メアリー・マッティングリーが創造するのは、社会と積極的に関わり、変革をもたらすアートだ。それは絵空事のようなプロジェクトにも見えるが、現在進行形で街を住みよい方向に変えていく起爆力があり、気候災害の危機に瀕しているニューヨークの天候を好転させるかもしれない

BY ZOС LESCAZE, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

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 子どもだった頃ですら、マッティングリーは水位上昇の光景を夜、夢に見るほどだった。ニューヨークから車で3時間ほど北にある、コネチカット州ソマーズの洪水多発地域の田舎町で育った彼女は、自宅の地下室が洪水の被害を受けるたびに水をかき出していた。自宅の周囲は農地に囲まれており、地域のタバコ畑で使用された殺虫剤によって彼女の自宅の水道水も汚染されてしまった。その結果、家族は、ボトル容器に入った水を購入しなければならなかった。さらにマッティングリーは都会と郊外の関係についても肌で学んだ。彼女が住む地域で収穫された農作物の恩恵を受けるのは、都会人だった。「都会のゴミが運ばれてきて、私たちの近くの町に捨てられるのを見た。もし都会がもう少し自分の面倒を自分で見られるようになれば、ほかの地域の環境破壊が少なくてすむはずだという考えが、いつも私の頭の中にあった」と彼女は言う。

 3人きょうだいの長女であるマッティングリーは、よくきょうだいと家の屋根の上から飛び降りて、近所のタバコ畑の中を走った。農場の主が、勝手に畑に入ってくる子どもたちに向けて警告する意味で銃を撃つまで、誰が一番遠くまで畑の中を走れるかを競った。彼女の母は検眼医のもとで働いていた。父はハートフォード・クーラント紙(註:コネチカット州の新聞社で、現存する米新聞社の中では最古)でグラフィック・デザイナーとして働いていたが、病気で長期入院し、仕事を失った。病から回復した父は、小さなデザイン事務所を開設し、絵を描き始めた。時々は作品が売れることもあった。「ちょうどお金がなくなる頃に絵が売れるという感じだった」と彼女は回想する。生活に余裕はなかったが、この経験を通し、彼女は、必ずしも伝統的なフルタイムの職に就かなくても、生活していくことはできるのだと学んだ。ティーンエイジャーになると、彼女は廃屋になっていた製粉所でダンスパーティを開いた。ボストンで数年過ごしたあとに東海岸を離れ、オレゴン州のポートランドにあるパシフィック・ノースウェスト・カレッジ・オブ・アートで写真を学んだ。

 2000年に、彼女の価値観を大きく変える出来事が起きた。ボリビアの都市コチャバンバで、政府当局が地方自治体の水道局を民営化したとたん、住民たちの水道料金は大幅に値上がりした。結果、大規模な反対デモが起きた。コチャバンバの水を巡る闘いは、マッティングリーにとっては他人事ではなかった。はるか遠方の人権侵害の危機という話ではなく、自分の住む場所でも簡単に起こりうる出来事だったのだ。「あのとき、私は『これは米国の未来だ。私たちにもこれと同じ問題が起こるだろう』と思った」と彼女は語る。マッティングリーは、気候破壊と災害によって住む場所を失った孤独な放浪者を想像してみた。彼らが身にまとっている布がシェルターとして機能し、ひとりひとりが荒れ果てた土地でサバイバルする姿を──そしてその布こそが、ポスト消費社会における究極の商材なのではないかと。その考えから生まれたのが、彼女の最初の大作となった《ウェアラブル・ホームズ》(2001年~’05年)だ。衣服の中にハンモック、水を濾過する装置、着用者の動きで充電できるバッテリーなどが内蔵されている。さらにこの服には、GPSナビゲーションの機能を備えた衛星センサーや、1カ月分の精神安定剤が入ったポケットもついている。水に浮くデバイスがついているタイプや、赤ちゃんを入れる袋つきの服も作った。

 マッティングリーは《ウェアラブル・ホームズ》を作るだけでは満足せず、この作品が機能的であることを望んだ。性能をテストするために、当時、彼女はこのスーツを実際に着て、オレゴン州のフォッシル近郊の砂漠で何週間かキャンプをして過ごした。「記録をとるためにそうした」と彼女は言う。「それと同時に、いつか私たちはこんなふうに生活しなければならなくなると、本気で思っていたから」。このプロジェクトに没頭するにつれ、彼女の中で、アートと現実の境界線は次第に薄れていった。「自分が設定したシナリオと、実生活の違いが本当にわからなくなってしまった」と彼女は言う。

 マッティングリーは、このプロジェクトの期間中に撮影した写真を、2006年にニューヨークのロバート・マン・ギャラリーで発表した。それは彼女にとって初めての大きな個展だった。「写真は大人気だった──そして、そのことが私にはすごく不快だった」と彼女は言う。この作品は単純すぎたのだ、と彼女は気づいた。終末的な壊滅後の世界を描いた映画に慣れ親しんでいる観客たちにとって、この作品は居心地がよすぎたのだと。ギャラリー側はマッティングリーに同じような作品を作ってほしいと要望したが、彼女いわく「作品を大量生産すること」には気が乗らなかった。「もう手応えを感じなかった」と彼女はつけ加えた。「それはすでにひとつの手順になってしまっていた。私はもっと挑戦したかった」

画像: 《House and Universe: For a Week Without Speaking(家と宇宙:1週間誰とも話さない)》(2012年)は、マッティングリーの家財道具すべてをひとつにまとめて撮影した写真シリーズのうちの1枚 MARY MATTINGLY, “HOUSE AND UNIVERSE:FOR A WEEK WITHOUT SPEAKING,” 2012, C-PRINT, COURTESY OF THE ARTIST

《House and Universe: For a Week Without Speaking(家と宇宙:1週間誰とも話さない)》(2012年)は、マッティングリーの家財道具すべてをひとつにまとめて撮影した写真シリーズのうちの1枚
MARY MATTINGLY, “HOUSE AND UNIVERSE:FOR A WEEK WITHOUT SPEAKING,” 2012, C-PRINT, COURTESY OF THE ARTIST

 さらに手頃な家賃で住める場所も必要だった。マッティングリーは2001年にニューヨークに引っ越し、アパートメントとスタジオの両方の家賃を払うには、あまりにも長い時間をアルバイトに費やす必要があることに気づいた。そこで、合理主義とファンタジーを絶妙に掛け合わせて、たどり着いた問題解決方法のひとつが《ウォーターポッド》だった。マッティングリー自身がそこに住んで働くことができる水上の生態系だ。彼女はパブリック・アート組織団体のクリエイティブ・タイムで当時ディレクターを務めていたアンネ・パステルナークにその構想を話して、彼女の意見を聞いた。パステルナークは、マッティングリー以外のアーティストが市内の川や海の上に住んでいないのには、それなりの理由があることをやさしく指摘しつつ、彼女に合衆国沿岸警備隊に連絡してみてはどうかと伝えた。マッティングリーは実際に沿岸警備隊に連絡を取った。先方の担当者は迷惑そうだったが、同時に興味をそそられている様子だった。そして信じられないことに、沿岸警備隊は、彼女と面会することに同意し、結果的には彼女のプロジェクトを支援したのだ。

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