BY DEBORAH NEEDLEMAN, PHOTOGRAPHS BY BERT TEUNISSEN, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
弱冠11歳にして、ジャコモ・ブレリはトスカーナ州の田舎、コッローディ村の生家をあとにして、仕事を探すため列車に乗って旅立った。彼が握りしめている煙草色の小さな旅行鞄には、マッシュルームの香りが染み付いていた。自分たちも行ったことのない都会に息子を送り出すため、母親は、ブレリの田舎風の洋服をきれいに畳んで鞄に詰めてくれた。都会で着るのにふさわしい服とはいえなかったが、彼はそれしか持っていなかった。貧しく、働き者の農家の6番目の子であったブレリは、トリノに送り出された。トリノでは“機敏な足と目配りのできる目”を持つ働き手が必要とされていると、両親が人づてに聞いていたからだ。街に出た彼は、(本人いわく)「なんでも器用にこなせるやつ」だと見込まれ、あるレストランに雇われることになった。仕事を始めてからの2年は、実家に帰って両親に会うこともかなわなかった。そして、その2年のあいだに彼は変わった。
「村を出た者と、村に残った者とのあいだには、列車で8時間の距離よりはるかに大きな違いがあった」と、ブレリは2013年に出版された自伝『人生のレシピ』に書いている。それでも彼の心から故郷の村が消えることはなかった。苦しい生活だったにもかかわらず村での思い出は幸せに満ちていて、それがその後80年にわたって、彼の進む道、彼の料理の決め手となった。大きな田舎風の台所、それが家のどこにあったかを、彼は今もはっきりと覚えている。母親はいつも台所に立っていて、かまどにはたえず火が燃えていた。「目覚めるともう、料理のいい匂いがしていた。そして食事が終わるやいなや、次の食事の準備が始まるんだ」とブレリは言う。ポレンタやパンや焦げた薪の香りが、服や皮膚だけでなく、骨の随にまで染み込んでいたと彼は言う。そうして、ゆっくり時間と愛情をかけて、彼は料理を学んだのだった。
しかし、ブレリの旅路は単に村から都会の距離を経ただけではなかった。1930年代のトリノで、負けん気が強く後ろ盾もない子どもだった彼は、やがて静かな影響力をもった帝国をミラノに築き上げていた。3つのレストランのほかに、カフェ、ペストリーショップ、煙草ショップを経営し、この春にはテイクアウトのランチを売る店も開く予定だ。ブレリ自身がそうであるように、店にはイタリアという国の歴史が染み込んでいる。そんな彼の店は、洗練されたハイクラスなミラネーゼと、外国からの裕福な客たちの両方に愛されている。「リストランテ・ダ・ジャコモ」、その隣にある優美な「ジャコモ・ビストロ」、そして郷愁を誘う砂の城、ドゥオーモを望む豪奢な「ジャコモ・アレンガリオ」――。91歳の今も、ブレリは現役オーナーとして、慈悲深い王のように店に君臨している。ぶかぶかのズボンをはき、首にスカーフを巻いて、ボルサリーノの帽子をさりげなく傾けてかぶったその姿は、まるで渋いマフィアの大ボスのようだ。
ブレリは、そのキャリアのほとんどをレストランの中で必死に働いてきた。戦争中、勤めていた店が爆撃されると、短いあいだ鉄道関係の仕事に就いたが、すぐに退屈してしまった。戦争が終わると、トリノ、ついで観光リゾート地のモンテカティーニ・テルメに自分のピッツェリアを開いたが、どちらも長続きはしなかった。だが、戦後の楽天的な世相に導かれて北に向かった彼は、ミラノで地元民向けのバーを開いた。ビリヤードのテーブルを二つ置き、軽食を出す店だ。この軽食の評判がすこぶるよかったので、やがてビリヤード台にテーブルクロスをかけて食事を提供するようになった。