川久保玲と山本耀司に先んじること10年、世界のファッションの常識を覆し、デヴィッド・ボウイとともにグラムロックの美意識を形づくったデザイナー。山本寛斎のクリエーションが、改めて注目されている。山本寛斎氏の訃報に接し、記事を再掲載する

BY ALEXANDER FURY, TRANSLATED BY CHIHARU ITAGAKI

 山本寛斎は横浜生まれ。土木工学を学んだのち、1962年に英語を学ぶため日本大学へ。28歳のとき、彼自身の会社「やまもと寛斎」を設立。同じ年、ロンドンでショーを開催。そのデビュー・コレクションは注目を集め、イギリスの『ハーパース・アンド・クイーン』誌の表紙を飾ることになった。その見出しは「トーキョー大爆発」。この最初のショーは評判を呼び、デヴィッド・ボウイの注目を引くことに。こうしてボウイの『ジギー・スターダスト』ツアーと『アラジン・セイン』ツアーを通して、寛斎の美学とポップ・カルチャーの間には強いつながりが生み出されることになった。

画像: 『ハーパース・アンド・クイーン』誌のカバーに使用されたルックを着た、モデルのブリット。撮影した与田弘志氏によると、この表紙を見て、デヴィッド・ボウイは寛斎にコスチューム制作を依頼しようと思いついたのだという © HIROSHI YODA

『ハーパース・アンド・クイーン』誌のカバーに使用されたルックを着た、モデルのブリット。撮影した与田弘志氏によると、この表紙を見て、デヴィッド・ボウイは寛斎にコスチューム制作を依頼しようと思いついたのだという
© HIROSHI YODA

 寛斎の服づくりは、日本の「婆娑羅(ばさら)」という概念の流れを汲んでいる。これは、カラフルで派手なものをよしとする美意識で、「わびさび」の考えとは正反対に位置するものだ。「わびさび」は、仏教における究極の美の形で、不完全な状態や、質素で粗末なものに美を見いだすというもの。寛斎のデザインには、「わびさび」はいっさい感じられない。逆に、彼の服が連想させるのは安土桃山文化だ。これは16世紀半ばから17世紀初頭にかけての短くも豪華絢爛な時代で、この時期の文化は奢しゃ侈しで装飾的、ときに力強く、攻撃的でさえある。これこそが「婆娑羅(ばさら)」なのだ。

画像: 生地を折りたたんだり、プリーツをつけたり、ひねったりすることで、寛斎はたびたび三次元的な表現を追求した。写真でマリーが着ているドレスには、日本の伝統的な組み紐の技術を利用した編み込みとフリンジがあしらわれ、三次元的な効果と動きの両方が加えられている © HIROSHI YODA

生地を折りたたんだり、プリーツをつけたり、ひねったりすることで、寛斎はたびたび三次元的な表現を追求した。写真でマリーが着ているドレスには、日本の伝統的な組み紐の技術を利用した編み込みとフリンジがあしらわれ、三次元的な効果と動きの両方が加えられている
© HIROSHI YODA

画像: アジアのアート、特に中国や日本の絵画によく見られる二次元的な表現技法が、ここではサテンのアプリケとインターシャ編みニットで表現されている © HIROSHI YODA

アジアのアート、特に中国や日本の絵画によく見られる二次元的な表現技法が、ここではサテンのアプリケとインターシャ編みニットで表現されている
© HIROSHI YODA

ファッション界随一のファンタジスト、山本寛斎が再ブームに<後編>

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