福岡の伝説のホテル「ホテル・イル・パラッツォ」がこのたび、リニューアルして再生。1989年のオープン当時、ここを手がけた内田繁が描いていた街づくりとはどのようなものだったのか。それはどのように継承され、現代に甦ったのかを現地に赴き、考察した

BY KANAE HASEGAWA

 10月1日、伝説のホテル イル・パラッツオが甦った。ホテル イル・パラッツオは1989年、九州きっての繁華街、福岡中州地区に隣接する春吉地区に誕生した。戦前は夜の盛り場として賑わったものの、戦後は廃れていた春吉地区に、ホテルだけをデザインするというより、街づくりの起点として計画がなされた。インテリアデザイナーの内田繁によるディレクションのもと、建築をイタリア人建築家のアルド・ロッシが手がけ、ホテルインテリアと客室、家具類は内田繁と三橋いく代が、バーをアルド・ロッシ、エットーレ・ソットサス、ガエターノ・ペッシェ、倉俣史朗がデザイン。綺羅星のごとくデザイナーが関わり、さらにグラフィックデザインを田中一光が担当した。‟デザインの中で泊まる、食べる“日本初のホテルとして話題を呼んだ。当時、これほど多くの名だたるデザイナーがひとつの建築に参加することは、日本において画期的な出来事だった。

画像: 建物は日本の寺院などからもヒントを得て、西洋と東洋の融合を目指してデザインされた。また、外壁と列柱にイラン産の赤いトラバーチン大理石、銅という伝統的建築素材を用いることで、すでに何十年も前から存在しているかのように時代に流されないタイムレスさを追求した。イラン産の大理石を選んだのは建築家にとってイランが東洋と西洋のクロスロードにあたるとの考えから PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

建物は日本の寺院などからもヒントを得て、西洋と東洋の融合を目指してデザインされた。また、外壁と列柱にイラン産の赤いトラバーチン大理石、銅という伝統的建築素材を用いることで、すでに何十年も前から存在しているかのように時代に流されないタイムレスさを追求した。イラン産の大理石を選んだのは建築家にとってイランが東洋と西洋のクロスロードにあたるとの考えから

PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

 ホテルの建物は、階段を設けた基壇によって地上階(グラウンドフロア)と上層階(ピアノ・ノビーレ)が外観からはっきり分かれた、ルネサンス期の典型的な富豪の邸宅様式を想起させる。ルネサンス期の邸宅では地上階にパブリックスペースや使用人の部屋が配され、上層階がプライベートな住まいとなっていた。イル・パラッツオも、イタリア語で邸宅を意味するパラッツオとあるように、伝統的な邸宅のプランを取り入れて、下層階は街に開かれたレストランやバーを、上層階にプライベートな客室を配していた。春吉地区をくまなく歩いて観察したアルド・ロッシは、街づくりの文脈から4つのバーをホテル本体から切り離した別棟に配し、街の人々が気軽に立ち寄ることができるようにした。バーが軒を連ねるように並ぶアイデアは、周辺の屋台が並ぶ光景を意識したものかもしれない。

画像: ホテル本棟の両側に離れの別棟を設け、4つのバーを配した。本棟と別棟の間はイタリアの街のように敷石を詰めた路地を作り、街とつながるホテル自体が一つの街区を形成した PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

ホテル本棟の両側に離れの別棟を設け、4つのバーを配した。本棟と別棟の間はイタリアの街のように敷石を詰めた路地を作り、街とつながるホテル自体が一つの街区を形成した

PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

 当時は日本の株価が最高値をつけ、好景気に沸いた時代。ひとつのホテルにバーが4つもあり、いずれもが劇場のようなドラマチックなインテリア。落ち着くというよりは、酔いしれたくなる夢のような空間だった。そんなホテルが、首都の東京ではなく、福岡に誕生したのだ。「東京であれば、天井の見えない土地代に持っていかれてしまうところを、福岡であれば、建物本体に潤沢な予算を充てることができた時代」と、福岡を拠点に国内外でアートギャラリーを運営する中牟田洋一氏は振り返る。また、当時を知るインテリアデザイナーの夏目知道氏はこんな風に述懐する。「美術大学では華美を抑制し、機能主義に徹するデザイン教育が進められていた当時、イタリアの建築家やデザイナーによる大理石などの高級素材をふんだんに用い、色彩が躍るホテルのデザインに、デザイン学生の多くが憧れと解放感を覚えたんです」。

