BY NANCY HASS, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
現代のアートフェアと同じように、公開された芸術作品は、シェノー、作家で美術評論家のエドモン・ド・ゴンクール、美術誌『ガゼット・デ・ボザール』の編集長ルイ・ゴンスなど、アートディーラーや影響力のある批評家からなる強力なネットワークによって選出されていた。日本の骨董品は、パリのリヴォリ通りでルイーズ・ドゥソワが営む「E.Desoye」などで入手できた。この店は日本美術について語り合える気軽なサロンでもあり、詩人シャルル・ボードレール、ラファエル前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、社交界の肖像画家ジェームズ・ティソなどがつどっていたらしい。
後に「フォッシュ大通り」と呼ばれる通りに豪華な邸宅を構えたティソは、室内を贅沢な友禅染の絹や、1869~70年頃の彼の作品《日本の品々を眺める娘たち》に描かれている花瓶などで飾っていた(ちなみに日本文化の真髄を捉えずに、単に画中に日本の小物を描いただけの作品は、批評家から<ジャポネズリー>と呼ばれ揶揄されていた)。「日本美術は影によって存在を、断片によって全体を暗示する」と述べたモネのジヴェルニーの家には、E.Desoyeで入手した数多の木版画と磁器が飾られていた。彼は1893年に日本風のウォーターガーデンを設け、藤で覆われた橋、竹が生い茂る池、夏に咲き誇る睡蓮を眺めながら、代表的な連作を手がけた。こうしてモネは、フランスの風景画の堅苦しい形式美から脱却したのである。
だが日本美術をジャポニスムに発展させただけでなく、さらにそれを当時始動したばかりのモダニズムにまで結びつけた人物がいた。ドイツに生まれ、パリを拠点にしていた美術商ジークフリート・ビングだ。印象派を世に広めたパリ生まれのポール・デュラン=リュエルや、その約70年後にニューヨークで活躍したイタリア系アメリカ人レオ・カステリなどの画商と同様に、ビングは自らの審美眼と野心で、大規模な事業を展開させていた。
パリ9区に構えたビングの店には、横浜に住む弟オーギュストから仕入れた、18~19世紀の日本の工芸品が並んでいた。ビングの店で働いていたマリー・ノルドリンガーの友人だったマルセル・プルーストは、彼女に見せてもらった日本のオブジェの素晴らしさに感嘆していたという。若き日のゴッホもこの店で何百枚もの浮世絵を購入し、作品のインスピレーションソースにしていた。
そして1888年、ビングは「工業化がフランスと世界に招いた、品質の劣悪化を食い止めなくては」と思い立ち、極めて美しく影響力のある雑誌を創刊しようと決意する。こうして生まれた月刊誌『LE JAPON ARTISTIQUE(芸術の日本)』は日本の芸術とデザイン、詩、建築、演劇などをテーマに、1891年まで36号発行された(その中で、批評家のアルフレッド・ルキューは『歌舞伎の花道こそ、保守的なフランスの劇作家たちが欲していた"打開策"になるだろう』と論じている)。この雑誌はあらゆる業界の人々にとってのインスピレーションソースとなった。「カルティエ」創設者の孫で宝石細工師のルイ・カルティエは、この中で見た藤の絵をもとに、ダイヤモンドを房のように集めて飾った一連のジュエリーを提案した。廃刊してから15年後の1906年、グスタフ・クリムトは同誌の全バックナンバーを入手している。
しかし、1900年代初頭には、ジャポニスムへの惑溺はすでに薄らいでいた。売れ行き重視の、万人受けする製品を作りすぎたのだ。日本人自らもヨーロッパの嗜好に合わせた粗悪品を輸出したことで、伝統工芸品本来の優美さを損なわせてしまった。そのかたわらでは"文化の逆盗用"、または"文化の異種交配"がもたらした新しい芸術運動が芽生え始めていた。ひとつが20世紀初頭の<新版画運動>で、主題は浮世絵と同じだが、印象派風の色使いで光と影を叙情的に描くという新しい動向だ。もう一方が<創作版画運動>で、浮世絵の分業システムを放棄し、ヨーロッパのアーティストと同様に<自画・自刻・自摺>を実践するものだった。つまり、浮世絵などの影響でようやくフランス人が、芸術家とデザイナーの区別について考え始め、職人の貢献度と地位を高めようとしていた頃、日本の版画家たちは西洋美術の、厳格なヒエラルキーやすべてを個人で創作する概念を取り入れていたということになる。
