第172回・芥川賞候補となった乗代雄介の最新作を含む3作をご紹介。ある場所から次の場所へ、ある時点から過去や未来のほかの時点へ。場所や時の移り変わりを言葉に換えた“ロードノベル”ともいえる氏の作品の魅力に、ぜひ触れてほしい

BY CHIKO ISHII

芥川賞候補作かつ最新作
『二十四五』

 乗代雄介の最新作で第172回芥川賞の候補になった『二十四五』は、初めて訪れた土地とそこで会った人々の言葉が、二度と会えない人の存在を浮き彫りにする小説だ。

「私」こと阿佐美景子の乗った新幹線が、まもなく仙台駅に到着する場面で『二十四五』は始まる。景子は後ろの席に座っていた女子大生に声をかけられ、そのとき読んでいた漫画本をあげる。発売されてから1カ月くらい経っているというその漫画本は、ヤマシタトモコが叔母と姪の絆を描いた『違国日記』の最終巻だった。景子は5年前に亡くなった叔母のゆき江のことを思い出す。

画像: 『二十四五』 乗代雄介 著、川名潤 装幀、イワクチコトハ 装画 ¥1,650/講談社 COURTESY OF KODANSHA

『二十四五』
乗代雄介 著、川名潤 装幀、イワクチコトハ 装画 ¥1,650/講談社

COURTESY OF KODANSHA

 乗代さんの小説の特徴は、現実にある風景の中に登場人物を連れてきて、ポップカルチャーから古典までさまざまな作品を引用しながら心情を描きだすところだ。文字なのに旅行Vlogのようなライブ感がある。景子は弟の結婚式に参列するため仙台に来て、空き時間に叔母と一緒に行こうと思っていた場所を歩いて回る。
 結婚式の前日、両家が顔をあわせたときのやりとりが印象深い。弟の洋一郎の結婚相手である弥子は幼なじみで、親たちも昔からの知り合いだ。今も距離は近い。しかし、景子は2年前に実家を出た。家族であっても少し遠いのだ。ひとりだけ異邦人のような景子が混ざることによって、思いがけない話が飛びだす。
 たとえば、弥子の母が1回だけ景子を見た雨の日のこと。傘をさして塾に洋一郎を迎えに来た景子がかっこよかったと話す。弥子の母が、傘のデザインや景子の手の形、すっとした立ち姿など細部を鮮やかに再現する。景子はもしそこに叔母がいたら〈この信頼に足る観察者から叔母と私の様子を聞き出すことができたのではないか?〉と考える。景子は何を見聞きしても叔母の記憶に結びつく断片を拾ってしまうのだ。
 その後の食事会で、景子は二つの賞を受賞した新進作家であることが明らかになる。弥子の両親は称賛するけれども、景子はあまり嬉しくなさそうで、弥子の母が素敵だと思った文学賞の選評も読んでいない。その理由を問われて〈人に何か言われたら、読まれたってことがわかってしまうじゃないですか〉と言う。 
 本になっているものを読んでほしくないなんて、弥子の母は理解できない。景子は〈叔母は、私が知るなかで最も本を読みながら私が訊かなければ本の話なんか少しもしない人間だった。そして、無邪気だった頃の私が自分の書いたものを最も読んでほしがり、年を重ねるごとに読まれるのを恐れ、でもいつか読んでくれるにちがいないと安心させもする、不整脈のように胸を縛るたった一人の読者であった〉と、またしても叔母のことを思い出す。

 叔母は何冊あるかわからない蔵書を遺し、自分では何も書かないで死んだ。〈不整脈のように胸を縛るたった一人の読者〉を失ったことが、景子の作家としての出発点なのだ。ほかの人には読んでほしくないのに、それでも書かずにいられなかった。複雑な心の動きを景子はなんとか言葉にしようとする。そのとき、重要な役割を果たすのが風景だ。
 景子が「地底の森ミュージアム」という施設を見学するくだりがいい。室内の底面いっぱいに、旧石器時代の針葉樹の根が網目を広げたように張り巡らされていて、シカの糞や焚火の跡が残っているという。どんな人たちがそこで焚火をしたのか、復元映画を見た景子は、椅子に座ったまま動けなくなる。叔母の痕跡を求めて、いかにも好きそうな場所に来たのに、そこに叔母の記憶はないと気づいたからだ。
 
 書くという営みには、過去にあったことを記憶という形で現在に呼び寄せて記録し、未来の自分に手渡すという一面がある。書いても書いても、時間が経つにつれて忘却の波にさらわれて、記憶は少しずつ削られてしまう。景子もいずれ叔母のことを書けなくなるのかもしれない。そんな予感が脳裏をよぎって悲しいけれども、冒頭に登場した『違国日記』の好きな女子大生と再会して、行くつもりのなかった場所に行くことで、違う世界が見えてくる。生きている人が変わることは、残酷な現実であると同時に希望でもあるのだ。

