カミーユ・アンロはアーティストとして非常に重要な存在になった。彼女は、私たちの文化に最後まで残っているタブーに斬り込むことで、美術史の中でこれまで語られてこなかったひとつの溝を埋めてきた。

BY SASHA WEISS, PHOTOGRAPHS BY JUSTIN FRENCH, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

画像: マンハッタンのフラットアイアン地区にあるスタジオに佇むアンロ。2024年5月16日に撮影。

マンハッタンのフラットアイアン地区にあるスタジオに佇むアンロ。2024年5月16日に撮影。

 画家であり、彫刻家であり、かつコンセプチュアル・アーティストでもあるカミーユ・アンロは、2018年に長男を出産したあと、自らのスタジオに戻り、出産とはまったく関係のない題材の作品を生み出すことに、ワクワクしていた。だが、白いキャンバスと対峙してみると、なぜか驚くほど耐えられなくなった。彼女はいつしかキャンバスに真っ赤な絵の具を塗っていた。それまで深紅という色彩に強く惹かれたことはなかったのに、だ。「スタジオ全体が、まるで吸血鬼が人間の生き血を吸っている現場みたいになってしまった」と彼女は笑いながら言った。ある日、彼女が犬の散歩に出かけたところ、見知らぬ人に「大丈夫?」と尋ねられた。気がつくと、彼女の服には、赤い絵の具が染みついており――まるで暴力的な事件に巻き込まれたかのように他人の目には映っていたのだ。

「私、大丈夫なんだろうか?」と彼女は自問した。白を嫌悪する気持ちは、もしかしたら、病院に入院していた記憶と関係があるのかもしれない、と彼女は思った。もしくは「ピュアなものやミニマリズムへの信仰に隠された闇の部分」を理解しようとする意識の表れなのか、と。理由は何であれ、彼女は赤い作品をたくさん描き始めた。その中には、女性たちが自らの乳房から搾乳する様子を描いた作品も含まれている。

 彼女は、美術史がずっと触れてこなかった溝に、意図せずしてぶちあたった。母親と子どもが一緒にいる様子を描いた作品は美術史上たくさんあるのに、母親のみが単体で描かれている作品を、アンロはほとんど見つけることができなかった。母親というものは「常に彼女をオブジェとして観察するまなざしや、子どもとセットで扱われることから、逃れることができない」と、アンロは2023年に出版された『Pump and Dump(搾乳した母乳を廃棄すること〈註:母という存在を奉ってきたアート界が、実は母親業という重労働の実情を長年軽視してきたという暗喩を含む〉)』と題したエッセイで記している。彼女は多くの人になじみ深い作品「ピエタ」のイメージを思い起こした(註:ピエタは、磔刑に処されたキリストを聖母マリアが膝に抱いている構図の作品)。「でも、それはあまりにも、心地よさとはかけ離れた母親像の典型例だ。なぜならピエタは究極の苦痛を表現した作品の代表だから」と彼女は私に語った。いったいどうすれば、もっと普通の状態にある母親を、自らの手で描くことができるのだろうか?と彼女は自身に問いかけた。

 アンロは書籍やインターネットで「搾乳」の画像を徹底的にリサーチした。ポンプを乳房にあてて母乳を搾り出す技術は、すでに何千年も前から使われてきたものなのに、その様子が絵画に描かれたことは、これまでほぼ一度もなかった。搾乳という作業は、母親業を担う人々が直面する、多くの矛盾する要求を体現している。絶え間なく続く作業の間、じっと座っていなければならず、無償であり、かつ高く評価されるわけでもない労働をしなければならない。だが、同時に楽しく、誇りを感じることができる行為でもある。アンロにとって、搾乳に費やした時間はほっとひと息つける瞬間でもあった。ポンプのシュッシュッという音を聞いていると、気持ちが穏やかになっていくのを感じた。幼い頃、彼女の家族はフランスのシャモニーで農家の一軒家を借りて夏を過ごしていた。そのときに、ヤギの乳を搾ったことを彼女は思い出していた。

 搾乳についてのリサーチをきっかけにして、自ら創作した一連のスケッチや絵画を彼女は《Wet Job(血まみれの労働)》(2018-20)と題した。アンロのほかの多くの作品と同様、これらの作品も、エレガントだが子どものような純真さも感じさせる作風で、危険な薫りが漂う。そのうちの一枚では、鮮やかな赤色に塗られたひとりの人物が裸で座り、片足を膝の上にのせている姿を描いている。搾乳ポンプをそれぞれの乳房に装着し、各ポンプから伸びた管が黄色い小型の容器につながっている。彼女はリラックスした姿勢で、足の大きな親指が上向きにピンと跳ねている。水の中に潜って聞くような、規則正しいポンプの振動音のリズムを、この親指も一緒に刻んでいるのかもしれない。彼女の頭部は長く伸びており、まるで中世のヘルメットを被っているか、または埋葬の際に遺体を包む布に巻かれているようにも見える。ポンプから右乳房の上に母乳が漏れ出しており、彼女の腹部にも母乳が漏れてたまっているように見える。この絵が与える印象はひとつだけではなく複雑だ。包容力があり感覚的であると同時に、ちょっと気味が悪い。それこそが搾乳の現実であり、そんな交錯する感情こそ、アンロが作品で表現したかったものだ。

