「一番好きな料理はイタリアン。お菓子は、あんこよりも断然クリーム派。趣味は「旅」でも、国内旅行は仕事で訪れる撮影ロケ地くらいの経験値。日本の伝統文化や和の作法に触れないまま、マチュアな年齢となってしまった私ですが、この度、奈良の煎茶道美風流に入門させていただくことになりました。」そんなファッション・ディレクター、菅野麻子さんが驚きと喜びに満ちた、日本文化「いろはにほへと」の学び路を綴る。連載第四回目は、はじめてのお茶会のお話です

BY ASAKO KANNO

 入門させていただくとき、お家元に聞かれたことがあります。
「どこを目標にお稽古をしたいですか?」というような内容だったかと思います。ぽかんとしている私に、さらに説明を加えてくださいました。例えば、お茶会でお点前を披露したいとか、お免状をとるとか、看板を持ちたい、などの希望があるか、などなど。

画像: 10月、京都の黄檗山萬福寺で開催された「月見の煎茶会」。この日は十三夜で、美風流お茶席に続く小道はとてもロマンティックでした

10月、京都の黄檗山萬福寺で開催された「月見の煎茶会」。この日は十三夜で、美風流お茶席に続く小道はとてもロマンティックでした

 実は、お家元にお稽古をつけていただきたいと大それたお願いを申し上げておきながら、そのような目標は想像すらしていませんでした。
 私はただ、お稽古を重ね、超絶美味なお茶を自分で淹れられるようになるのが目標でした。お家元の「飲む人の精神性が茶の味をきめる」という言葉を耳にして、おいしいお茶の味がわかる人となるには、たくさんの学びが必要なのだろうな、と思ったのが入門を切望したきっかけです。「わざわざお家元にお稽古をつけていただくのに、この入門理由は志が低すぎるのでは…」。はたと気づくも、本当のところをお伝えするしかありません。まずは自分のために美味しいお茶を淹れられるようになりたいこと、教養として文人趣味や和文化を学びたいこと、学びを続けるうちにお免状などの目標がでてくるかもしれないけれど、未知の世界すぎて今は想像がつかないことも。

画像: お茶の花を煎茶に浮かべた、視覚的にも福々しいお茶。自然栽培の茶園をもつ、美風流だからこその一杯です

お茶の花を煎茶に浮かべた、視覚的にも福々しいお茶。自然栽培の茶園をもつ、美風流だからこその一杯です

 「そうですか、菅野さんのご希望はわかりました」。とお家元がおっしゃったような気がしますが、そのあとの質問が晴天の霹靂で、そのご返事の正確な文言の記憶が飛んでいます。家元がさらりと、こうおっしゃいました。「着物はどうですか?」と。「お茶会では、基本は着物を着ます」。
「キ・モ・ノ〜?」 ここ数年のなかでも、私ごとに限ればトップ3に入りそうな驚きだったかもしれません。自分がお茶会に参加させていただけるとも思っていなかったですし、私の妄想の範囲では、「大好きな骨董市を巡りながら、あのおままごとのような茶器を少しずつ収集してお茶を淹れたら楽しいだろうな」。「家族や友達にふるまったら、びっくりするんじゃないかしら」。といった、ひとり、こぢんまりとお茶を淹れて満足している光景しか浮かんでいませんでした。“お茶と着物は密接な関係にある”と、うっすらと認識はしていても、「お茶のお稽古=着物=自分が着る」の図式は頭に全くなく。着物とは無縁な生活をしてきたので、私にとって“キモノ”は憧れではあるものの、まるでおとぎ話の主人公がまとうお衣装くらいに遠い存在です。それも、正直にお伝えするしかありません。「人生の中で数回しか着たことがなく、何も知識がありません」。その時は、煎茶道というエベレスト級の高き山に挑戦しようと思ったら、着物というK2級の山まで出現したかのような気持ち。お家元は、ダメダメ入門者にお茶席での着物の装いを説明してくださったあと、こう付け加えてくださいました。「最初は洋服でかまいませんよ」と。
 生まれた時から、煎茶道の英才教育を受けてきたであろう4代家元にとって、一から十まで、こんなにも和文化を知らない成人がいるのかと、私の受けた衝撃以上に驚いていることは想像にかたくありません。それでも辛抱強く教えてくださるのは、形式的なことよりも、文人趣味の思想を楚とした、精神的豊かさを大切にしている流派だからだと思います。ありがたい限りです。

画像: 京都の黄檗山萬福寺は、明時代に来日した隠元禅師が開創。明朝様式を取り入れ、寺院内には異国ムードが漂います。隠元禅師は、煎茶道の開祖ともいわれるほか、インゲン豆やスイカ、木魚などを日本に紹介した人物なのだとか。現在も、全日本煎茶道連盟の事務局は黄檗山萬福寺におかれ、流派が一同に会する「全国煎茶道大会」なども、ここ萬福寺で開催されています