画像: 1989年当時、エットーレ・ソットサスがデザインしたバー PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

1989年当時、エットーレ・ソットサスがデザインしたバー

PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

画像: 1989年当時、アルド・ロッシがデザインしたバー PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

1989年当時、アルド・ロッシがデザインしたバー

PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

画像: 1989年当時、ガエターノ・ペッシェがデザインしたバー PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

1989年当時、ガエターノ・ペッシェがデザインしたバー

PHOTOGRAPH BY NACÁSA & PARTNERS

 それから34年、1980年代の息吹やデザインの力を信じたデザイナーたちの冒険心から生まれた、社会資産としてのイル・パラッツオを今に伝えようとホテルが生まれ変わった。リニューアルにあたっては、往時のデザイナーの想いと時代性をできるだけ継承しながら、現代の旅人が求める心地よい場づくりを目指した。かつて、海外アーティストのライブも多数おこなわれてきたディスコが存在していた地下空間にはレセプションとレストランラウンジを新設。 開業時、敷地内の別棟に開業した4つのバーは全て営業形態の変更にともない、インテリアがすでに取り壊されていたなか、唯一残っていたアルド・ロッシのデザインによる日本酒バーの「EL DORADO(エル・ドラド)」の酒棚をラウンジの壁面に移設した。また、内田繁の晩年の作品である水面が波打つインスタレーション「ダンシングウォーター」をラウンジに配置し、往時の記憶を伝える。格子やストライプといった垂直、水平性が強調されたデザインは1980年代デザインを象徴する要素としてリニューアルにおいても活かされた。一方で、色彩は外観の象徴的な赤、緑の色を室内につなぎつつ、現代に合わせて落ち着いたトーンに抑えて用い、インテリア、家具に配色している。

 内田繁は生前、数年でなくなってしまう消費されていくデザインに対して、幾分の抵抗を感じるとともに、デザインが持つ、良くも悪くも社会的インパクトについて考え、デザインや空間をアーカイブすることの大切さを語っていた。34年経ったホテル イル・パラッツオは、1980年代という時代に、多くのデザイナーの才能が結集して生まれた無二の場をアーカイブした美術館のような存在だろう。

画像: かつて、海外アーティストの公演も多数おこなわれてきたディスコが存在していた地下空間に、レセプションとラウンジを新設 PHOTOGRAPH BY SATOSHI ASAKAWA

かつて、海外アーティストの公演も多数おこなわれてきたディスコが存在していた地下空間に、レセプションとラウンジを新設

PHOTOGRAPH BY SATOSHI ASAKAWA

画像: 客室は非日常性よりも落ち着けることが大切と考え、カラートーンもパブリックスペースと異なり、ニュートラルにし、機能性を重視したデザインに変更 PHOTOGRAPH BY SATOSHI ASAKAWA

客室は非日常性よりも落ち着けることが大切と考え、カラートーンもパブリックスペースと異なり、ニュートラルにし、機能性を重視したデザインに変更

PHOTOGRAPH BY SATOSHI ASAKAWA

 このホテルがコンクリート建築であったら、30年の間に取り壊されていたかもしれない。しかし、外壁すべてが大理石という、壊すに壊せない素材だったから建物の存続につながったのかもしれない、奇跡のホテルだ。

 内田繁とアルド・ロッシにとって、街づくりとはどのような意味を持っていたのだろう?当時、内田の事務所の若手であり、現在所長を務める長谷部匡氏はこう振り返る。
「すべてが計画的に再開発され、商業的につくられるというより、自然発生的な要素も踏まえ、人々が行き交い、多くの出来事や体験が重なっていく、ということかもしれません。街には光も多少の闇もあって、そこから街のエネルギーが生まれていくものです。はじめから固まって計画するのではなく、意図しなかったゲリラ的な余白や余地のようなものを残すのも街づくりのやり方なのかもしれません」。

 内田繁が当時、思い描いた「時代とともに生き続ける地域に根付いた社会資産になるべきもの」を感じに、ミュージアムのようなホテル イル・パラッツオに滞在してみたい。

HOTEL IL PALAZZO
住所:福岡県福岡市中央区春吉3-13-1
公式サイトはこちら

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