デザイナーやアーティストたちが口々に讃え、 通う楽園が鹿児島にある。知的障がい者のための施設である。何が、人々をそこへ惹きつけるのか

BY RYOKO SASA, PHOTOGRAPHS BY RISAKU SUZUKI

 白いシャツに縫い込まれた色とりどりの糸は、印象派の画家が描く陽だまりを連想させる。上の写真の作品は、鹿児島市にある知的障がい者支援施設、しょうぶ学園の利用者と職員の手によるものだ。しょうぶ学園には現在、平均年齢50歳前後の利用者、148名が在籍している。施設は約9000㎡の広い森の中に建てられており、よく手入れされた庭はまるで自然公園のようだ。門扉がなく、地域住民にも開放されていることから、散策するためにここを訪れる人もいる。

画像: この世にひとつしかない芸術品。シャツはアート作品として展示されたあと、都内の ショップなどで販売される。しょうぶ学園から生み だされた作品には、デザイナーなど、各界著名人にも熱心なファンが多い。国内にとどまらず、ニュー ヨークの美術館や、台湾、韓国など世界各国からツアーを組んで多くの人が視察に学園を訪れる

この世にひとつしかない芸術品。シャツはアート作品として展示されたあと、都内の ショップなどで販売される。しょうぶ学園から生み だされた作品には、デザイナーなど、各界著名人にも熱心なファンが多い。国内にとどまらず、ニュー ヨークの美術館や、台湾、韓国など世界各国からツアーを組んで多くの人が視察に学園を訪れる

 しょうぶ学園では自立支援事業の一環として、さまざまな作品を制作して販売している。シャツ制作もその取り組みのひとつだ。利用者が刺しゅうをし、さらに職員がミシンステッチを絡めて、世界に一枚だけのシャツを作り上げる。ある作品には雨だれに似た刺しゅうが、別の作品には鳥の羽毛のように白い刺しゅうが、びっしりとあしらわれている。

 シャツを一枚仕上げるのに、短くて5カ月、長いときには4、5年かかることもあるという。無数に縫い込まれた針目を見ると、いったいこの根気強さはどこからくるのだろう、と多くの人が不思議に思うのではないだろうか。「展示会を開くので、作品をたくさんためておかなければならないんですが、見学に来る方から、『どうしても譲ってくれ』と言われて、困ってしまうことが多いですね」と職員のひとりは笑う。

 しょうぶ学園には、陶芸、木工、和紙などの工房があり、最近、園芸部門も立ち上げられた。われわれがまず取材に訪れたのは布の工房だ。ここでの刺しゅうや布を使った取り組みは、nui projectとして多くの才能を発掘している。明るく広い室内では、この日23名の利用者が作品に向き合っていた。

画像: さまざまな作品が生まれるアトリエ工房 (写真左)残滓を用いて丹念な刺しゅうを施す、野間口桂介 (写真右)溝口 ゆかりの糸玉。カラフルな糸を丸めて作った塊には、生みだされることが必然のような力強い生命力が宿っている

さまざまな作品が生まれるアトリエ工房
(写真左)残滓を用いて丹念な刺しゅうを施す、野間口桂介
(写真右)溝口 ゆかりの糸玉。カラフルな糸を丸めて作った塊には、生みだされることが必然のような力強い生命力が宿っている

 おのおのが好きな作業にいそしんでいるが、ひとりひとりに確固とした仕事の進め方があり、彼らはそれに忠実にのっとっている。

 野間口桂介は、密度の高い刺しゅうを、隙間なく施す。彼の頭の中で配色はあらかじめ決まっており、仲間の捨てた短い糸を拾い集めて、それを丹念につなぎ合わせていくという。溝口ゆかりは、勢いよく糸巻から糸をほどくと、クシャクシャに丸めて玉を作り、その上から糸を執拗に刺していく。糸はランダムに組み合わされ、その鮮やかな配色に目を奪われるが、溝口がなぜそれを作り続けるのかを説明するのは、本人にも職員にも容易なことではない。そこで糸玉は、まるで雨期に原生林の下草が萌え出るごとく、それ自体に生命が宿り、意思をもって生まれてくるように見える。

「利用者は10年も20年も同じ作業をしている。これからも同じことを繰り返して毎日を過ごし、年をとって、ここで一生を終える人も多いです」と語るのはしょうぶ学園の施設長、福森伸だ。「“健常者”はたいてい商品にしようとか、絵画を一枚描きあげようとか、目標に向かって努力をしますよね。でも、考えてみれば完成形なんて、頭の中にある幻にすぎず、実際はどこにも存在しない。だから僕らはいつも不満足なんです。でも、彼らは違う。彼らの行為は完成しないし、何も目指していない。ただ刺しゅうをし、ただ糸を丸めるという行為をしているんです。

