崩壊寸前だった17世紀の邸宅を、建造物保全専門家の夫婦が蘇らせた。ふたりが証明したいのは多層的な歴史の美しさを示すこと──そしてカイロの街の営みを守って行くことの大切さだ

BY HUSSEIN OMAR, PHOTOGRAPHS BY SIMON WATSON, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA

画像: 図書室の西側からの眺め。

図書室の西側からの眺め。

画像: アラー・ハバシーと、その妻オーラ・サイードが12年かけてリノベーションしてきた建物、「バイト・ヤカン」の図書室。19世紀に手が入ったきりの天井が、2005年に崩落していたので、夫婦が蘇らせた。 上方の窓の周囲に建築図面を飾り、フロアには夫婦の親戚からもらいうけた家具などを置いている。

アラー・ハバシーと、その妻オーラ・サイードが12年かけてリノベーションしてきた建物、「バイト・ヤカン」の図書室。19世紀に手が入ったきりの天井が、2005年に崩落していたので、夫婦が蘇らせた。
上方の窓の周囲に建築図面を飾り、フロアには夫婦の親戚からもらいうけた家具などを置いている。

 アラー・ハバシーは2007年にその家と出合って以来、夫婦で15年もの歳月を捧げ続けている。建造物保全専門家として、エジプトの首都カイロのダルブアハマル地区で15世紀に建てられた宮殿─部屋数は190もある─の修復作業に数年越しであたっていた彼は、妻でエンジニアのオーラ・サイードとともに、その付近でひどく荒廃した館を見つけた。持ち主は精肉店の一家。少なくとも19世紀からあったと思われる廃墟のような建物で食肉解体業を営んでいた。約1,200㎡ある屋敷の一部が2005年に倒壊したので、家族は中庭に別の住まいを建て、敷地の残りの部分で家畜を育てていた。屋外では牛がのんびりうろつき、崩れかけた2 階では羊がぐるぐる歩き回る館を、近隣住民は「ゴミの庭」と呼んでいた─とハバシーは語る。その建物を夫婦が最初に見つけてから2 年後の2009年には、建設会社が持ち主に売却を持ちかけた。倒壊していない部分も更地にして高層マンションを建設するという計画だ。
 だが、持ち主の一家は、由緒ある邸宅をなんとか残したいと思っていた。建設会社ではなく、保全専門家の夫婦に買ってもらえないだろうか……? ハバシーが聞いたところでは、そもそも1805年にエジプト総督に就任し、エジプトの近代化を推し進めたムハンマド・アリー(1769〜1849)が、この地域にいくつもの邸宅を造らせたという話だった。邸宅は19世紀半ばに、ムハンマド・アリーの甥たちに与えられた。地域の人々は、トルコ語で「甥」を意味するyeğenからきた言葉「ヤカン(yakan)」を使って、付近を「ヤカンの場所」と表現したという。持ち主の一家が暮らしていたのは、おそらくその中で現存する最後の邸宅だ。1960年代まではムハンマド・アリーの甥たちの子孫が住んでいたが、最後の相続人が自分の面倒を見た看護師に家を譲るという遺言を残した。その看護師の親戚である精肉店の一家が住み続けていたというわけだ。

 ハバシーとサイードも、ぜひ歴史的建造物を守りたいと考えた。だが、近隣住民と長らくつき合ってきた夫婦は、これを単なる住宅ではなく、コミュニティの文化的ハブにしたいという思いを抱いた。1880年代の百科事典らしき書物には、中庭をもつ立派な邸宅がカイロ全域に600邸もあったと書かれている。現存しているのはおそらく30邸程度だ。市当局が「倒壊が近い」と指定した建物を保存するなら許可をとらなければならず、修復するにあたって面倒な手続きは多々あったものの、夫婦の決意は揺るがなかった。当初は役所から近代的なレプリカへの建て替えを提案されたが、エジプトのメノフィア大学建築学教授であるハバシーと伝統的なエジプト工芸の専門家でもあるサイードが、修復工事中に建物が倒壊した際には責任を負うという条件に合意し、2011年にようやく工事に着手できるはこびとなった。

