かつてレオナルド・ダ・ヴィンチも暮らしていたことがあるという、ミラノの由緒ある一軒の邸宅。そのオーナーが代わる前の最後の姿とは──。

BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY GUIDO TARONI, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA

画像: ミラノの由緒ある邸宅カーサ・デリ・アテラーニで、インテリアデザイナーのニコロ・カステリーニ・バルディッセラと作家兼編集者のクリストファー・ガリスが住む部屋のリビング。正面の壁に飾った絵は、バルディッセラが母パトリツィアから受け継いだ、20世紀のイタリア人画家タンクレディ・パルメジャーニの作品。手前のソファとコーヒーテーブルは、バルディッセラがデザインし、自身のブランド「カーサ・トスカ」で商品化した。キャビネットは、フランスの家具メーカー、「ジャン= バティスト・ガミション」のもの。ラグは「フェドラ・デザイン」のもの。

ミラノの由緒ある邸宅カーサ・デリ・アテラーニで、インテリアデザイナーのニコロ・カステリーニ・バルディッセラと作家兼編集者のクリストファー・ガリスが住む部屋のリビング。正面の壁に飾った絵は、バルディッセラが母パトリツィアから受け継いだ、20世紀のイタリア人画家タンクレディ・パルメジャーニの作品。手前のソファとコーヒーテーブルは、バルディッセラがデザインし、自身のブランド「カーサ・トスカ」で商品化した。キャビネットは、フランスの家具メーカー、「ジャン= バティスト・ガミション」のもの。ラグは「フェドラ・デザイン」のもの。

 カーサ・デリ・アテラーニで隠しごとをするのは難しい。イタリア人のインテリアデザイナー、ニコロ・カステリーニ・バルディッセラ(55歳)は、交際8年になるアメリカ人の作家兼編集者クリストファー・ガリス(36歳)とともに、ミラノでの拠点としてこの邸宅を使っている。邸宅は3階建てで、ふたりが住むのは最上階だ。中庭の向こうに、おばのアンナが暮らす部屋が見える。さらに別のおば、レティツィアも別棟に住んでいる。1階は、バルディッセラの父であり、建築家でテキスタイルメーカー「C&Cミラノ」の共同創業者ピエロ・カステリーニ・バルディッセラの住まいだ。

 15世紀に建てられたこの広大な邸宅は、ピエロの母方の祖父母の家だった。ピエロの祖父は著名なラディカリズム建築家ピエロ・ポルタルッピで、その妻リアは実業家エットーレ・コンティの娘だ。コンティが、娘婿であるポルタルッピに、自身が所有する邸宅の修復と改築を依頼した。そして1919年に始まった改築で、壁が取り壊され、ネオクラシカル様式の建物2棟がひとつになった。そもそもこの敷地は、15世紀にミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァが、従者ジャコメット・ディ・ルチア・デラテッラ(dell’Atella)に与えたものだ。アテッラ(Atella)家が数世代にわたり所有していたため、邸宅(Casa)にその名(degli Atellani)がついたのである。1490年代後半にはレオナルド・ダ・ヴィンチがこの邸宅に住み、向かい側にある教会の壁に《最後の晩餐》を描いた。

画像: エントランスでは、イタリアのインテリアデザインチーム「ピクタラボ」によるヒョウ柄の壁紙と、バルディッセラの母方の高祖父であるオペラ作曲家ジャコモ・プッチーニのブロンズ像が出迎える。その横にあるチェストは19世紀ロシアのもの。鏡面の扉に映る肖像画の女性は、バルディッセラの母方の祖母ルチアーナ・ディ・コラルト伯爵夫人。グイド・タローネの筆による。

エントランスでは、イタリアのインテリアデザインチーム「ピクタラボ」によるヒョウ柄の壁紙と、バルディッセラの母方の高祖父であるオペラ作曲家ジャコモ・プッチーニのブロンズ像が出迎える。その横にあるチェストは19世紀ロシアのもの。鏡面の扉に映る肖像画の女性は、バルディッセラの母方の祖母ルチアーナ・ディ・コラルト伯爵夫人。グイド・タローネの筆による。

