すべて手作業で、唯一無二、複製不可の美しい本やノートを作る。製本家、樋口久瑛が受け継ぐ工芸製本の世界と、紡ぐ夢とは――

BY MASANOBU MATSUMOTO, PHOTOGRAPHS BY MASANORI AKAO

“読むため”だけではない、オブジェとして特別な魅力を放つ本がある。「ルリユール」と呼ばれるフランスの伝統的な工芸製本技法で作られた本だ。中世ヨーロッパでは、印刷と製本は分業されており、印刷物の束を、購入者が製本家のもとに持っていき、本に仕上げてもらうのが一般的だった。書物が知識や権力の象徴であった時代、王族や貴族は金箔や貴石をあしらった豪華な装飾を製本家に依頼した。また近代になるとアール・ヌーボーやアール・デコといった流行(はやり)のデザインを取り入れた本も多く生まれた。こうしたルリユールによる工芸本は、今でも愛書家の間で重宝され、また美術・装飾品を扱うオークションで高値で取引されることもある。

画像: 2013年、英国の製本装丁協会Designer Bookbinders主催のコンクールのために制作した作品《テンペスト》。この年はシェイクスピアの作品がテーマで、樋口は『テンペスト』を選び、作品に登場する嵐を起こす精霊と荒海を表現。モロッコ革と呼ばれる山羊革で仕上げた表紙に子牛や蛇の革で装飾、金箔押しを施した。「私の原点とも言える一冊です」

2013年、英国の製本装丁協会Designer Bookbinders主催のコンクールのために制作した作品《テンペスト》。この年はシェイクスピアの作品がテーマで、樋口は『テンペスト』を選び、作品に登場する嵐を起こす精霊と荒海を表現。モロッコ革と呼ばれる山羊革で仕上げた表紙に子牛や蛇の革で装飾、金箔押しを施した。「私の原点とも言える一冊です」

 樋口久瑛は、ルリユールを継承する製本家のひとりだ。本という存在に惹かれたのは、中世ヨーロッパ史、主に修道院の研究に携わっていた父、朝倉文市の影響だという。「子どもの頃、父が海外から買い付けた本が毎日のように送られてきて、家のなかは図書館のように本だらけ。革の手ざわりやフォルム、紙の匂い、ページをめくる音―― 自然と本、特に革装の本に特別な愛着を抱くようになりました」

 大学院修了後は、塾講師や企業での仕事に就いていたが、一念発起し、本作りの源を求めて、英国の印刷会社や製本工房を訪ね歩いた。帰国後は、現地の工房で紹介された製本家・大平立子に弟子入り。以来10年にわたって工芸製本の基礎を学んだ。「まだ修業中の身です」という樋口だが、修業を始めた日、大平にかけられた言葉を今でも憶(おぼ)えている。「私の作るものは、あなたには一生作れない。でもあなたの作るものも、私には一生作れない」。唯一無二で、複製不可のもの。それを自分の手でじっくり時間をかけて作る。ルリユールの醍醐味を改めて実感し、その道を進むことを決めた瞬間だった。

 自宅の一室に設けられたアトリエには、海外で買い付けたレザーや紙、使用目的に応じてカスタマイズした大小さまざまな製本道具が並ぶ。樋口の製本の真骨頂は、革装の本。レザーの色や質感をそのまま活い かすこともあれば、金箔押しやモザイクでデザインを施すこともある。「素材である革も、紙も、かつて生命が宿っていたもの。ひとつとして同じものはありません。どんなに道具や湿度などの環境に気を配っていても、経験に即したプロセスを踏んでも、思いどおりにいかないことがあります。むしろ、うまくいかないほうが多いかもしれません」と屈託なく笑う。「素材にも技法にも、長所と短所の両方の性質がありますから、状況に応じてそれらを見極め、なにより活かしきることが求められます」

画像: アトリエには、道具のほか着想源になるオブジェも並ぶ。ガラス瓶に入っているのは、革や紙の接着に使うさまざまな種類の糊

アトリエには、道具のほか着想源になるオブジェも並ぶ。ガラス瓶に入っているのは、革や紙の接着に使うさまざまな種類の糊

画像: 製本に使うヘラなど。「特に牛骨のヘラは製本の全工程で使う基本の道具。左の2 本は修業を始めた頃、師匠が私のために作ってくれた宝物です」

製本に使うヘラなど。「特に牛骨のヘラは製本の全工程で使う基本の道具。左の2 本は修業を始めた頃、師匠が私のために作ってくれた宝物です」

画像: (写真左)ヨーロッパの専門店で買い付けたマーブル紙やペーストペーパー。本の「見返し」、表紙やケースの装飾などに使う (写真右)折丁と呼ばれる、小冊子を一冊の本に綴じる「糸かがり」の作業を行う樋口。インドのコットン紙を使ったゲストブックを制作中

