PHOTOGRAPH BY MARI MAEDA AND YUJI OBOSHI



 かつて、アーティストが二足のわらじを履いていた時代があった。といっても「ベルディの新作オペラを買うよう議会図書館に提案する」といったいかにもそれらしい仕事ではなく、芸術とはおよそかけ離れた職業をかけもちしていたのだ。選挙演説のネタにされるような、ごく「普通の職業」との両立である。


たとえばT・S・エリオットは、日中は勤務先のロイズ銀行で外国籍の口座を管理するかたわら、夜の時間を使って『荒地』(1922年刊行)を書きあげた。詩人のウォレス・スティーブンズは保険会社に勤務して、不動産の権利に関する法務を任されていた。彼は約3キロの通勤経路を歩くあいだに走り書きした詩を秘書に渡して、タイプライターで清書してもらっていた。前衛的な作曲家のフィリップ・グラスは、配管工事の道具を抱えて作業服姿で現場に現れ、修繕を依頼した家主の音楽愛好家を驚かせたことがある。そのときの様子を、ガーディアン紙のインタビュー(2001年)でこう語っている。


「作業中に突然物音がしたので顔を上げると、タイム誌で音楽評論を書いていたロバート・ヒューズが、信じられないといった様子で私を凝視していた。『フィリップ・グラスさんじゃないですか! いったいここで何をしているんですか? 』ってね。見てのとおり食洗器を取りつけているところで、じきに終わりますと答えた。でも彼は、『しかしあなたは芸術家でしょうが!』としつこいんだ。芸術家だけど、ときどき配管の仕事もやっているんだと説明し、仕事の邪魔をしないでくれと頼んだよ」


 はたして、芸術家の働き方とはどうあるべきなのか? グラスの体験談が示唆するのは、一般の人々が往々にして、芸術家について「ペントハウスのアトリエにこもって制作に明け暮れ、姿を見せるのはパーティや作品のオープニングのときだけ」といったイメージをふくらませているということだ。だが、そもそも「芸術家」とは、天才に対する私たちの熱烈な憧憬が生みだした、比較的新しい概念なのだ。人々が空想する芸術家は、働かない。たぶん、大金を稼げるから働く必要などないのだ。その結果、芸術家の才能は、まるでもろい絹の布地のようにダメになりやすい。あるいは、そもそも彼らは実像以上の評価を得ていただけなのかもしれない(いずれにせよ彼らは「普通の仕事」からはますます遠ざかる)。


しかしこの半世紀を振り返ると、高名な画家たちでさえ食うや食わずの時期を経験している。アメリカの画家デイビット・サルは1979年に初めて個展を開いたときはまったくの一文なしで、当時まだ若かったアート・ディーラーの大御所、ラリー・ガゴシアンのロフトを会場に使わせてもらった。「1970年代のニューヨークでは、アートで食べていけるようになるなんて期待しないのが当たり前だった」と、彼は2005年の講演で打ち明けている。80年代になって、サルの作品がニューヨークを代表する美術展に出展されるようになると、名声を得たことで日銭を稼ぐ必要がなくなり、「ほぼ毎日、自分のスタジオでひとり静かに、制作に打ち込めるようになった」という。どうやら芸術家の成功とは、ほかの仕事をしなくても、アートだけで十分な金を稼げるようになった状態を指すことが多いようだ。


 現代のクリエイターが(多くは必要に迫られて)ほかの仕事を求める場合、自分の才能やスキルを活かせる分野で探すことがほとんどだ。たとえばデイヴ・エガーズやレイ・ブラッドベリのように、小説家たちは脚本を書く。ジェイムズ・ディッキーのように、詩人は広告マンになる。彼はコカ・コーラの担当で巧みな広告コピーを書いたが、締め切りを守れず解雇された(「一日じゅう悪魔に魂を売り、夜になるとそれを取り戻そうとしていた」と、ディッキーはのちに述懐している)。スティーブン・ダンにとって、企業宣伝のコピーライターの仕事は本来の職業の生気を失った投影であり、詩が太陽だとすれば、それは月だった。月が太陽の輝きを利用して光るように、“ゼロサム空間”である宇宙ではあらゆる要素が足し合わさると、その和はゼロになるはずなのだが。


また一方、画家たちは壁にペンキを塗り、看板を描く(ウィレム・デ・クーニングの場合は大工の仕事もしていた)。マドモアゼル誌で文字をデザインしていたバーバラ・クルーガーのように、画家がグラフィック・デザイナーの代わりをすることもある。彫刻家は舞台装置をつくる。たとえばアレクサンダー・カルダーは、エリック・サティが1936年に声楽とオーケストラという編成で『ソクラテス』を上演したとき、背景幕の制作を担当した。スチールの輪と絡み合う赤い円盤、白黒の四角いオブジェ、青緑色のスクリーンというシンプルな背景幕は、サティの作品に不気味な感じを加えていた。