川久保玲と山本耀司に先んじること10年、世界のファッションの常識を覆し、デヴィッド・ボウイとともにグラムロックの美意識を形づくったデザイナー。山本寛斎のクリエーションが今、改めて注目されている

BY ALEXANDER FURY, TRANSLATED BY CHIHARU ITAGAKI

画像: 奴(やっこ)の隈取りが描かれた ケープを着たモデルのマリー。奴は、戯画化された姿で歌舞伎の舞台によく登場する。しかし、色使いは典型的な70年代のグラムロックテイストだ © HIROSHI YODA

奴(やっこ)の隈取りが描かれた ケープを着たモデルのマリー。奴は、戯画化された姿で歌舞伎の舞台によく登場する。しかし、色使いは典型的な70年代のグラムロックテイストだ
© HIROSHI YODA

 日本のファッションデザインについて語るとき、山本寛斎の名前はすぐに出てくるわけではない。ヤマモトと言えば、最初に思い浮かぶデザイナーはヨウジだ。山本耀司は、コムデギャルソンの川久保玲とともに80年代初期のパリで活躍し、西洋の着こなしの概念をひっくり返したことで知られている。

 だが、最初にそれをやったのは寛斎だった(紛らわしさを避けるためだろう、彼は名字の「山本」よりもファーストネームの「寛斎」で呼び習わされることが多い)。彼がロンドンでショーを開催したのは1971年。川久保玲のコムデギャルソンや、もうひとりの山本であるヨウジヤマモトのパリデビューよりちょうど10年早かった。そして、過剰ともいえる色とプリント、アジアのアートからの引用といった彼一流の美学は、今日のデザイナーたちに多大な影響を及ぼしている。

画像: 『ジギー・スターダスト』ツアーで来日したデヴィッド・ボウイと山本寛斎。寛斎のスタジオにて、1973年4月に撮影。ボウイが着ているのは、寛斎の制作した「スペース・サムライ」とでも呼びたいジャンプスーツ。日本の伝統的な紳士用着物である袴をベースにしてデザインしたものだ © MASAYOSHI SUKITA

『ジギー・スターダスト』ツアーで来日したデヴィッド・ボウイと山本寛斎。寛斎のスタジオにて、1973年4月に撮影。ボウイが着ているのは、寛斎の制作した「スペース・サムライ」とでも呼びたいジャンプスーツ。日本の伝統的な紳士用着物である袴をベースにしてデザインしたものだ
© MASAYOSHI SUKITA

 寛斎の名前を知らない人でも、彼のつくった服は見たことがあるはずだ。ほかでもない、デヴィッド・ボウイが着ている姿で。ざらついた化学繊維や高光沢のシルクを使い、違和感のある色使いで不協和音を奏でる彼の服は、けばけばしく、不快な気分にさせられるほど。構築的でアブストラクト・アートのようなシルエット(実用性など知ったことか!)は、スタジアム・ライブのステージで着たら映えそうだ。それこそが、最初にボウイを魅了したそもそものポイントなのだろう。1972年の『ジギー・スターダスト』ツアーから、ウィメンズウェアのコマーシャルラインとして発表された寛斎の服を着始めたボウイは、その後、彼にステージ用衣装の制作を依頼するようになった。

画像: 1971年のルック。マリーのつけた赤いヘアピースは、日本の歌舞伎や、連獅子の舞で獅子に扮する役者の衣装を参考にしている。獅子は、ライオンに似た架空の生き物だ © HIROSHI YODA

1971年のルック。マリーのつけた赤いヘアピースは、日本の歌舞伎や、連獅子の舞で獅子に扮する役者の衣装を参考にしている。獅子は、ライオンに似た架空の生き物だ
© HIROSHI YODA

 山本寛斎は、グラムロックの美意識を形成する一助となった日本人デザイナーだ。その特徴として挙げられるのは、カラフルな色使い、強く生き生きした装飾、ドラマティックなシルエット。現在73歳の寛斎は、今でも新たなデザインを生み出しつづけている。そして彼の美学は、2017年の今、改めて新鮮に目に映る。ロンドンでの最初のショーを受けて、イギリスの『ハーパース・アンド・クイーン』誌は、1971年7月号の表紙に彼のデビュー・コレクションを使用し、誌面でも特集した。撮影は与田弘志、モデルはブリット・マグヌソンとマリー・ヘルヴィンが務めた。

 

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