1895年までに、ビングも新たにデザインの世界に身を投じ、パリのプロヴァンス通りにあった店を「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」に改名する。そこで彼は、動植物のテーマや曲線、大胆なアシンメトリーといった日本美術の伝統を基盤に、美術装飾のグローバル化、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動(註:手工業の復興を目指す運動)などを反映したスタイルを提案した。さらにビングは、1900年のパリ万博で自らのパビリオンを出店し、波のようにうねったカーブや、木や鋼のつややかな表面が印象的なアール・ヌーヴォー様式を世界に向けて発信した(その5年後に彼は67歳で亡くなった)。このパビリオンこそ、彼が日本とフランスの理論家(そのひとりが形態と機能に関する著作を残した建築家・建築理論家ウジェーヌ=エマニュエル・ヴィオレ=ル=デュク。後年になって米モダニズムの建築家ルイス・サリヴァンにも影響を与えている)から学んだ「装飾芸術とデザインは、絵画や彫刻と同じ重要性がある」という考えを広めるのにうってつけの場所だった。
20世紀の黎明期に、ジャポニスムとアール・ヌーヴォーにアール・デコ、さらにモダニズムにいたるすべての流れを融合させた最も鮮やかな作品を生んだのは、家具デザイナーで建築家のアイリーン・グレイだろう。第一次世界大戦後、丸みのあるチューブを重ねたチェア《ビべンダム》(1920年代作)など、モダニズムのアイコンと呼べる作品を創ったことで有名だが、彼女には漆芸に没頭していた時期がある。1907年、28歳でフランスに移住してすぐにグレイは漆の魅力にはまり、同年、日本から出稼ぎに来ていた職人のひとり、漆芸家の菅原精造と知り合った。漆芸を通して彼女は同じ20代だった菅原と20年にわたる交流をつづけ、大型屛風の一連を何年もかけて共同制作した。
漆芸の技法は伝統に従ったものだが、スタイルは日本の屛風のように何かを比喩するものでも、フランスのジャポニストが創り上げた日本趣味でもない。多くは抽象的、幾何学的で、なかには金属の軸で連結した複数の四角い漆塗りのパネルが回転する、多次元的な彫刻のような屛風もあった。トリニティ・カレッジ・ダブリンの日本美術史家ルース・スターによると、グレイは「どんなに困難であろうと日本美術の最も純粋な表現手段を用いて、現代への架け橋となる作品を創ろうと固く決意していた」という。
だがヨーロッパで第一次世界大戦の戦火が広がるにつれて、こうした情熱的な創作活動は中断されてしまう。大戦後、有機的な曲線が美しい、夢幻的なアール・ヌーヴォーは影を潜め、フランスでは(続いて世界で)、アール・デコ(1925年開催のパリ万博はアール・デコ博とも呼ばれ、これが装飾様式名にもなった)様式が広がった。未来的で幾何学的なデザインが特徴で、1930年完成のクライスラービルや、ヨーロッパの家庭の居間を飾ったドーム型ラジオがその代表例だ。それは暗に「機械化と、機械による大量生産に適した合理的なデザイン」を賛美する様式でもあった。一流のアール・デコ作品は手作業で創られていたが、かつてのように創り手の跡や傷は残さず、クロムメッキやラッカー塗装でなめらかな表面に仕上げられていた。
アール・デコにもアジア的な要素は多く含まれていたが、日本よりも、ドラゴンやパゴダ(仏塔)、唐獅子といった中国に由来するものが主流だった。1911年の辛亥革命後、皇帝政治が終わりを告げ、共和政国家を樹立した中国の文化が再び世界的な注目を集めていたのである。またアジアの工芸美術品を展示するために、1889年にパリに開館したギメ東洋美術館をはじめ、フランスに複数の博物館が造られ、職人たちは理想をもとに創り上げた“オリエンタリズム”に頼らず、実物を目にできるようになった。日本の開国後、船の旅は容易になり、カルティエをはじめ、各メゾンはその代表者をアジア諸国に派遣し始めていた。