BY KATY WALDMAN, TRANSLATED BY MAKIKO HARAGA
本業の支えになるから、社会の一員としての務めを果たせるから、という理由で芸術を追求する人もいる。英国で現役の警察官として働くギャヴィン・パケットは、子ども向けの物語を書くことで「人として自信をもてるようになり、それが警察官としての成長にもつながっている」という。1998年に警察官になったパケットは、2013年に『Fables From the Stables』のシリーズで、とある文学賞を獲得しているが、今でも警察の仕事が主な収入源だ。韻文で綴ったデビュー作の冒険物語『Murray the Horse』のアイデアを思いついたのは、馬のいる農場を通りかかったときだ。車のラジオから「後ろ向きで競うスポーツ」を話題にするアナウンサーの声が聞こえてきて、後ろ向きに走る馬のストーリーが頭に浮かんだ。物語を書いていると「柄にもないことをやっている」という違和感をいまだにおぼえるそうで、彼は私に「警察官としての務めが最優先です」ときっぱり言った。
自分の意思とは関係なく、芸術に呼ばれるタイプの人もいる。アルバニアのエディ・ラマ首相は、政治的な決断について熟考している最中に、いつの間にか自分の手が落書きを始めていることに気づくことがある。アートが降りてきて心を静めてくれるのだという。ラマはパリに住み、画家として将来を嘱望されていたが、1998年にそのキャリアを捨ててアルバニアの文化大臣となった。首相になった今も、即興で描いたようなくだけた作風の絵や彫刻を世界各地のギャラリーで披露している。2016年のインタビューでは、次のように話していた。「執務室で人と会っているときも電話で話しているときも、仕事中はたいてい何かを描いています。手が勝手に動くのは、困難な課題に意識を集中しているとき平静を保つよう、無意識の自分が働きかけているのではないかと思うようになりました」
この方程式の中ではアートは野性的ではかない存在だが、ラマという政治家を安定させる役割を果たしている。いや、政治がアーティストとしての彼をたきつけるのか? 医者で詩人のウィリアムズとは違い、ラマは日中の執務を作品のテーマにすることはない。自分が意識する前に、自動的な流れに身を任せて描くことにしている。とはいえ、政界の喧騒があるからこそ、描いているときの静寂はより神秘的で研ぎ澄まされたものになるのだろう。1年前、アルバニア政府の中核をなす建物の壁に、ラマは自身の作品を飾った。「政治の独特な事情も争いも存在しない」世界のことを思い出し、つい忘れがちな自由を大切にするためだ。
「アトリエにこもりっきりの芸術家」に話を戻そう。浮世離れしていて、ただひとつのことしか見えない。料理はできないに等しく、ほかに趣味をもつなどという発想もない。こういったタイプの芸術家が、文化的に高く評価されるようになった。一方、多くのことに秀でていた、あのルネサンス時代の芸術家に対する礼賛は鳴りを静めている。西洋文化の礎を築いた創作家の一人、レオナルド・ダヴィンチである。広範に解釈しすぎるという批判を承知で言えば、彼は少なくとも12を超える職業(地図製作者、エンジニア、画家、建築家など)をもっていた。だが今の世の中では、トム・ハンクスが短編小説を書いたり、コメディアンのスティーヴ・マーティンが物語の執筆に挑戦したり、ジェームズ・フランコが詩を詠んだりすると、冷笑する風潮がある。なぜ私たちは、分野をまたいで創造意欲を燃やす人たちに懐疑的な視線を浴びせるのだろう? ジェンダーの定義に関しては微妙な違いを認めるほど寛容になったというのに、二足のわらじを履く人には、なぜとやかく言うのだろう?