京都の黄檗山萬福寺は、明時代に来日した隠元禅師が開創。明朝様式を取り入れ、寺院内には異国ムードが漂います。隠元禅師は、煎茶道の開祖ともいわれるほか、インゲン豆やスイカ、木魚などを日本に紹介した人物なのだとか。現在も、全日本煎茶道連盟の事務局は黄檗山萬福寺におかれ、流派が一同に会する「全国煎茶道大会」なども、ここ萬福寺で開催されています

 さて、奈良に通い始めて2ヶ月。入門時には想像すらしていなかった「お茶会」という未知の領域に参加させていただくことになりました。お手伝いができるレベルでもないので恐縮の極みではありますが、勉強になるからと、お声がけくださったお気遣いが嬉しく、お言葉に甘え“洋服”にて参加させていただくことに。
 初めての大寄せの茶席見学、および、お手伝いをさせていただいたのは、京都・宇治に位置する黄檗山萬福寺での「月見の煎茶会」です。これは6流派の家元が集う煎茶会で、茶券を購入すれば誰でも入席できるお茶会です。萬福寺の広大な敷地に各流派のお茶席が点在し、人気の高い流派は長蛇の列に。美風流席の人気は高く、この日もすべて満席。お断りしなければいけないことも多かったほどでした。

画像: 茶席が始まる前、弟子たちに磬子(けいす)の音色を聞かせてくださるお家元。空気の澄み渡る音でした。お茶席の風景は、連載第1回目に掲載させていただいたお写真もぜひご覧くださいね

茶席が始まる前、弟子たちに磬子(けいす)の音色を聞かせてくださるお家元。空気の澄み渡る音でした。お茶席の風景は、連載第1回目に掲載させていただいたお写真もぜひご覧くださいね

 今回の美風流席のテーマは「香り 灯り 音」。薄暗い室内に灯された灯明が、心を沈めてくれます。香りは、松栄堂の「正覚」。上質な伽羅のみで製作した最上級のお香で、近年は伽羅の枯渇により、店頭にもほぼ置かれていない、稀少かつ非常に高価なお香なのだとか。深く息を吸い込むと、高貴で艶めかしい香りがしますが、香りに関してもド素人なので、この表現があっているのかもわかりません。いつかは、香りによって銘を感じる人になりたいものです。そして音は、萬福寺塔頭別峰院の、磬子(けいす)。読経の時にごーんと鳴らす、あの銅鉢です。さらに、明珍宗理作の風鈴も。磬子(けいす)の深い音色が心を静かに調律し、さらに風鈴の透き通るような音が心を洗ってくれるよう。この明珍の風鈴は、なんとスティービー・ワンダーが、「近くで響いているのに、遠くで響いているように聞こえる東洋の神秘の音色」と絶賛したのだとか。天才音楽家の表現は心にしみますね。

画像: 隠元隆琦による書の掛け軸と、秋の枯れ色が趣ある蓮の葉。蓮は、お家元が運営する自然茶農園「瑞徳舎」の庭の池から、茶席に“招き入れ”たもの。お家元は花を飾る時、よくそう表現されますが、素敵な言葉です

隠元隆琦による書の掛け軸と、秋の枯れ色が趣ある蓮の葉。蓮は、お家元が運営する自然茶農園「瑞徳舎」の庭の池から、茶席に“招き入れ”たもの。お家元は花を飾る時、よくそう表現されますが、素敵な言葉です

  “茶会のメッセージを伝える”といわれる掛け軸は、なんと、ここ黄檗山萬福寺創設の隠元禅師による貴重な書が飾られていて、つい見入ってしまいます。二文字で「神鐸(しんたく)」と書かれていますが、「鐸(たく)」とは、銅または青銅の大型の鈴のことで、古代中国では、教令を宣布するときに用いたのだとか。なるほど、だから萬福寺塔頭別峰院の希少な磬子(けいす)をしつらえてあるのですね。また、 「鐸(たく)」を日本国語大辞典で見てみると、風鈴の意味もあるようです。茶席には知的な遊びが散りばめられていて、教養のある人には謎解きが楽しいのだろうなと想像します。

画像: 売茶翁像。お茶会の2日前、美風流本部で開かれた勉強会にて、お道具の取り合わせを説明していただいた時の一枚。お道具の背景や物語を知ることができる、楽しい時間