画像: ハバシーとサイードがワークショップ開催に使っているホール。デスクとフロアランプはカイロの古美術品店で購入した。

ハバシーとサイードがワークショップ開催に使っているホール。デスクとフロアランプはカイロの古美術品店で購入した。

 それから2年以上をかけて、建物の構造補強が進められた。夫婦はこの邸宅を「Bayt Yakan(バイト・ヤカン)」と名付けた(baytはアラビア語で「家」という意味)。工事の途中で、これが実は1640年頃まで歴史をさかのぼる貴重な史跡であることがわかった。ハサン・アガー・コーカリアーンという名前の軍人が、「マムルーク」だった先祖たちの様式で設計し建てさせたものだったらしい。マムルークとは奴隷出身の兵士のことで、アラブ人以外の多様な民族で構成され、なかでもコーカサスやトルコ地方の出身者が多かった。彼らはやがて力をもち、エジプトおよびレバント地方(地中海の東部沿岸地方。シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルおよびパレスチナ自治区を含む地域を指す)で王朝を築いた。マムルーク王朝の建築物では凝った細工を施したアーチ型の石壁や幾何学模様、植物を表現したアラベスクデザインが好まれた。のちにムハンマド・アリーがこれらの邸宅を召し上げたのだ。住まいを与えられた甥たちは、かつての家主が選んだ構造や装飾を消し去り、壁の飾り柱を埋め、彩色された木製天井が気に入らない場所は部屋ごとつぶしてしまった。残した部分でも、マムルーク様式の装飾は、当時の流行だったバロック様式のヨーロッパらしい意匠で覆い隠した。

 邸宅の新たな持ち主となった夫婦には、復元にあたって、ある思惑があった。この家に住んだ人のさまざまな人生が見えてくるような、そして植民地支配と多民族移民社会の両方から影響を受けたカイロの重層的文化を反映するような、そんな形で邸宅を修復することはできないか。建築当初のマムルーク様式と、19世紀に行われた正反対の改築の跡を、現代的な配置で共存させることができるのではないか。遺跡や記念碑ならともかく、建築遺産に対してカイロ市当局はほとんど予算を投じてこなかったが、バイト・ヤカンを修復することで、この街のさほど古くない歴史にきっと関心が集まるはずだ。こうして工事が進み、11年がたった2022年6 月、新たに太陽光パネルによって電気が通った邸宅は、貴重な建築専門書を集めた図書館として、そして文化センターとしてオープンした。ハバシーの事務所と、ほかの研究者のためのスペースも整えてある。

 一般の住宅街にある歴史的遺産を修復するなら、現在の地域住民たちの意向もとりわけ考慮に入れなければならない。ハバシーのプロジェクトはその方法を探る実地研究でもある。当初は近隣の労働者階級の人々から反発を受けた。ただでさえ脆弱な自分たちの住居が、工事のせいで壊れるのではないかという不安の声もあったし、この邸宅にゴミを投げ入れることに慣れきっている人々もいた。夫婦はまず建物の構造的安全性を確保し、次に近隣住民たちをプロジェクトに巻き込むべく、食事に招いたり、話し合いに参加させたり、慎重にはたらきかけを進めていった。