『根気強いですね』と見に来た人に、よく声をかけられますが、それは違うと思いますね。根気という言葉には、どこかに努力というつらさが漂っているものですが、彼らにはそういうものはない。『ただ行為をすることになっているから、する』。そこに意味を見いだそうとはしていないんです。僕ら職員は、『この作品は、いくらになるかな』とか、『どう評価されるだろう?』とか、すぐによこしまなことを考えるでしょう? でも、彼らの表現行為は、とても純粋なんですよ」

 福森は、「完成のかなしみ」という言葉で、彼らの行為を表現する。「僕は作品が完成すると喜びを感じます。でも、それまでの過程はとても苦しい。必死の形相で歯を食いしばり、つらいことにも耐えて頑張る。でも、利用者は逆で、完成してしまうととても悲しそうな顔をするんです。なぜなら、彼らは作業がうれしくて、完成はその終わりだから。彼らはでき上がってしまった作品には、何の興味も示さない。作品のいくつかは美術館に展示され、人々に讃えられますが、それを見て不思議そうな顔をしますよね。果たしてクリエイターとして、どちらがまっとうでしょうね」
 
 利用者は人の視線に影響を受けず、ぶれることがない、自分自身であることに対して、ひたむきで真摯である。「“健常者”よりはるかに、人の目から自立している」。そう福森は彼らを評する。 画家・野見山暁治は、福森との対談でアウトサイダーアートについて語った際に、「自分は、見る人の目を意識 しないで、絵を描くだろうか」と自問する。「無人島に行ったとして、果たして自分は絵を描くか、疑問だね。でも、この人たちは、誰も見ていなくても構わない。無人島 でもきっと描いているよね」。人間が芸術というものを求める、奥深い何かがそこにはあるのではないか。だから惹きつけられるのだ、そのようなことを野見山は述べている。

画像: 吉本篤史の作品。衣服を破ったり、ほどいたりすることで生まれた糸と布が、一定の秩序をもとに配列され、繊細で美しい空間を生みだしている。彼の作品は美術館に展示された

吉本篤史の作品。衣服を破ったり、ほどいたりすることで生まれた糸と布が、一定の秩序をもとに配列され、繊細で美しい空間を生みだしている。彼の作品は美術館に展示された

 利用者の手技は、自然界の営みを連想させる。自然は人の視線がなくても存在しつづけ、手を抜くことがない。誰も足を踏み入れないような深い森にあっても、すべての葉は異なる姿をしており、雪は誰に見られていなくても、精緻な細工が施されている。

 利用者の生みだす作品は、それとよく似ている。彼らは指先で森羅万象を描きだすが、それだけでなく、人間の存在そのものが森羅万象なのだと思い起こさせてくれる。多くの人々が彼らの作品に魅了されるのも、自分たちの生命もやはり自然の一部であることを思い出すからではないだろうか。
「作家」と呼ばれる人の中に、吉本篤史がいる。彼は靴下などの衣類の糸をひたすらほどき、分解し、それ を彼の心の中にある配置にしたがって、延々と並べていく。部屋いっぱいに埋め尽くされた糸の細かな模様は、思いもよらぬ美しさをもっており、ほかのしょうぶ学園の作品とともに、昨年の秋、東京都美術館に展示された。

「彼の衣類や靴下をほどく行為は、この学園に来るまで、問題行動とみなされていました。しかし、それを障がいと見るか、美と見るかで価値は変わってくるんです」 
 この言葉には福森の試行錯誤の歴史が込められている。

 順子は、このとき悟ったのだ。
「私ね、小さい頃はお裁縫が好きで、よくスカートなどを自分で縫っていました。でも母は洋裁のプロで、自己流でやろうとすると、型紙どおりのきちんとしたものを作れと注意されてしまうんです。母なりの教育だったんでしょうけど、しだいにうまくできない自分に嫌気がさして、布にさわらなくなっちゃったのね。型にはめられるのが嫌だったし、もっと自由にやりたかった。だから人に自分の価値観を押しつけるのだけはやめようと思っていたの。ところが、利用者を社会に適応させようと必死になっているうちに、頑張りすぎてしまったみたいね」

 順子が目を留めたのは、利用者が好き勝手に刺した糸の塊だった。色とりどりの糸は絡まりあい、もつれ、刺しすぎて固くなっている。しかし順子はそれを拾いあげて福森に言った。「でもこれ、何だか面白いじゃない?」
 福森が就職して10年の歳月がたとうとしていた。彼はこのとき、順子の言葉で目を開かされた。
「障がいと呼ぶか、美と呼ぶか」。釘で執拗に穴を開けられた木版は、職員がトレーとしてしつらえ、のこぎりの傷はアートになった。

