので、うまくいけばそこに移転し、当初の5,000円のコースも復活。そちらは二番手にまかせ、僕は高いコースだけに集中して『わざわざニグラットに行きたい』と思ってもらえるような店にしたいんですよね」

スペアリブの黒酢煮
加藤さんの料理は、軽やかななかに、しっかりと芯の通った、彼でしか作ることのできない哲学が見え隠れしている。たとえば「あわびと春雨、きのこの肝醤油いため」は、まさに絶品だった。

あわびと春雨、きのこの肝醤油いため

紹興酒プリン、シャインマスカット添え
先に挙げた店だけではなく、山梨県には都内で7年連続3つ星を取りながらも移転した日本料理「八ヶ岳えさき」や、2022年に開店し、10年後の2032年5月に閉店を予告している一日一組のフレンチ「TSUSHIMI」など、大御所のシェフの店も次々移転してきている。
彼らとともに学び、前進すれば、きっと加藤さんの思いは現実のものになるに違いない。いまのうちに要チェックの中国料理店である。
NIGRAT(ニグラット)
山梨県甲府市武田2-1-14
TEL. 080-7613-9774
公式サイトはこちら
柏原光太郎
ガストロノミープロデューサー。文藝春秋で「文春マルシェ」創設を経て、「日本ガストロノミー協会」会長、「食の熱中小学校」校長、「Luxury Japan Award 2024」審査委員などを務める。近著に『ニッポン美食立国論 ―時代はガストロノミーツーリズム』『東京いい店はやる店』。