画像: 中庭につながるアールデコ調の門扉。木工施盤で加工が施された20世紀初頭の木製ベンチに、エジプト製の絨毯をかけている。

中庭につながるアールデコ調の門扉。木工施盤で加工が施された20世紀初頭の木製ベンチに、エジプト製の絨毯をかけている。

画像: 図書室の奥にあるのは、ハバシーの母の自画像と、彼女が1960年代に使っていたダイニング家具。

図書室の奥にあるのは、ハバシーの母の自画像と、彼女が1960年代に使っていたダイニング家具。

 蒸し暑い夏の午後でさえ、分厚い石壁のおかげで屋内には静けさと涼しさが保たれている。大昔に壊された壁の一部だった古い石やレンガ、そして中央にあった噴水など、17世紀に造られた最初の土台を今では目にすることができるようになった。近所で別の邸宅が取り壊されたときには曲線を描く門に使われていた石を多数回収し、バイト・ヤカンの石門の復元に活用した。高さ6 m強のアーチ型石門の開口部には、中庭に向かって開く木製の二重扉も蘇らせている。1 階は地域住民が自由に使える場所だ。工芸ワークショップを開催したり、小さく囲まれた菜園でタイム、レモングラス、ローズマリーを摘んだりしている。
 ハバシーが行った最も複雑な工事は、2 階の外壁部分の修復だ。かつては壁ではなく、マムルーク様式の巨大な円柱3 本が支える広い開口部となっていて、円柱上部に幾何学模様の彫刻が施されていたのだが、ムハンマド・アリーの甥たちがレンガでふさいで壁にしてしまった。彼らは構造を支える柱も撤去し、窓を4 つと扉を造り、彫刻は漆喰で覆い隠した。漆喰はレンガの粉末で赤茶に染まっている。
 通常なら開口部を元通りに復元するのかもしれないが、ハバシーはそうしていない。窓のうちふたつを耐荷重性のあるシンプルな柱に入れ換え、19世紀に足された窓枠を額縁のようにして柱を収めた。赤茶の漆喰は少しだけ削り、マムルーク様式の装飾を露出させた(こうした階層を活かすアプローチは、歴史的建築物復元のパイオニア、20世紀半ばに活躍したベネチア出身のモダニズム建築家カルロ・スカルパの手法を思わせる)。

画像: 図書室。スチールと木材を使った階段はハバシーがデザインした。

図書室。スチールと木材を使った階段はハバシーがデザインした。

画像: 中央の中庭。17世紀に建てられたときの石壁が復元されている。家具はハバシーの祖母が使っていたもの。

中央の中庭。17世紀に建てられたときの石壁が復元されている。家具はハバシーの祖母が使っていたもの。

 屋内では、もっぱら2階の豪華な中央ホールの修復に力を入れた。無残な姿となっていたホールに、今は20,000冊もの書籍が並んでいる。上部が三角形になった壁のくぼみを書棚にして、そこに色褪せた本─1820年に設立されたエジプト初の国営印刷所、ブラク・プレスの本もある─を収め、手前にスチール階段を設置して高い位置の本に手が届くようにした。床はコンクリートで、真ん中の広い面積にチーク材をはめ込んだ。置かれた家具は主に20世紀初頭のもので、一部にシノワズリの品も混じっている(大半は、エジプトの湾岸都市アレクサンドリアでハバシーの親戚が所有する邸宅にあったものだ)。

 だが、この邸宅の重層的な構造を何よりもよく表しているのは、8 mほどの高さがある天井だ。中央には19世紀イタリア風の円形のモチーフが掲げられていたが、天井が崩れたときに落下して粉々になってしまった。ハバシーがかけらをパズルのように組み合わせて復元し、最初に建てられたときのマムルーク様式の天井と並べて配置した。縁どりは17世紀に彫られたムカルナスだ。ムカルナスとは鍾乳石のような形に彫って彩色した木やレンガ、石などで造られた装飾で、これも壁の後ろに隠れていたのだが、復元工事の途中で発掘された。このホールでセミナーを開催すると、集まった学生や建築家、歴史学者たちは、真っ先に天井に視線を向ける。彼らの目に映るのは、カイロの複雑な都市の成り立ちに永遠に織り込まれたふたつの文化がいきいきと、そして独創的な工夫で一体化した光景だ。都市は商業活動で活性化すると考える人もいるが、真実はもっと繊細に重なり合うものだ─とハバシーは言う。「経済が街の血流なのだとしたら、歴史的住宅は街の魂と言えるでしょうね」

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