目の前に淡く広がる日常の景色と、心に浮かびあがる光景をゆっくりとときほぐしていくーー。うたかたのように見えて澱となり、ほのかに香りだち、いつしか人生を味わい深く醸す日々のよしなしことを、エッセイストの光野桃が気の向くままに綴る。連載第十三回目は、紐靴にまつわる記憶をたぐりながら結んでゆく

BY MOMO MITSUNO

 家の近くに、新しい靴屋ができた。外からでは、靴屋とすぐにはわからないほど、いまどき珍しい、贅沢な全面ガラス張りのキューブ型の店だ。靴のディスプレイもすべて、透明のアクリルでできたサイコロが使われている。

 什器一つひとつに、それぞれの靴が同じ方向を向いてディスプレイされている。真っ白のスニーカーやテニスシューズ、カーキ色やネイビーブルーのハイ・カットのバスケットシューズ。ほとんどの靴がスポーツシューズだ。ふと中敷きに目をやると、このマーク、見覚えがある。でも信じられない。もしそうだとすれば、遥か昔、もう五十年か六十年ほど前に子どものわたしが履いていたうわばき用の靴だということになる。なんというサステナブル! 幼稚園タンポポ組、わたしのうわばき生活は、この靴とともに始まった。

画像: 黒のバレーシューズ。五~六十年くらい前にも同ブランドの、同じ形の靴を買ったことがある。今は外履きとしても便利。外履きにすると、ちょっとそこまで」履くのに、サンダルより重宝する

黒のバレーシューズ。五~六十年くらい前にも同ブランドの、同じ形の靴を買ったことがある。今は外履きとしても便利。外履きにすると、ちょっとそこまで」履くのに、サンダルより重宝する

 中学校から高校に進学すると、60年代の公立高校は校則がすべて廃止されたばかりだったから、校内には自由の風が吹き荒れていた。何を着てきても、学校帰りにどこへ立ち寄っても自由。真っ赤なバスケットシューズを上履きに選んだ六十年代の高校生にとって、それは驚きに満ちた大事変だった。

 しかし、いま履くのなら、やはり純白のテニスシューズしかない。好きだったけどなかなか縁がなかった、真っ白の紐靴。そう決めながら会計の方へと進むと、「お客様、そちらでよろいしいですか」と背後から静かな声がかかった。振り返ると、三十代後半ぐらいの男性が、もう片方の靴を手にして立っていた。「ごめんなさい、手に取ってしまいました」「大丈夫ですよ」
 彼は、名刺を渡してくれた。名前の上に店長、と肩書が記されている。

「お客様、靴をきれいにはいていただいてますね。」彼はわたしの前に回り込んで膝をついた。「い、いえ、こ、これは違うメーカーのです」
出がけに忙しく、磨きが間に合わなかったということもあり、その日履いていたスニーカーは薄汚れ、靴紐は表裏がねじれていた。店長は「靴紐を結び直してもいいですか」とひとことことわり、うなづくと、わたしの靴紐を一度すべて外しにかかった。

 それから下から上に向かって三つ目までの結びで脚をキュッと締める。大げさに言えば、固める、という感覚だろうか。次に一番上からほど良い強さに締めていく。それは、官能的ともいえるような気持ちよさだった。脚が靴の中で泳がない。遊ばない。皮膚に吸い付くような、独得の感覚。

「紐靴は、踵をふみつけたり、紐を結んだまま着脱するくせがついて足元がしっかり固定されないと、身体全体の骨格が安定しないんですね。「すると、身体の方も本来の体型が崩れます。本来の骨格から歳とともに崩れていって、のちのち腰痛や関節痛などを起こす要因になります。日本人はそういうことをあまり知りませんね。センスはいいけど、靴を愛してない……」
 下から見上げるようにして訴える彼の目に、うっすらと涙がにじんでいたように感じたのは、わたしの錯覚にちがいない。

 イタリアには、靴紐にひっかけて、こんな言い方がある。
ーー靴紐を結んであげていた。

 意味は言葉どおりだが、その奥には、幼い頃から、その子は家族に愛されていた、そしてその子も家族を愛していた、と言う意味がある。
――おばあちゃんは、彼の靴紐を結んであげていた。ーー

 まだ歩けないうちから、プクプクした脚をシックな色のタイツで包み、堅牢な革の靴を履いてお出かけする、イタリアの中産階級の子どもたち。そこには伝統的なイタリア・ファッションのルールがあり、彼らは息を吸うように、それを吸収し、自分のものにしてしまう。家族愛に培われたそれが、時に少しばかり鬱陶しいとしても。

画像: これはギリーと呼ばれる伝統的な紐靴。30年近く履いている靴だが飽きない。白、淡いピンク、黄色の三色が珍しく、気に入っているもの PHOTOGRAPHS BY MOMO MITSUNO

これはギリーと呼ばれる伝統的な紐靴。30年近く履いている靴だが飽きない。白、淡いピンク、黄色の三色が珍しく、気に入っているもの
PHOTOGRAPHS BY MOMO MITSUNO

画像: 光野桃(みつの もも) 1956年、東京生まれ。クリエィティブディレクターの小池一子に師事、その後、ハースト婦人画報社に勤務し、結婚と同時に退職。ミラノ、バーレーンに帯同、シンガポール、ソウル、ベトナムで2拠点生活をおくる。著書に『おしゃれの幸福論』(KADOKAWA)『実りの庭』(文藝春秋)『妹たちへの贈り物』(集英社)『白いシャツは白髪になるまで待って』(幻冬舎)など多数。

光野桃(みつの もも)
1956年、東京生まれ。クリエィティブディレクターの小池一子に師事、その後、ハースト婦人画報社に勤務し、結婚と同時に退職。ミラノ、バーレーンに帯同、シンガポール、ソウル、ベトナムで2拠点生活をおくる。著書に『おしゃれの幸福論』(KADOKAWA)『実りの庭』(文藝春秋)『妹たちへの贈り物』(集英社)『白いシャツは白髪になるまで待って』(幻冬舎)など多数。

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