(写真左)ヨーロッパの専門店で買い付けたマーブル紙やペーストペーパー。本の「見返し」、表紙やケースの装飾などに使う
(写真右)折丁と呼ばれる、小冊子を一冊の本に綴じる「糸かがり」の作業を行う樋口。インドのコットン紙を使ったゲストブックを制作中

 そのために樋口が大切にしている姿勢がある。“全人的に向き合う”こと、そして“余計なことは行わない”。「ユング派の心理学者・河合隼雄さんの言葉から得た学びです。素材や依頼者に対してできる限り開かれた意識で向き合い、最後まで関係することを諦めない。そうした先に、想像を超えた美しさがふと浮かび上がってくることがある。それは、日常生活についても言えること。この仕事が色濃く教えてくれた人生の教訓です」

 製本の仕事と並行して、樋口が独自に展開する創作物がある。ルリユールの技法で仕立てたノートだ。展覧会用に自らテーマを設定して作ることもあるが、基本はオーダーメイド。注文を受け、その人のためだけの一冊を作る。「まず行うのはインタビュー。その人の美学や生きざまなどを感知する作業を重ね、その上で素材やかたちを提案する。ノートは、その人がその人らしさを自由に表現できる居場所のようなものだと私は考えます。依頼者とじっくり向き合い、その人の“魂の映し鏡”となる一冊を作ることに努めています」。あるデザイナーはデッサンやアイデアを記す創作ノートに、ある料理人はレシピ帳に。またウェディングのゲストブックやエンディングノートとして。人生の新章を開くとき、自分自身と深く対話したいとき、樋口のノートに思いを綴る人もいる。

画像: 2018年、アーツ&サイエンスでの展覧会用に制作したノート《エルザ・スキャパレリ》。ファッションデザイナー、スキャパレリへのオマージュとしてショッキングピンクとブラックのレザーを象嵌し、シュルレアリスム的な目玉モチーフを大胆に描いた

2018年、アーツ&サイエンスでの展覧会用に制作したノート《エルザ・スキャパレリ》。ファッションデザイナー、スキャパレリへのオマージュとしてショッキングピンクとブラックのレザーを象嵌し、シュルレアリスム的な目玉モチーフを大胆に描いた

画像: 樋口の愛読本のひとつ、サン=テグジュペリの『人間の土地』を着想源にしたノート《サン=テグジュペリ人間の土地》。レザーのしぼが砂漠を、マーブルの見返しが漆黒の闇のなかで輝く星々を連想させる。ファッションブランドamachi. (アマチ)のデザイナー吉本天地が所有し、創作用のノートとして愛用

樋口の愛読本のひとつ、サン=テグジュペリの『人間の土地』を着想源にしたノート《サン=テグジュペリ人間の土地》。レザーのしぼが砂漠を、マーブルの見返しが漆黒の闇のなかで輝く星々を連想させる。ファッションブランドamachi. (アマチ)のデザイナー吉本天地が所有し、創作用のノートとして愛用

 昨年、樋口は出版社を設立した。かつて修道院は、ビールやワインの生産、本作りなど、文化的かつ社会的な営みが行われる場でもあり、出版は父・文市の夢だった。名前は「ERMITE」。フランス語で隠者や修道士を意味する言葉だ。タロットカードの「隠者」には、暗闇のなか真理を照らすランプを掲げ、足もとを見つめる老人の姿が描かれている。ちょうど「ERMITE」を立ち上げたタイミングで文市は他界。樋口がその夢を引き継いだ。「小さな出版社なので、ゆっくりとした歩調で、作家の画集や写真集など著者の本質を現した本を丁寧に作っていきたい」という。「ひとつのビジョンを巡って、人が出会い、化学変化を起こせるプラットフォームを作ることができれば―― それが今、私が『ERMITE』に託す夢です」

画像: 樋口久瑛(HISAE HIGUCHI) 製本家。ルリユールと呼ばれる伝統的な工芸製本技術を受け継ぎ、製本やオリジナルの手帳作りを行う。2018年、’19年にセレクトショップ、アーツ&サイエンスで展覧会を開催。’20年には出版社「ERMITE」を設立。第一弾となる出版物は、文楽人形遣いの吉田簑紫郎が撮影した写真集『INHERIT』 https://ermite.jp

樋口久瑛(HISAE HIGUCHI)
製本家。ルリユールと呼ばれる伝統的な工芸製本技術を受け継ぎ、製本やオリジナルの手帳作りを行う。2018年、’19年にセレクトショップ、アーツ&サイエンスで展覧会を開催。’20年には出版社「ERMITE」を設立。第一弾となる出版物は、文楽人形遣いの吉田簑紫郎が撮影した写真集『INHERIT』
https://ermite.jp

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