 彼らの作品は面白いと口コミで評判になった。利用者が素材を作り、職員が加工して商品にする。そう決めると、今度はそれが職員にとってのチャレンジとなった。介護や福祉の専門家も、ここではクラフト作品を作り、植物を育てる。「職員たちは、福祉施設に就職して、なんで専門外のことをやらされるんだと思ったでしょうね」と福森は笑う。「しかし、それがいいんです。できないことをすることで気づくことがある」

 1997年にパン工房をオープンさせ、2008年パスタ&カフェを開業、現在はそば屋も軒を連ねる。ここでは、職員がパスタをゆで、そばを打つ。パンの生地については、ベテランの利用者が、新入りの職員に仕事のやり方を教えることもあるという。

 丁寧に、ゆっくりと接客をする利用者のリズムが、訪れる人の心を和ませる。その穏やかな雰囲気と、本物の素材を使った質の高い料理が、地域の人々に受け入れられた。おいしいものを求めて園内に人が訪れると、それが地域に開かれた風通しのいい施設を作る一助になった。自立といえば、障がい者が一般社会に出ていくことを連想しがちだが、ここでは社会が施設に入ってくる。「福祉に甘えず、ビジネスとして成立しなければならない。これだけは負けないという一芸で勝負してきましたが、お客さんに飽きられないように、今後どう展開していくのかが課題ですね」と職員は言う。

画像: (写真左)パン工房「ポンピ堂」の前に掲げられる看板。ここで働いている伊藤勇二が、天気のこと、身のまわりのこと、世間で話題になっていることなどを、店が開店する前に、毎日丁寧に、ユーモアあふれる文章を綴っている。最近気になっているのはAKBとLED。黒板は写真に収められ、一冊の書籍になった (写真右)人気のパンには固定客がついていて、すぐに売り切れてしまう。粉は熊本産

(写真左)パン工房「ポンピ堂」の前に掲げられる看板。ここで働いている伊藤勇二が、天気のこと、身のまわりのこと、世間で話題になっていることなどを、店が開店する前に、毎日丁寧に、ユーモアあふれる文章を綴っている。最近気になっているのはAKBとLED。黒板は写真に収められ、一冊の書籍になった
(写真右)人気のパンには固定客がついていて、すぐに売り切れてしまう。粉は熊本産

画像: 障害者と職員がともに働く店内。丁寧でゆったりとした接客が、穏やかな空間をつくり出す

障害者と職員がともに働く店内。丁寧でゆったりとした接客が、穏やかな空間をつくり出す

画像: 新人の職員がパスタ作りの修業中

新人の職員がパスタ作りの修業中

画像: 2011年、そば屋もオープン。長野県産の石臼挽きそば粉を使った本格的なそば屋『凡太』もオープン。施設長の福森もそば打ち修業をした。「食は生活に欠かせないもの。いろいろな方法で人が来ればいいんじゃないかな。どうして人が集まってくるのかなと考えると、幸福に近づくために来るんじゃないかと思いますね」。写真は、定食と野菜天ぷら。できるだけ有機栽培の上質な素材を厳選し、丁寧に誠実に調理する

2011年、そば屋もオープン。長野県産の石臼挽きそば粉を使った本格的なそば屋『凡太』もオープン。施設長の福森もそば打ち修業をした。「食は生活に欠かせないもの。いろいろな方法で人が来ればいいんじゃないかな。どうして人が集まってくるのかなと考えると、幸福に近づくために来るんじゃないかと思いますね」。写真は、定食と野菜天ぷら。できるだけ有機栽培の上質な素材を厳選し、丁寧に誠実に調理する

 いろいろな取り組みがなされているしょうぶ学園だが、ここで生みだされたある音楽が、世の中を驚かせた。2012年、女優、広末涼子の出演するCMで不思議な楽曲が流れたのをご記憶だろうか。そのクレジットには、otto &orabu(しょうぶ学園)と記されていた。「あの、ちょっと不気味だけど、心に残る音楽は何?」とたちまちネット上で話題になった。これは、しょうぶ学園の利用者と職員のパーカッショングループottoと職員たちの叫び隊orabuによる演奏だったのだ。 利用者たちは打楽器で職員の奏でる旋律に合わせてリズムを刻む。だが、どうしてもズレてしまう。 福森は言う。「彼らにズレるなと言っても無理なんですよ。でも、ちょっとズレると、カッコよくて面白い。彼らはズレる天才です」

画像: 福森 伸と、パーカッショングループotto & orabuの練習風景。福森が口ずさむメロディラインを、音楽経験がある職員が音符に書き起こす。演奏にも職員が参加。「職員は恥ずかしがるし、緊張します。職員が自意識を取っ払うことや、人のリズムに合わせるのをやめることも難しい。たまたま僕らはマジョリティだから健常者と呼ばれているだけで、利用者から見れば、僕らのほうが障がい者かもしれません。社会規範という枠の中に閉じ込められ、そこからはみ出せないという障がいですね」

