BY MICHIKO OTANI, PHOTOGRAPHS BY NORIO KIDERA
わずか1ミリに満たない細く繊細な線が、白くなめらかな地に伸びていく。最初は横に、そして縦に。ひとつの絵画が誕生する瞬間を、私たちは待っている。キャンバスは、直径15cmのケーキの表面。絵の具はクリーム。何が描かれるかは、小さな搾り出し袋を握った本人しか知らない。下から上へ、右へ、左へ。やさしく、しかし確かな意思を持って動く指先を、静かな工房の一角で、息を呑んで見つめている。
誕生日。結婚式。パーティ。人の笑顔が集まる席で歓声の的となるケーキは、ハレの気をまとった存在だ。艶やかなアイシング、華麗なデコレーションは、いつでも私たちの目を楽しませ、頰をほころばせる。
描かれる花の定番といえば、大輪のバラ。そんなイメージを抱いて洋菓子職人・武藤邦弘さんのケーキに向き合うと、その可憐さにハッとさせられるだろう。フラットなケーキの上に咲くのは、スミレやタンポポ、カモミールなどの野の花。極細のクリームの線で描かれた花々に、ススキやガマの穂などの山野草が、自然そのままの佇まいで添う。
「地味でしょう? もちろん、TPOに合わせて華やかなデコレーションをするときもありますが、個人的にはやはり野草に魅力を感じますね。いたって根暗な、職人趣味です」
東京・自由が丘にほど近い住宅街に洋菓子店「パーラー ローレル」を開いて、今年で39年。その武藤さんのスペシャリテが、昭和世代には懐かしい、バタークリームを使ったデコレーションケーキである。生クリームのケーキが主流になった現在も、濃厚なコクと風味で人気が高い。
「バタークリームといっても、砂糖と油脂の塊だった昔のものとは違って、進化しています。うちでは5分から10分かけて泡立てて、うんと空気を入れてやる。そこにリキュールを加えると、軽くてマイルドな魔法のクリームになるんですよ」