ジャコモ・ブレリは、田舎料理を作って人々にふるまうことに生涯をかけてきた。だが、そんな彼の運命を変えたのは、建築家のレンゾ・モンジャルディーノだった

BY DEBORAH NEEDLEMAN, PHOTOGRAPHS BY BERT TEUNISSEN, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 1957年、ブレリは彼にとって最初の本格的なレストランを開いた。「リストランテ・ダ・ジャコモ」という名の素朴なトラットリアで、リボリータやパッパ・アル・ポモドーロなど、彼が子ども時代に味わった典型的なトスカーナ料理を出す店だ。レストランは裁判所と音楽学校の近くにあり、昼どきには弁護士や音楽家の客でにぎわった。なかにはイタリア経済界の名の知れた重鎮たちもいた。店の近くにはまた、イタリア社会で深い 尊敬を勝ち得ていた建築家のレンゾ・モンジャルディーノのスタジオと自宅もあった。何人もの熟練した職人たちの優れた手仕事によって、モンジャルディーノは現在と過去の要素をまったく新しい、なんとも説明のしがたい調和で融合させた部屋を造ることで知られていた。灰色のあごひげをふさふさと生やし、立ち居振る舞いもエリート然としたモンジャルディーノは、ストイックなほど自らの習慣にこだわっていた。ひとりで暮らし、来客もほとんどなく、家では決して食事をしなかった。ミラノにいるあいだ、彼は毎日、「ダ・ジャコモ」で昼食をとった。モンジャルディーノはその料理の真摯さ、すなわち、上質で飾り気がないところを高く評価していたのだ。

 彼がとりわけ好んだのは、素朴なトスカーナ料理のアクアコッタだった。文字どおりに訳すと「調理した水」。ジャコモが母から教わった料理だ。台所の戸棚がからっぽのときに、母がよく作る料理だった。「庭に行って、パセリの葉にトマト、セロリの茎と、育ったばかりの野菜 2 、3 種類も少し取ってくるんだ」とブレリは記憶をたどる。「それを煮て、塩とオリーブ油を加える。それから人数分の卵を割ってスープに落として……最後にパンを少し入れる」(雌鶏と野菜畑があれば、卵と葉ものはいつでも調達できた)。

画像: スタジオ・ペレガリが19世紀のミラノにあった文学カフェへのオマージュとしてデザインした「ジャコモ・カフェ」

スタジオ・ペレガリが19世紀のミラノにあった文学カフェへのオマージュとしてデザインした「ジャコモ・カフェ」

 ブレリは、彼の母のような女性たちが、いかに創意工夫に満ちていたかを語る。彼女たちは、農場で働いて腹をすかせた男たちのために、わずかな食材で、おなかいっぱいになるおいしくて経済的な料理を作らなければならなかった。食べるものは季節ごとに違っていた。その時々に、大地から収穫できるものを料理していたからだ。貧しさゆえ、食材は何ひとつ無駄にはされず、残りものは翌日の食卓に形を変えて登場した。牛の糞が唯一の肥料だったから、自然とオーガニックな料理になった。今でこそ、料理人たちや食のムーブメントは動物の部位を余すことなく食べ、再利用し、サスティナブルであることを目指し、食のサイクルを全うしようとする方向に向かっているが、この考え方は、かつて、ブレリ一家がすでに田舎でやっていたことなのだ。

 1989年には、レストランが入っていた建物が売却され、ブレリは立ち退きを余儀なくされた。彼が市内の何の変哲もない商業地区に新しい店舗を探していると聞きつけたモンジャルディーノは、もしこの地域にとどまってくれるなら、自分が店の内装を無料で引き受けると提案した。「ジャコモは恐怖におののいていたよ」と言うのはロベルト・ペレガリ(55歳)だ。彼は当時、いくつかのプロジェクトでモンジャルディーノのアシスタントとして働いていた。「彼は『レンゾが俺の店をめちゃくちゃにしてしまう!』と思ったんだ」

 

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