福森 伸と、パーカッショングループotto & orabuの練習風景。福森が口ずさむメロディラインを、音楽経験がある職員が音符に書き起こす。演奏にも職員が参加。「職員は恥ずかしがるし、緊張します。職員が自意識を取っ払うことや、人のリズムに合わせるのをやめることも難しい。たまたま僕らはマジョリティだから健常者と呼ばれているだけで、利用者から見れば、僕らのほうが障がい者かもしれません。社会規範という枠の中に閉じ込められ、そこからはみ出せないという障がいですね」

 彼らのリハーサルを見学させてもらった。「ワン、トゥ、スリー、フォー!」。福森が合図を出すと、不穏な、少し物悲しい、潜在意識から揺さぶられるような音が、彼らの手もとからやってくる。マラカスは、シャン、シャン、シャン、と一定のリズムを保ち、バリの打楽器がうねるような音を響かせ、ブリキのバケツは雨音のように打ち鳴らされる。職員たちによる叫び隊が、獣のような声を上げた。

 しょうぶ学園の園長室には、順子の作った「穴掘り人形」が飾ってある。職員がデザインしたものだ。
 昔、こんな利用者がいた。庭に残飯を埋めるために、職員が彼に穴を掘ってほしいと頼んだところ、彼は黙々と穴を掘り始めた。だが、うっかりして職員は「終わり」と告げるのを忘れてしまったという。昼になっても彼は現れない。慌てて迎えにいくと、彼は、まだ延々と作業を続け、背丈がすっぽり埋まるぐらいまで掘っていたというのだ。福森は、それが忘れられない。そして、これこそが自分たちの理想形なのではないかと考えている。幸せとは、自分以外の何者かになろうとすることや、どこか彼方を目指すものではない。愚直に自分自身でありつづけること、もっと自分自身を深化させることだと彼は言う。「まず、自分自身の足もとを掘れ」。穴掘り人形は、そんなメッセージを伝えているようにみえる。

画像: (写真左)福森 伸 (写真右)穴掘り人形

(写真左)福森 伸
(写真右)穴掘り人形

 個性を美しさとして見るといっても、生きていくのは、きれいごとではすまされない。彼の理想とすることが、目に映る以上の困難を伴うことは、障がいがある人や家族なら、身に染みて知っていることだろう。だが、利用者が自分をまっとうする姿には、社会の型にはまった人にはない魅力がある。そこで、私たちは気づくのだ。社会に合わせることの生きづらさにばかり目を向けるのではなく、個性という限りない自由にも敬意を払うべきだと。自由という言葉は、もともと己に由よるという語源をもつ。他者に寄ろうとすることなく、自分を軸にすることのヒントが、しょうぶ学園には隠されている。 

画像: しょうぶ学園の芝生広場。しょうぶ学園は鹿児島市内から車で30分ほどの高台にある。園内には、美しい森が広がり、たくさんの鳥のさえずりが聞こえてくる。中庭の大きな 木にはツリーハウスがしつらえられ、その脇ではロバ1頭と、羊2頭がの どかに餌を食んでいた。施設内には工房、ギャラリー、宿泊棟も併設されており、建物のところどころに利用者の創作したデザインがあしらわれ、芸術的な空間を作りだしている。2013年には学園のさまざまな取り組みが 評価され、「新しい福祉デザイン」でグッドデザイン賞を受賞

しょうぶ学園の芝生広場。しょうぶ学園は鹿児島市内から車で30分ほどの高台にある。園内には、美しい森が広がり、たくさんの鳥のさえずりが聞こえてくる。中庭の大きな 木にはツリーハウスがしつらえられ、その脇ではロバ1頭と、羊2頭がの どかに餌を食んでいた。施設内には工房、ギャラリー、宿泊棟も併設されており、建物のところどころに利用者の創作したデザインがあしらわれ、芸術的な空間を作りだしている。2013年には学園のさまざまな取り組みが 評価され、「新しい福祉デザイン」でグッドデザイン賞を受賞

 彼らのリズムはひたすらズレ、強烈な個性を保ちながら、渦を巻くようにしてひとつになっていく。トランス状態になった利用者が、ひらひらと舞い始めた。誰ひとり同じ人はいない。完璧な人間も、すべてが正しい人もいない。誰でもどこかが欠けている。だが、それが渾然となって溶け合い、演者も聴き手もひとつになる。やがて高みに昇った音はクライマックスに至り、福森のタクトが振り下ろされるのを合図に唐突に終わった。

 しばらくの沈黙のあと、観衆からため息が漏れ、遅れて拍手と歓声が沸き上がる。
 福森は少年のように笑うと、声を上げてこう言った。「まいった! アイツら、めちゃくちゃカッコいい!」

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