売茶翁像。お茶会の2日前、美風流本部で開かれた勉強会にて、お道具の取り合わせを説明していただいた時の一枚。お道具の背景や物語を知ることができる、楽しい時間

 そして、売茶翁(ばいさおう)像が床の間脇の琵琶床に置かれます。売茶翁は、私は文人趣味WEBサロンに参加して初めて知った人物ですが、江戸中期を生きた、煎茶喫茶の祖とも言われる茶人です。この萬福寺で修行していたこともある黄檗宗の僧だったとか。のちに、佐賀県龍津寺の名僧と呼ばれたにもかかわらず、禅道と茶の湯の形式化への批判から僧職を辞し、寺を譲り京都へ。61歳で、東山に「通仙亭(つうせんてい)」という簡素な茶亭を建て、民衆にお茶や茶器を売り始めます。当時のお茶は高級品で、限られた階級の社交道具であった時代。しかも、士農工商という厳しい身分制度のなか、僧という高い地位を捨て、自ら商人の立場に身を置き、民衆に茶と禅の心を伝え歩いていったのだとか。その売り方は、お金をもっている人はいくら払ってもよく、貧しいひとには無料でお茶を振る舞う、というもの。彼の高貴で自由な精神がうかがえます。江戸時代には“言語芸術”とも呼ばれるほど高い教養であったという漢詩をはじめ、和歌にも堪能で、書家としても超一流の人物だったそうです。売茶翁のもとに庶民はもちろん、京都の貴族や知識人も集うサロンのような場所となり、「売茶翁に一服接待されなければ、一流の文化人とは言えない」と言われていたとか。奇才の絵師、伊藤若冲も売茶翁を敬愛したひとりで、若冲が唯一描いた人物が売茶翁なんですって。革新的で、教養のあるカリスマだったのでしょうね。

画像: 献茶式のワンシーン。中央に煎茶道美風流のお家元、左右に男性の弟子たちが並びます。「献茶式」といえば、美しい着物をまとった女性たちが登壇する華やかな式が多いそうなのですが、今回はあえてミニマルに男性だけが登壇。月台でのフォーメーションはお家元曰く、「ジャニーズのステージから思いついた」とのことですが(笑)、発想豊かで面白い師匠です

献茶式のワンシーン。中央に煎茶道美風流のお家元、左右に男性の弟子たちが並びます。「献茶式」といえば、美しい着物をまとった女性たちが登壇する華やかな式が多いそうなのですが、今回はあえてミニマルに男性だけが登壇。月台でのフォーメーションはお家元曰く、「ジャニーズのステージから思いついた」とのことですが(笑)、発想豊かで面白い師匠です

 さて、夕方から献茶式がとり行われます。「月見の煎茶会」では、各流派のお家元が毎年順番に献茶奉仕をつとめ、本堂に祀られた売茶翁にお供えするとのことでした。今年は煎茶美風流の献茶。初めて目にする献茶式の楽しみも倍増です。
 お家元の献茶式のテーマは、ズバリ「売茶翁」でした。売茶翁が茶席を抜け出し、月台でお茶を淹れる。そんな物語が、まるで舞台の脚本のように続きます。お道具は、お家元が『売茶翁茶道具図』の文献をもとに、売茶翁の道具一式を著名な工芸家さんたちに作っていただいたもの。また、当時飲まれていた、唐茶と呼ばれるお茶をお家元が復元し、おそらく売茶翁もこう淹れてれていたであろうという淹れ方で献茶したのだそうです。お経や磬子(けいす)が荘厳に響き、夜空には十三夜の月が輝きます。壮大な舞台を見るかのような光景に、この式に関わるたくさんの方が費やした時間や思いも重なり、胸が熱くなります。

画像: 儀式のあと、月台で観客に囲まれるお家元。気さくに見知らぬ人と言葉をかわし、余った茶葉を子供に包んであげたり。売茶翁もこんな感じだったのかなと想像します。手前にあるのは、客が入れるに任せていた“銭筒”を復元したお道具 PHOTOGRAPHS BY ASAKO KANNO

儀式のあと、月台で観客に囲まれるお家元。気さくに見知らぬ人と言葉をかわし、余った茶葉を子供に包んであげたり。売茶翁もこんな感じだったのかなと想像します。手前にあるのは、客が入れるに任せていた“銭筒”を復元したお道具
PHOTOGRAPHS BY ASAKO KANNO

 そうそう、初めてのお茶会でのもうひとつの初体験。それは、水屋のお手伝いをさせていただいたこと。旅先などで著名な茶室を見学させていただく際、裏にひっそり配されている「水屋」には、かねがね憧れがありました。かつて、そこでどんな話が繰り広げられ、そしてどのような作業がおこなわれていたのか興味がありましたから。その話はまた次回に。
 2カ月前までは、このような場所に自分がいるとも思わなかったこの景色。「香り」「灯り」「音」の魔法に五感を刺激され、とても豊かな気持ちになりました。

菅野麻子 ファッション・ディレクター
20代のほとんどをイタリアとイギリスで過ごす。帰国後、数誌のファッション誌でディレクターを務めたのち、独立し、現在はモード誌、カタログなどで活躍。「イタリアを第2の故郷のように思っていましたが、その後インドに夢中になり、南インドに家を借りるまでに。インドも第3の故郷となりました。今は奈良への通い路が大変楽しく、第4の故郷となりそうです」

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