画像: さまざまなジャンルで作品を発表しているアーティスト、カミーユ・アンロの絵画《Wet Job(血まみれの労働)》(2020年)。キャンバス上に搾乳の場面が描かれることは美術史上とても稀だ。 CAMILLE HENROT, “WET JOB,” 2020, OIL, ACRYLIC AND WATERCOLOR ON CANVAS © CAMILLE HENROT, COURTESY OF THE ARTIST, HAUSER & WIRTH AND MENNOUR, PARIS. PHOTO: GENEVIEVE HANSON

さまざまなジャンルで作品を発表しているアーティスト、カミーユ・アンロの絵画《Wet Job(血まみれの労働)》(2020年)。キャンバス上に搾乳の場面が描かれることは美術史上とても稀だ。

CAMILLE HENROT, “WET JOB,” 2020, OIL, ACRYLIC AND WATERCOLOR ON CANVAS © CAMILLE HENROT, COURTESY OF THE ARTIST, HAUSER & WIRTH AND MENNOUR, PARIS. PHOTO: GENEVIEVE HANSON

 真剣勝負のアート界と、母であることの間には、昔から、常に緊張関係があった。フェミニストの先駆者で現在85歳のジュディ・シカゴは1985年に「出産した瞬間に、人はもはや自由ではない」と嘆いている。さらにシカゴは「優れた才能をもつアーティストが、自己実現したいという欲求をもちつつも、子どもの要求を満たさなければならない葛藤にさらされ、罪悪感で引き裂かれる」と同情を込めて書いている。その20年後、現在61歳のトレイシー・エミンは「子持ちで、かつ優秀なアーティストたちもいる……彼らは男性と呼ばれる」と発言している。エミンの作品で最も有名なのは、過去に彼女がベッドをともにした人々の名前をカタログとして表現したものや、乱れたままで放置した状態の自分のベッドを再現したインスタレーションだ(シカゴとエミンには子どもがいない)。83歳のコンセプチュアル・アーティスト、メアリー・ケリーは、女性アーティストであることは「二重否定される存在だ」と語った。彼女の作品《Post-Partum Document(産後の記録)》(1973-79)は、現代アートにおいて、母親が自らの出産体験をもとに、本格的な作品を生み出した稀な例だ。この「記録」の中で、ケリーは自分の息子の発達について探究した――ラカン派の精神分析医たちが使うような図を印刷し、息子のおむつの中敷きとして使用した、染みがついたライナーと並べて一緒に展示した。さらに息子の小さな手の形を石膏でかたどったギプスや、息子の行動を分刻みで記録したリストなども展示した。

 女性たちは、母親業とアートのどちらかを選ばなければならない、という考え方自体は、何度も繰り返し議論され続けてきた。現在では、このテーマに関する書籍が複数出版されており、小さいながらもひとつの独立したジャンルを形作っている(最近の作品ではシーラ・へティ著の『Motherhood(マザーフッド)』やジュリー・フィリップス著の『The Baby on the Fire Escape(非常階段の上の赤ちゃん)』)。そして、数年に1~2冊は、女性がアーティスト活動に専念しながら、同時に良い親でいることができるのか否か、という疑問に触れている著作が出版されている。この疑問が向けられる対象というのは、常に女性で、男性たちは決して同じ質問を問われることがない。ビジュアル・アートの世界では、恐らくいまだに母親業が取るに足らないものだとされている偏見があるせいか、アンロは、この春、彼女のスタジオで私と話したときに、自分の作品のテーマが「母であること」だと定義されることに、はっきりと抵抗を示した。だが、アンロについて語るときに、ケリーのことを連想するな、というのは酷な話だ。現代アーティストの中で、労働としての母親業を作品で表現した人はごくわずかであり――特にアーティストであり母でもある存在は極めて稀だからだ。もしケリーの作品が母であることを学問的見地から探究し、母親業につきものの混沌を制御し、システム化しようとする試みだとするならば、アンロは真逆の方向に向かっている。文字どおりの意味でも、象徴的な意味でも「漏れ出す」ほうに向かっている。それは、母であることが人生のあらゆる側面の起点である、という考え方をなぞるものだ。アンロは創作の際に――彼女の作品は彫刻や映像、版画やコラージュ、そしてインスタレーションや多くのスケッチ、絵画など驚くほど多岐にわたるが――母親であることに重点を置くよりも、むしろ自らが子どもだった頃の体験をより深く表現している。それはつまり、愛着(健康的であれ病的であれ)や無力さ、そして社会的規範を学ぶこと、肌への接触(そっと触れること、または望まないのに触れられること)や言葉を発することがまだできない存在の神秘についてなどだ。アンロは、既存の権力構造や制度的な意味づけにはほとんど注意を払うことなく、壮大な題材に取り組んできた――それはまるで自分の視点から見た世界の断片を串に刺して、ひとつにつなげていくような作業だ。

