BY MICHAEL SNYDER, ARTWORK BY VICTOR SIRET, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
フランス西部の都市、ナント出身のアーティスト、ヴィクトール・シレ(26歳)は、10歳の頃から祖母に刺しゅうの手ほどきを受けてきた。まだ子どもだったが、祖母が用意した長さ約1.8mのニードルポイント(註:布のひと目ずつをウール糸で刺し埋めていく技法)用のキャンバスに、無我夢中でゴシック調の葉模様を刺しゅうしていた。2016年にアートスクールに入学すると、教授たちからは「刺しゅうは主婦のやることだ」と言われたが、耳を貸さなかった。シレはアメリカのマスメディアのビジュアルデザインについてかなり詳しく、そこから着想を得て、キャンバス一面にチーズバーガーやタバコの箱に似た形の建物を並べ、背景はパンチの効いたイエローとピンクで彩る。デイヴィッド・ホックニー風のプールにはスーツ姿の死体を浮かべ、ショッピングモールの端には、ゲイカルチャーを連想させるカウボーイブーツやサウナの看板などを所狭しと配置する。シレにとって、クロスステッチの刺しゅう作品は「これまで自分が目にしてきた大量のデジタル画像の集大成」であり、「ピクセルを手で触れられる形に変えながら、悪趣味も突き詰められる装飾技法」だと言う。

今回、本誌のためにヴィクトール・シレがオリジナル作品《Seaside Rendez-Vous》(2024年)を制作。「作品中ではよく暗号や秘密のリファレンスを使ったり、多様な都市の建物をつなぎ合わせたりして、非現実的な風景を創る」とシレ。左上から時計回りに、ニューヨークの「ストーンウォール・イン」、マイアミビーチの「マカルピン・ホテル」(写真家ボブ・マイザーが20世紀半ばに出版した『フィジーク・ピクトリアル』誌で使用された「男娼」を意味する暗号が、建物入り口の上にある)、ギリシャ神殿風の円柱の噴水、さまざまなプライドフラッグのカラーのビーチタオル、イタリアの画家、ジョルジョ・デ・キリコの1930年代のシリーズ作《Mysterious Baths(神秘的な浴場)》に描かれているビーチキャビン。
VICTOR SIRET, “SEASIDE RENDEZ-VOUS,” 2024, HALF-STITCH, COTTON THREADS. PHOTO: JUSTINE VIARD ©SOBERING GALERIE PARIS
今から約2500年前、中国西部、東欧、ペルー沿岸部の古代文明では、地域特有の伝統的な刺しゅう技法がすでに確立されていた。今やこの装飾技法は世界中に存在する。50年ほど前からは、ヨーロッパのクィアやフェミニストのアーティストたちが、刺しゅうをアートに取り入れるようになった。彼らの狙いのひとつは、美術界の権威(ストレートの男性が多い)に逆らうこと。なかでもクィアの男性たちは、「女性的」とみなされる手芸をあえて選ぶという「挑発行為」を楽しみながら、ヴィクトリア朝時代の上品な刺しゅうデザインを大胆に変化させてきた。
レバノン人アーティストのニコラス・ムファレージュもそのひとりだった。1970年代から、エイズの合併症で死去する1985年まで、グレコローマンスタイルのレスラーやスパイダーマン、サンタクロースなどが混在する、巨大なタペストリーを制作していた。メキシコ系チリ人アーティスト、カルロス・アリアス(59歳)はもともと写実的な油絵から出発したが、1990年代初めから、多大な時間と労力を要する手の込んだ刺しゅう作品を手がけるようになった。アリアスは、その骨が折れる作業を通して「“芸術は一筋縄ではいかないもの”だと痛感した」と笑う。アリアスとほぼ同時期に刺しゅうを始めたのは、パラグアイのアーティスト、フェリシアーノ・センチュリオンだ。彼はブランケットや枕カバーに「私は一瞬ごとに生まれ変わる」「私の血が彼らの記憶を浄化する」といった挑発的なフレーズを糸で綴った。だが1996年にエイズの合併症のため、34歳で永眠した。
そして今再び、クィアたちによる刺しゅうアートが盛り上がりを見せている。ロサンゼルスでは、キュレーターのエレン・シンダーマンによる『Stitch Fetish』のようなポップアップ・グループ展が、またマンハッタンのチャイナタウンでは『Club Rhubarb’s2023』などの個展が催された。この個展で展示された《糸の絵画(thread paintings)》は、ニュージャージー州の厳格なローマカトリックの家庭で育った、元美容師サル・サランドラ(79歳)のシリーズ作だ。サランドラは、何十年もかけて編みだしたステッチを何層も重ねる技法で、はち切れそうなジーンズやシックスパックなどのモチーフを気の遠くなるような精密さで描いている。大勢の登場人物でごった返した彼の作品は、カラフルでユーモラス、そして扇情的だ。エデンの園のように明るい乱交パーティもあれば、地獄のようにドロドロした暗室のシーンもある。暗室では勃起した悪魔が笑みを浮かべた人間たちに生々しいボンデージプレイをさせ、髭を生やした天使たちは楽園へつながる階段でセックスをしている。細部までぎっしり描き込まれたその情景は、まるで中世の祭壇画のようだ。
ハイメ・アントニオ・フェレイラ・メディナ(31歳)は、プキというアーティスト名で活躍する織物職人だ。彼は「メキシコの地方でゲイであることの難しさ」をテキスタイル上で表現している。最近は、彼がミチョアカン州で過ごした子ども時代に、両親に内緒で、趣味として楽しんでいた刺しゅうを作品にとり入れている。
プキは、「アンバサダー」という古い型のミシンを使い、服やタペストリーに下書きなしのフリーハンドで刺しゅうを施していく。描くのは、屋外のクルージングスポット(註:相手を探す場所)で見つけたグラフィティ――ポルノグラフィックな絵や、皮肉めいた中傷、性行為を懇願する言葉の殴り書きなど――だ。「今も多くのクィアが決まったクルージングスポットに行くのは、自らのセクシュアリティを隠された世界にしまっておくため」とプキは語る。
インターネットやメキシコ国内の手工芸コンテストを通じて、プキは若いクィアの織り手たちと交流するようになった。冒頭のフランス人アーティスト、シレが、クロスステッチの作品制作にフォーカスするようになったのは、その数年前にインスタグラムで知り合ったサランドラに後押しされたからだ。サランドラは毎日14時間ほどキャンバスと向き合っているが、彼にとって刺しゅうとはセックスと同様、ある種の瞑想で、交わりでもある。「私の作品に込められたメッセージを感じとってもらい、心を解き放てば、その心は広い世界に向かって飛び立っていける」と彼は言う。「自らのセクシュアリティと真正面から向き合ったとき、私たちはあるがままの自分になれる」。アートについても同じことが言えるだろう。創作と向き合うとき、その作り手はありのままの自分に出会えるのだ。
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