 昨年4月、敷地内にあるカフェ─敷地の一部が2015年に美術館になった─でランチをまじえた取材をした際、ガリスは「このコミューンのような雰囲気に慣れるまで、少し時間がかかりました」と語っている。バルディッセラはさらに身もふたもなく「ここでは『壁に耳あり』だからね」と表現した。「でも、こっちが聞かせたいことを聞かせておけばいいんだよ」

 バルディッセラは18歳のときに、故郷ミラノをいったん離れている。二度と戻らないつもりだった。周囲にとけ込めていなかったからだ。彼が古美術品を集めたり、オーストリアの作曲家ヨハン・シュトラウス二世のワルツを聴いたりしているそばで、学校の同級生はオリビア・ニュートン= ジョンのポップソングに夢中だった(バルディッセラはわざわざ地図でミラノとウィーンの距離を示し、「高尚さとは程遠い」とおどけた)。移り住んだ先はロンドン。彼の息苦しさを解消してくれる土地だった。「名家の息子だったからじゃない。あまりに狭い世界だったから、ミラノを離れたんだ」。

 ロンドンで紆余曲折を経て家族をもった。このときの妻アレグラ・ディ・カルペーニャは元女優の美術療法士で、息子ふたりをもうけた。しかし2019年、イギリスのEU離脱が濃厚となったことも一因となり、バルディッセラは故郷に戻る決断をする(イタリアのトスカーナやモロッコのタンジェにも住まいがある。ガリスとはモロッコで出会った)。ミラノは活気ある街に変貌しており、まるで外国のように感じられた。しかし変わったのは街だけではない。彼自身も変化を遂げていた。「10代の頃はいやだったものが、今は心地よく感じられる」と本人は言う。「ここの事情が世間に筒抜けなことも気にならない。そのほうがやりやすい」

画像: キッチンにある戸棚は、南チロル地方でつくられたバロック様式。手前のテーブルの天板は1890年代のシチリア製。真鍮と木材の椅子2 脚は18世紀のもので、木の部分に金箔を施してある。

キッチンにある戸棚は、南チロル地方でつくられたバロック様式。手前のテーブルの天板は1890年代のシチリア製。真鍮と木材の椅子2 脚は18世紀のもので、木の部分に金箔を施してある。

 30年を経ても変わらなかったのが、カーサ・デリ・アテラーニだった。今から2年前にガリスとともにこの邸宅に転居し、主寝室ひとつを備えた83㎡ほどのスペースを住居にした。かつて乳母が使っていた部屋だ。バルディッセラいわく「とても信心深く敬虔」な女性で、彼女が住んでいた12年間、壁は真っ白のまま、装飾は少しのドライフラワーと十字架のみ。今、その部屋のエントランスを覆うのはヒョウ柄の壁紙だ。室内のサイドテーブルには石膏でできた30㎝の男性器が堂々と飾られ、その横には陶器のブタが一匹と、剥製のサルが数匹鎮座している。「おばにとっては、夜に窓越しにこの部屋が目に入るたび、アムステルダムの売春宿を見ているような気分がするだろうね」。せめてもの配慮として、ガリスがこまめにカーテンを閉めている。

