日本酒離れが進み、国内市場は1970年代をピークに縮小しつづけている。半面、原料や製法にこだわった酒は、日本はもちろん海外でも注目されている。この流れに乗り、日本酒業界の衰退にストップをかけようとしている人々がいる

BY MIKA KITAMURA, PHOTOGRAPHS BY TETSUYA MIURA

「日本酒応援団」とは、「日本酒のあるライフスタイルを、世界中に」とのコンセプトで、2015年に設立された会社の名称だ。代表取締役は古原忠直。自他ともに認める日本酒愛好家。日本酒のおいしさにはまり、たどり着いた先は「純米・無濾過(むろか)・生・原酒」。閉鎖的な体質が残る日本酒業界に、古原は新しい風を吹き込み続けている。「日本酒応援団」の事業内容をひと言で説明すれば、「各地の小さな酒蔵とコラボレートして日本酒を造り、販売する」。酒蔵を持っていないのに酒を造るとは、いったいどういうことなのか?

画像: 斗瓶取りでいちばん最初に出てくる酒を「あらばしり」と呼ぶ。くみたての酒は少し濁りがあり、香りは華やかでフレッシュな味わい(北西酒蔵) ほかの写真をみる

斗瓶取りでいちばん最初に出てくる酒を「あらばしり」と呼ぶ。くみたての酒は少し濁りがあり、香りは華やかでフレッシュな味わい(北西酒蔵)
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 2014年11月。飲み仲間のひとりが、実家である島根の掛合町の酒蔵「竹下本店」の窮状を訴えた。元首相・竹下登が当主だったことでも知られる歴史ある蔵だ。過疎化による人口減と飲み手の高齢化で、地元消費に頼っていた酒の売り上げが減少。ここ14年間は本格的な酒造りができず、生産量が減少しつづけていた。「小さな酒蔵がどんどんなくなり、僕たちの好きなタイプの酒が飲めなくなってしまう……。じゃあ、この蔵で自分たちが好きな酒を造ってみよう! すべてはそこから始まった。

2週間後には掛合町へ。以前働いていた蔵人に戻ってもらい、自分たちも1カ月ほど泊まり込み、手弁当で酒造りを手伝った。「日本酒応援団」のフェイスブックを立ち上げて手伝いを呼びかけたところ全国から人が集まり、初めて「純米・無濾過生原酒」のオリジナル酒を1タンク(720mℓ瓶2,500本分)造り上げた。「町の人たちにお世話になったので」と、酒の名前は町名の「KAKEYA」に。うま味のある爽やかな味は評判を呼び、3カ月で完売。地元のメディアや全国紙にも取り上げられた。

 この活動の記事に目を留めたのが、石川県能登町「数馬酒造」の代表、数馬嘉一郎だった。約150年の歴史ある蔵で、持続可能なものづくりをコンセプトに、地元の耕作放棄地を水田にし、その米で酒を醸している。「立派な蔵からパートナーの申し出をいただけて、次のステップへのきっかけになりました」

画像: 布袋に麹を入れて吊るすことで、もろみそのものの重みで自然に酒が滴り落ちる。余分な成分が押し出されることなく、華やかな香り、繊細な味わいに。タンクに渡した棒に、さらし袋を結わえつける作業は根気がいる(北西酒造) ほかの写真をみる

布袋に麹を入れて吊るすことで、もろみそのものの重みで自然に酒が滴り落ちる。余分な成分が押し出されることなく、華やかな香り、繊細な味わいに。タンクに渡した棒に、さらし袋を結わえつける作業は根気がいる(北西酒造)
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 古原は半年後の2015年7月、仲間3人と会社を設立。ボランティアとして活動してきたグループ名をそのまま使い、「日本酒応援団株式会社」とした。「まわりからは、頭でもおかしくなったのかと言われました」と古原は振り返る。新卒で就職した三菱商事から外資系の投資会社に転職。途中、米スタンフォード大学に留学し、MBAを取得している。その後ベンチャー・キャピタルに関わってきた経験から、起業に関してはある種の自信があった。

「ベンチャー企業が成功するための要素は『人』『モノ』『市場』と言われています。もちろん、これらは大切ですが、絶対欠かせないのが『人の熱意』だと僕は思っているんです。一過性の流行り(はやり)に飛びつくと必ず失敗する。うまくいっているベンチャー企業は一夜にして成功したように思われがちですが、どこも時間がかかっています。熱意=好きという気持ちがあるから、成功するまで持続できる。僕は熱意だけには自信がありました」

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