画像: スタジオ内の作品群。中央は《Dos and Don’ts ─Explicit Personality(やるべきことと、やらないほうがいいこと――はっきりした性格)》(2023年)と題された絵画で、一連のコラージュ作品のひとつ。母親の家で見つけたエチケット教則本が作品のアイデアに。 CAMILLE HENROT, “DOS AND DON’TS — EXPLICIT PERSONALITY,” 2023, DIGITAL COLLAGE SERIGRAPH PRINT WITH WATERCOLOR, INK, ACRYLIC AND OIL ON PREPARED CANVAS

スタジオ内の作品群。中央は《Dos and Don’ts ─Explicit Personality(やるべきことと、やらないほうがいいこと――はっきりした性格)》(2023年)と題された絵画で、一連のコラージュ作品のひとつ。母親の家で見つけたエチケット教則本が作品のアイデアに。

CAMILLE HENROT, “DOS AND DON’TS — EXPLICIT PERSONALITY,” 2023, DIGITAL COLLAGE SERIGRAPH PRINT WITH WATERCOLOR, INK, ACRYLIC AND OIL ON PREPARED CANVAS

 2013年に第55回ヴェネチア・ビエンナーレ銀獅子賞を受賞して、彼女が一躍アート界の話題となった映像作品『偉大なる疲労』を例にとってみよう。さまざまな文化が宇宙の起源をどう伝えているか、というその文脈を探究した13分間の映像だ――数百もの一見まったく関係のない映像をランダムに組み合わせたもので、知的だが、意図を理解するのが不可能なパズルだ(いったい誰が、宇宙進化論の全貌をひとつの短編映像作品に凝縮することができるだろう?)。奇怪でリズミカルなドラムの響きに合わせて音声アナウンスの解説が流れ、宇宙の起源の神話と、宇宙がいかに膨張してきたかを語る。すると、インターネットのブラウザが複数のタブで次々に開くような形で、画面上の映像が増殖していく。その中には、美術館内のテーブルの上にのせられた鳥の剝製や、男性たちが惑星の画像を吟味している場面や、黒いレギンスの表面に銀河を模した白い点が無数に描かれている様子や、ジャクソン・ポロックの絵画などもある。また《Interphones(インターフォン)》(2015年)というインスタレーション作品は、可愛げがある形をしたアナログ電話で、鑑賞者がダイヤルを回すと、個人的で哲学的な会話を聴くことができるようになっている(たとえば、ひとつの電話機からは詩の朗読音声が流れ、別の電話機からは犬の訓練方法のアドバイスが流れる)。

 アンロが母親業というテーマに惹かれたのは、自らが母になったからという理由だけではない。このテーマが、アーティストが真摯に探究する題材としては、タブーだと位置づけられ続けている理不尽さが、彼女の関心を惹きつけたのだ。母であることは、人間関係の中でも最も普遍的なものだ――この地球上のほとんどの人間が、親子間の、愛や思いやり、至らなさや別離などの人間ドラマを経験している――それなのに、そのドラマを表現する舞台であるアート界が、母親の存在を認めようとしない。『Milkyways(銀河)』(2023年)と題したエッセイで、アンロは母親たちを無視することは、多くの人が感じている恥の表れなのではないかと論じている。「女性嫌悪の感覚というのは、女性たちがこれまで社会に与えてきたものは無価値だったと定義することによって、社会が女性たちに負う巨大な、かつ、増大しつづける借りから目を背けるための道具なのではないか」と彼女は書いている。「どんな人間でも、贈り物を次々と与えられ続け、そのお返しができず、あるいは相手に借りを返せないでいるという状況には、耐えられない」。彼女自身もそんな感情から免れることはできないと言う。だが、アンロが恥を感じるとき、それがひとつのシグナルになる。彼女は自分が心地よく感じる題材を作品にすることはない――自分が好きなものはそもそも、ほとんど創作しないのだ。

「私が手がけるのは、未解決の問題ばかりだと思う」と彼女は私に語った――それはつまり、他人が入り込んでいかない領域にあえて挑戦することを意味し、人を世話する行為と幼児の生活がすべての神話を読み解く鍵になり得るという、彼女の信念を生む。それこそが、アート界への非常に重要な介入でもあるのだ。

後編へ続く

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