 バルディッセラとガリスは、オーダー家具のブランド「カーサ・トスカ」の共同オーナーであり、数冊のデザインブックでもコラボレーションしている。ふたりは、ある意味で完璧にお互いを引き立て合う存在だ。バルディッセラは、本人いわく神経質で、創造的で、気分屋だ。ガリスは対照的で、「調達や資金管理など、私が絶望的に不得意な部分をすべて引き受けてくれる」そうだ。この邸宅のインテリアをどうするか考えていたとき、ふたりはたまたま、アメリカの劇作家ジョン・グェアの1990年の戯曲を1993年に映画化した『Six Degrees of Separation』(『私に近い6人の他人』)を見返した。ニューヨークの上流家庭に異質なゲイの青年が訪ねてくるというストーリーは、あちこちが彼ら自身の体験と重なるのだが、特にひとつのシーンが心に強く響いた。美術商の主人公が、ロシアの画家カンディンスキーの作品を披露する場面だ。絵は裏表両面に描かれていて、片面はおとなしく、もう片面は躍動感がある。美術商の妻が言う。「混沌、抑制、混沌、抑制」。この映画の部屋のように、自分たちも壁を赤とピンクにしよう、と提案したのはガリスだった。「何か提案して、ニコロがどう解釈するか見るのがすごく楽しいんですよ」

画像: ベッドルーム。1810年にイタリアでつくられたエジプシャンリバイバル(古代エジプトをモチーフにした装飾様式)の書き物机があり、その上に17世紀の油絵と、19世紀のカモノハシの剝製がある。

ベッドルーム。1810年にイタリアでつくられたエジプシャンリバイバル(古代エジプトをモチーフにした装飾様式)の書き物机があり、その上に17世紀の油絵と、19世紀のカモノハシの剝製がある。

 エントランスは壁だけでなく床と天井までヒョウ柄だ。バルディッセラに言わせると、「何の変哲もない狭いスペースだったのを、あえて『どうかしてる』空間に変えた」。このエントランスを抜けて階段を下りると、あたたかなダイニングルームにつながる。ヤシの木の鉢植えをいくつも置けるほど広い。曾祖父ポルタルッピがつくった木と大理石の円形のダイニングテーブルもある(奥のバスルームに大理石のパネルが使われているのも祖父のデザイン)。バルディッセラは6歳から、曾祖母が死去した1978年まで、毎週木曜の午後はきまってこのテーブルで食事をとっていた。当時食べていたベネチア料理を今でもときどき懐かしく思い出すという。窓から下を見やり、その庭園で幼少期に開いた誕生日会のことも振り返った。ジャガイモ袋に入って跳ねながら進む徒競走をしたこと。白いクジャクが悠々と歩き回っていたこと……。

 ダイニングルームの反対側がリビングで、そこにある家具の大半はバルディッセラ自身がデザインした。紫のパイピングを施したカラシ色のベルベット・ソファもそのひとつ(ソファの商品名は「カステリーノ」。背が波打つ形になっているのは、曾祖父ポルタルッピの代表的デザインへのオマージュだ)。円形のコーヒーテーブルはポプラ材で、表面にシタン材の薄板を用いた(これも曾祖父へのオマージュ)。八角形のラタン製サイドテーブルもある。部屋じゅうにさまざまなオブジェや芸術作品が置かれ、珍品博物館に迷い込んだような錯覚を抱かせる。居並ぶ剥製の前に、ピンクに紫を散らしたウールのラグが敷かれていて、これは友人のデザイナーが手がけるラグ・ブランド「フェドラ・デザイン」のものだ。ピカソの絵があったり、オベリスク(註:古代エジプトの記念碑)を模したマラカイトのオブジェがあったり、さらにはオスカー・ワイルドの本が積み重ねてある。

画像: 土産物や家族写真などがさまざまに並ぶ。母パトリツィアの肖像画はイタリアの画家グイド・タローネが描いた。ベッドは18世紀にジェノバで、チェストは17世紀にイタリア北部でつくられたもの。

土産物や家族写真などがさまざまに並ぶ。母パトリツィアの肖像画はイタリアの画家グイド・タローネが描いた。ベッドは18世紀にジェノバで、チェストは17世紀にイタリア北部でつくられたもの。