乗代雄介氏のデビュー作
『十七八より』

 実は阿佐美景子の物語は、乗代雄介がサリンジャーの「グラース・サーガ」(『バナナフィッシュにうってつけの日』『フラニーとズーイ』などグラース家の人々を描いた作品群)を意識して書いているライフワーク的なシリーズだ。群像新文学賞を受賞したデビュー作『十七八より』は、景子が高校生のときの話。自分のことを〈少女〉と呼んで、叔母が癌で死ぬ前の日常を描く。
 

画像: 『十七八より』 乗代雄介 著、岡本歌織(nest door design) カバーデザイン、カシワイ カバー装画 ¥671/講談社 COURTESY OF KODANSHA

『十七八より』
乗代雄介 著、岡本歌織(nest door design) カバーデザイン、カシワイ カバー装画
¥671/講談社

COURTESY OF KODANSHA

 両親の帰りが不規則で、弟も遅い時間まで塾で自習しているので、少女は父方の祖父の家でしばしば夕食をとった。叔母は祖父の眼科医院で看護助手や医療事務として働いていて、月に一度か二度、景子の逆さまつげを抜いてくれる。少女は叔母の書棚から本を借りて読み、さまざまなことを語り合う。学校では体育教師のセクハラに反撃をしたり、古典教師の読書会に参加したりする。
 古典教師に世阿弥が佐渡に流されたときのエピソードを聞くところ、叔母が〈一人でなければ遠くへ行けないなんて思っちゃダメよ〉と言うところなど、その後の景子の生き方に影響を与えている感じがする。
 ほかの阿佐美家サーガ「未熟な同感者」(『本物の読書家』所収)「最高の任務」(『最高の任務』表題作)「フィリフヨンカのべっぴんさん」(『掠れうる星たちの実験』所収)も読みたくなるだろう。ちなみに「フィリフヨンカのべっぴんさん」には、景子が叔母に『違国日記』の1巻を貸すシーンがある。

デビュー前から書き続けていたブログを著者が自選
『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』

『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』は、乗代雄介の原点。2001年から書き継いでいるブログを書籍化したものだ。全645ページ。面白い文章がみっちみちに詰まっている。
 最初の創作は、生徒を助けるため自ら橋になってワニがひしめく川の向こう岸に渡らせていた先生が絶体絶命の危機に陥る「横山大ピンチ」、神が悪口ばかり言い合っている人間に説教する「合言葉は」などユーモラスな掌編が多い。
 

画像: 『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』 乗代雄介 著、川名潤 装丁、ポテチ光秀 装画 ¥3,630/国書刊行会 COURTESY OF KOKUSHOKANKOKAI

『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』
乗代雄介 著、川名潤 装丁、ポテチ光秀 装画 ¥3,630/国書刊行会

COURTESY OF KOKUSHOKANKOKAI

「ワインディング・ノート」は長年書きためている読書ノートをもとにした文芸評論エッセイ。柄谷行人の『言葉と悲劇』に引用されていたスコラ哲学者サン・ヴィクトルのフーゴーの〈全世界を異郷と思うもの〉〈完璧な人間〉という言葉を軸に太宰治の作品を読み解いていく序盤から刺激的だ。乗代さんが書くことについてどう考えているのか理解する手がかりにもなる。
 書き下ろしの「虫麻呂雑記」は、2018年の冬に野間文芸新人賞を受賞する頃までの半年間についての話だ。同時期に阿佐美家サーガの「最高の任務」が芥川賞候補になったが〈今この時点では結果を知らないし、どうなったところで何の影響もないだろうし、それはいいだろう〉とか書いていて楽しい。
 文学賞をとろうがとるまいが、依頼されようがされまいが、乗代雄介はずっと書いてきたしこれからも書いていく。書くことでしか考えられないことを考えて、書くことでしか見えない世界を見続けるだろう。

画像: 石井千湖 近著「『積ん読』の本」(主婦の友社)が多くの書店のベストセラーリスト入り。“読書を愛する人”を増やし続ける書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経て、書評家、インタビュアーとして活躍中。新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿をはじめ、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。ほか著作に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、週刊誌の連載をまとめた『名著のツボ 賢人たちが推す! 最強ブックガイド』(文藝春秋)がある。

石井千湖
近著「『積ん読』の本」(主婦の友社)が多くの書店のベストセラーリスト入り。“読書を愛する人”を増やし続ける書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経て、書評家、インタビュアーとして活躍中。新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿をはじめ、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。ほか著作に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、週刊誌の連載をまとめた『名著のツボ 賢人たちが推す! 最強ブックガイド』(文藝春秋)がある。

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