TEXT AND PHOTOGRAPHS BY YUKO IIDA
雨が多い4月のロンドンも、やがて少しずつ日照時間が伸び、やがて夜の9時過ぎまで明るい日々――いわゆる「イングリッシュ・サマー」の季節へと突入する。4月末から10月までのサマータイムを、現地ではこう呼んでいる。植物たちは、太陽が力強さを増すのにつれて目覚めの時を迎え、イギリスの人々もまた、そんな植物たちの生命力に促されるように心の扉を開いていく。明るい色をしたコートやシャツを着た人々が街を行き交い、公園で犬を連れて散歩する人の表情もどこか和らいでくる。
イギリスのこの季節が、私はことに好きだ。サマータイムが始まり、春から初夏へと移り変わる5、6月はいちばん気持ちのいい季節だ。命を謳歌しつつ、どこか控え目で、でも目が合えば、お互いに「今日は素敵な一日ですね」という意味を込めたほほ笑みを交わしあう。そんな成熟した個人同士が暮らす街ロンドンの中でも上質で自由な雰囲気の漂うチェルシー界隈は、この季節、さらに特別なにぎわいを見せる。
そのにぎわいは、イギリス中の熱が上がると言っても過言ではない一大イベント、「チェルシー・フラワーショー(RHS Chelsea Flower Show)」の開催と無縁ではない。イギリスの王立園芸協会(RHS)主催。毎年5月に開催され、春の大祭典(Thegreat spring show)という正式名称もある、まさに正真正銘の“春を告げる”イベントなのだ。ショーの起源は1862年。この歴史ある催しには、イギリス人の植物への思いのたけがよく現れている。
ショーに参加するのは、世界各地のプロの園芸家やランドスケープデザイナーと呼ばれる人たち。近年は日本人作家の活躍もめざましい。会場内に入ると、斬新なデザインの庭や環境に配慮したものなど、植物と人がコラボレートした作品が各所に展示され、飽きることがない。しかし、そんなショー的な魅力もさることながら、私は会場の中心にイギリス人流のピクニックサイト(ピクニック用のスペース)が設けられていること、また、その雰囲気が中世の絵画に描かれた情景となんら変わらないことに、いっそうの旅心地を感じたのだった。
重い雲が垂れ込め、朝から夕方まで日差しもうつろで陰鬱な冬のロンドンにも何度か訪れた経験がある。確かに、魔女が徘徊しそうな石畳の小径や、博物館の中の古い遺物にもロンドンらしさがあるに違いない。そんなロンドンやイギリスの風情にも惹かれるが、だからこそ、緑の芝の絨毯の上に足を伸ばしてじかに座り、紅茶やサンドウイッチをほおばる開放的なイングリッシュ・サマーの風景はことさら輝いて見えた。
そしてチェルシー地区でもうひとつ、私のお気に入りの場所がある。フラワーショー会場からほど近い「チェルシー薬草園」(Chelseaphysic garden)だ。1673年に作られたイギリスのオックスフォード植物園に次いで古い植物園である。園内の植物は薬草に特化されている。私はここへ、ロンドン在住のハーバリストに連れて来てもらった。
中に入ると、薬効や植物の来歴を記した標識とともに植物が植えられている。そして、庭の中央には、笑みを浮かべたハンス・スローン卿の銅像がある。スローン・スクエアという地下鉄の駅名もあるように、スローン卿はこの界隈の地主である英国4大名門の一族、ガドガン家の祖に当たる。彼は大英博物館の創設に大きく貢献した自然科学者でもあった。大英帝国が世界の海へ船を遣わしていた当時、珍しい植物の種や苗を収集し、持ち帰ってはスローン家の菜園であった敷地に植えたと伝えられている。その名残が今、ロンドンの中心地に1.62ヘクタールものガーデンとして残っているのだ。
鎮痛剤として普通に使われているペニシリンも、もとは亜熱帯の植物由来である。七つの海を越え、当時の開拓者たちが命を賭けて入手したであろう薬草が、この庭で育てられている。それが今も医療や薬学の現場で世界の人々の命を救っていることを思いつつ、こぢんまりしたカフェでお茶を飲んだ。お茶の友には、イギリス人のソウルフードともいえるビクトリア・スポンジ・ケーキをいただくのがこの場にふさわしい。シンプルで大ぶりなスポンジケーキに、イチゴジャムとバタークリームを挟んだだけ。そんな素朴な味に合わせるのはホワイト・ティー(紅茶に牛乳を入れたもの)。質実剛健なイギリス人らしい味わいだ。
夕方までこの界隈で過ごし、テムズ河を挟んで向こう岸にベルト状に広がる緑のバターフィールド公園を歩く。こうした広い公園の存在が、ロンドンという都市にいながらゆったりとした気分にさせてくれる。テムズ河にかかる橋の成り立ちや、その時代に思いを馳せるのもいい。この河を通過して世界の海へと旅立っていった船たち。そうして世界から収集された物を研究し、分類、保管する博物学を発展させたイギリス人の類まれなる気質と才能は、現代の人間や世界にとってもかけがえのない、有意義なものをもたらした。
翌日はロンドンから車で少し足を伸ばして、郊外のラベンダー畑を訪れた。地平線まで一面の紫色花が揺れ、香りは風に乗り、心身ともに癒してくれる。ラベンダーは鎮静効果、抗炎症作用があり、もちろんアロマテラピーに使う香りとしてその効果を感じる人は少なくない。
そして、自然のフィールドを歩くのが何よりも好きなのがイギリス人だ。郊外には必ずあるパブリック・フット・パスと呼ばれる小道は、牧草地から人の土地、畑をも縦断しているので、イギリスの友人と犬を連れて散歩をしたときには、カモミールの畑を通り抜けた。そしてフェンスの脇に早咲きのエルダーフラワーを見つけては摘み、家に帰ると早速シロップを作ったのだった。イギリス人の感じる旬が、日々の営みの中のハーブに生かされていた。
旅人として、イングリッシュ・サマーの緑や花を愉しむことは、イギリスの人たちと喜びを分かち合うこと。気負いない、ふだん着の喜びや知恵に触れることが、旅の最善の方法だと私は思っている。
飯田裕子
写真家。1960年東京に生まれ、日本大学芸術学部写真学科に在学中より三木淳氏に師事。沖縄や南太平洋の島々、中国未開放地区の少数民族など、国内外の“ローカル”な土地の風景や人物、文化を多く被写体とし、旅とドキュメンタリーをテーマに雑誌、PR誌で撮影・執筆に携わる。現在は千葉県南房総をベースに各地を旅する日々。公式サイト