 ベッドルームは、18世紀にジェノバでつくられた錬鉄製のベッド一台を置ける程度の広さだ。壁はやや褪せた赤紫色で塗られている。「最初は緑色だったんですが、ちょっと強烈すぎたんです。あのプラム色も負けてませんけど、なぜか合ってるんですよね」とガリス。ベッドのヘッドボード側の壁には額装された絵画が何枚も飾ってあるが、ここにもバルディッセラらしい、あえての「反抗」
が紛れ込んでいる。石膏でつくられた、筋骨たくましい男性のヌード像だ。一瞬、十字架に架けられたキリスト像と見間違えそうになる。

画像: カーサ・デリ・アテラーニの中庭側の入り口。16世紀にイタリア北部でつくられたクルミ材の扉を、ローマのアンティーク装飾で縁取っている。並んでいる中世とルネサンス時代の像は、一族が6 世代以上にわたって収集してきたもの。

カーサ・デリ・アテラーニの中庭側の入り口。16世紀にイタリア北部でつくられたクルミ材の扉を、ローマのアンティーク装飾で縁取っている。並んでいる中世とルネサンス時代の像は、一族が6 世代以上にわたって収集してきたもの。

 その後、昨年9月末をもって、カーサ・デリ・アテラーニは一般見学者の受け入れを永久に打ち切った。実は1 年ほど前から、ラグジュアリービジネス界を支配するフランス人実業家ベルナール・アルノーがこの歴史的邸宅を買い取る、という噂があった。アルノーが会長兼CEOを務める多国籍コングロマリットのLVMHは、ロロ・ピアーナやブルガリなど、イタリアの由緒あるブランドをいくつも傘下に収めている。1 世紀以上にわたり邸宅を所有してきた一族は、当初、売却はしないと語っていた。だがほどなくして美術館を閉鎖し、邸宅を住まいとしてきた人々─バルディッセラとガリスを含め─が退去を始めた。

 2 カ月後の11月に、バルディッセラはモロッコのタンジェにある住まいで、電話取材に応じている。「あの屋敷には未来がなかったから」。そう語る声には安堵感があった。「あれ以上分割することもできなかった。6 世代も住んできたのが幸運だったんだよ」。彼の説明では、パリの大富豪アルノーが提示した金額が「天文学的」で、断れなかったのだという。アルノーが敷地をどう使うのかは明らかではないが(取材を申し込んだが回答は得られなかった)、個人の住居にするかホテルにするかのどちらかだろうと言われている。バルディッセラ自身は、高祖父の住まいをアルノーが改築して最初の絢爛豪華さを取り戻してくれたら、と期待している。

画像: 1950年代のブロンズ製シャンデリアはパリの蚤の市で購入。鏡は陶製の枠に。中央のダイニングテーブルは、バルディッセラの父方の曾祖父で、著名な建築家だったピエロ・ポルタルッピのものだった。ポルタルッピは1919年から邸宅の改築を始めた。

1950年代のブロンズ製シャンデリアはパリの蚤の市で購入。鏡は陶製の枠に。中央のダイニングテーブルは、バルディッセラの父方の曾祖父で、著名な建築家だったピエロ・ポルタルッピのものだった。ポルタルッピは1919年から邸宅の改築を始めた。

 売却が正式に成立したのは12月。その少し前から、バルディッセラとガリスは再びミラノに部屋を借りている。手放した邸宅から1.5㎞しか離れていないボルゴヌーヴォ通りにあり、前よりも少し広く、隣はジョルジオ アルマーニのアトリエだ。バルディッセラのおばたちと、その子ども3人と、さらにその子どもらを含め、かつて同じ屋根の下にいた親戚たちは邸宅からひとつ角を挟んだカーサ・ポルタルッピに転居した。バルディッセラの曾祖父ポルタルッピが1930年代に建てた、飾り気のない6階建ての建物だ。「みんなでぎゅうぎゅう詰めになって住んでいるよ」とバルディッセラは言う。「私に言わせりゃ悪夢だが」。でも、それは彼らの都合だ。誰もがそれぞれの都合で、そのときの生活を営んでいく。

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